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平成22年4月22日 校正すみ

思い出の数々

佐々木哲男

 昭和19年9月飛行学生卒業、中型攻撃機の操縦教官となり、宮崎航空基地より松島航空隊(石巻市の近くの矢本町)に移動、飛行学生、予備学生、飛行練習生の操縦教育にあたった。午前、午後、夜間と一日中飛行機に乗っていた。

 昭和19年10月になると、台湾沖航空戦、捷一号作戦と戦局は益々急で、教育部隊も実戦部隊に協力する事になり、松島空の中攻21機が鹿児島の鹿屋基地、台湾の台中基地に進出し、実戦に加わることになった。

 昭和191023日午後、軍医1名、衛生兵10名を乗せて台中基地を出発、台湾南端のガランビ岬を眼下に見てルソン海峡を越え、比島のルソン島へ、出没するグラマン機に備えて20粍機銃(唯一の武器)の試射を行う。緊張の中、低空飛行で「クラークフィールド」基地に夕暮れ無事着陸、輸送の任務を果たした。
 1024日早朝、敵の空襲の恐れもありとの事で、真夜中に基地を離陸、午前6時頃「ルソン」島の北端リンガエン湾を過ぎ超低空で海面すれすれに台中基地に向う。我々より1時間遅れて基地を離陸した豊橋航空隊の一機(小岩井 博 操縦)がリンガエン湾上空でグラマンに撃墜された。残念であった。
 また、20年4月27日松島基地で夜間飛行訓練中、着陸態勢に入った所、滑走路上に飛行機を認め、着陸やり直しのため、一式陸攻の「エンジン」を全開したところ、左「エンジン」に火災発生、「エンジン」停止、右「エンジン」のみで上昇を図ったが、低空の為、機は左に旋回降下、晴天の暗夜で外は何も見えず、降下するうち一瞬農家の土蔵の白壁が右下に見えたので、地上7米位と考え、操縦かんを一杯引き上げたら、真っ暗な田圃(たんぼ)の中に見事着陸した。然し、50米位滑走して前輪を田圃土手にとられ、傾斜激突して機体は大破いた。搭乗員は全員無傷であった。白壁が見えなかったら墜落激突して全員殉職となっていただろう。
 終戦の日、松島航空隊の司令は兵学校で72期の主任指導官だった原田教官であった。「君たちはまだ若いので、大学に入って勉強し、社会の為に働け」と諭(さと)された。
 教官の教えを守って医者になり、現在もまだ診察に励んでいる。

 (なにわ会ニュース100号53頁 平成21年3月掲載)

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