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平成22年4月21日 校正すみ

352空奮戦記 

岡本 俊章

352空(佐鎮管下・大村基地)は、302空(横鎮横鎮管下・厚木基地)、332空(呉鎮管下・鳴尾基地)と並ぶ防空専任戦闘機航空隊として、昭和19年8月1日に開隊された。当時の本土防空に関しては、陸海軍中央協定に基づき、全般防空は、陸軍が担当し、軍港及びその周辺は海軍の担当となっていた。従って、352空は邀撃戦に関して西部軍司令官を経由して、作戦指導を受ける事になっていた。昭和19年6月15日には、空の要塞B2975機が早くも成都基地を出撃して、八幡製鉄所を目標に爆撃しており、九州方面は風雲急を告げていた。352空開隊当時の我々クラスは、41期飛行学生(戦闘機専修)過程を修了したばかりで着任した次の8名、伊吹明夫、泉本修、岡本俊幸、小林晃、沢田浩一、田尻博男、中西健造、森一義、(五十音順・敬称略)である。そして、小林は間もなく203空に転出し、代わりに上田清市(2座水偵から転科)が着任した。このうち昭和20年5月まで、僅か9ケ月の間に、戦死者5名、殉職者1名を数える結果となり、戦後まで生き延びた3名のうち、伊吹は平成12年に、中西は平成15年に他界し、何の因果か小生1人が平成18年の今日まで老残の身をさらす事となった。今はなき諸兄の往時を偲び、哀惜の情切なるものを覚えると同時に、ご遺族に対して、申し訳ないような思いを拭い去る事ができない、この期に及び、遅きに失した感は否めないが、戦時中を同じ航空隊で闘ったクラス諸兄の足跡を「なにわ会ニュース」に書き残すべき義務を感じ、非才を省みず、筆を執った次第である。

幸いに、352空の戦闘については、「海軍戦闘機隊史」(零戦搭乗員会編)に概略が記載されているほか、352空生き残りの有志(中西もその一人)による「第352海軍航空隊の記録」(B5112頁の小冊子)に記載されているので、全幅活用させてもらった。

 

昭和19年7月29日、第41期飛行学生(戦闘機専修)過程を修了し、佐世保航空隊付を拝命した前記8名は、揃って国鉄の特別2等車の客となり佐世保に向かったが、配置先は大村派遣隊という事で、また、列車を乗り継いで大村に向かい、大村派遣隊に着隊したのは、352空(佐世保航空隊大村派遣隊が母体)開隊日の8月1日であった。ところが、私は着任途中の車内で、かねて発症の痔疾を悪化させ、白麻の夏制服の臀部をべっとりと血膿で染め、高熱に悩まされながら、気息奄々(えんえん)の体たらくで、着任の挨拶も出来ないままに仮設隊舎のベッドにもぐり込むのがやっとであった。そして、一夜明けると早々に大村海軍病院に入院し、軽快退院までに約1ケ月を要した。退院してみると、泉本修君は、昭和19年8月25日、空戦訓練中の接触事故で大村湾に墜落し、殉職したばかりであった。同時に着任したクラスの面々は真っ黒に陽焼けして一層の精悍(せいかん)な面構えになっており、連日の激しい練成訓練を伺い知るに充分であり、入院1ケ月間の遅れを痛感し、やる方のない焦燥感を覚えた。ところが、後に、2代目飛行隊長に就任され、昭和20年3月31日の邀撃線で壮烈な戦死を遂げられた杉崎大尉(69期)が直接声をかけて下さり、連日1対1で各種空中戦の指導を受ける事が出来、入院中の遅れをなんとか取り戻せる見通しが出来たので、愁眉を開いた記憶が今も新しい。

この時期、352空の保有機数は、零戦45機から50機程度、雷電10機程度、月光5機程度、合計60機から65機程度で、搭乗員数は、初代飛行隊長、神崎国雄大尉(68期)、二代目飛行隊長、杉崎 直大尉(69期)の下に士官33名、准士官5名、下士官兵49名、合計87名程度で、士官33名の内訳は、上記2名の飛行隊長のほか71期2名、次に我々クラスの8名で、後はベテランの特務士官4名のほか、13期予備学生出身者という具合であり、飛行学生を卒業したばかりの我々クラスは、実戦の経験は勿論皆無で、操縦技術も未熟であったが、否応なしにリーダー的立場にあったわけである。そして、我々は甲板士官に任ぜられた沢田浩一君と、衛兵副司令に任ぜられた中西健造君を中心に、特に搭乗員の士気高揚に努力した。

時恰も、在支米空軍のB29 29機の内、24機(米側資料による)は、8月10日深夜から、8月11日の未明にかけて、長崎、佐世保地区及び、八幡地区に来襲したが、雲に覆われていて、目視爆撃をしたのは8機だけで、わが方の被害は殆ど無かった。

352空は月光2機を発進させたが会敵していない。(海軍戦闘機隊史による)ついで、8月20日在支米空軍B29、B17、B24、計13機が北九州に来襲の報に接し、352空は、零戦33機、月光4機をもって、佐世保、長崎方面の上空を哨戒し、零戦8機、月光1機が敵機10数機と交戦、B29、1機撃墜、B17、2機に相当な命中弾を与えたと報じられたが、確実な戦果は認められなかった。遠藤幸男中尉(302空から352空に派遣中)の月光は、敵B29延べ15機と高度5千米ないし、7千5百米で交戦、撃墜確実2機、概ね確実1機、小破2機の戦果を挙げた。そして、同機は被弾して済州島に不時着した。これが、352空初の邀撃戦果となった。(「352海軍航空隊の記録」から)。

なお、この邀撃線では、陸軍の防空戦闘機隊(可動87機)も全力出撃し、果敢な邀撃線を展開した。その1機(2式複戦)は敵編隊長機に体当たりし、その誘爆による他の1機も墜落している。陸軍の未帰還は2機、大破4機であった。

米側の資料によれば、八幡上空で猛烈な高射砲の射撃により、B29 1機墜落、8機が損傷している。日本機には3機撃墜され、内2機は休当たり機によるものである。夜間攻撃(別動隊)のB29 13機は八幡付近上空で、15トンの爆弾を投下した。B29は、前述4機を撃墜されたほかに、途中で10機を失い、95名が戦死もしくは、行方不明となっている。本土西部に対するB29の来襲は、この日の八幡空襲の後しばらく中断した。(以上、「海軍戦闘機隊史」 による)。

 

昭和1910月には、在支米空軍の情報が頻繁に入電する態勢が整ってきており、成都にある米第20爆撃飛行団所属B29が、九州地区へ来襲の動きがある旨の情報が、既に支那派遣軍から入っていた。果たせるかな、1025日には朝から頻々と成都を出撃したB29大編隊の情報が入ってきた。そして、洛陽から開封付近を東進して、連雲港地区(中国江蘇省)から済州島を経て九州方面へ進攻するお決まりのコースに乗ってきた。やがて「連雲港地区空襲警報発令」の報に接し、「遊撃隊第1待機」が発令された。いよいよ352空が開隊して本格的な大邀撃戦が展開されようとしており、我々72期の面々もそれぞれ編隊長での初陣を目前にして、身の引き締まるおもいであった。ついで九州地方を目指したB29の大編隊は済州島の西南端にある陸軍のレーダーに捕捉された。0930先ず、月光6機を哨区(長崎西方50浬)に発進させ、順次零戦16機を佐世保上空に、零戦25機及び雷電8機が大村上空に配備された。このうちB29に攻撃を加えたもの352空延べ54機、大村空零戦延べ23機で撃墜1機、撃破17機を報じた。わが方の損害は不時着3機、被弾5機で、21空廠と一部大村市街地に被害が出ている。

ついで1111日朝、支那派遣軍からの通報に続き、済州島のレーダーにより目標を捕捉した。大村上空で待機していた352空の零戦33機、雷電11機、月光9機、大村空零戦23機は、雪混じりの密雲を抜けて、B29を攻撃するのは容易ではなく、成果は挙がっていない。B29 29機は、雲高8500メートルの雲上から、レーダー爆撃をした。航空廠と大村空を狙った爆弾は24発が大村基地内に落下したが、損害は軽微であった。B29は1機が地上砲火で落とされ、4機が行方不明になっている。(米軍資料)。

 

1121日には、0838支那派遣軍から的確なB29の出撃状況がもたらされた。佐世保海軍地区では、0910空襲警報発令、その直後から大瀬崎、宇久島、田島岳のレーダーの順に目標を捕捉した。352空では、予め月光隊を前線に配置するため、0820から0930の間に8機を離陸させた。そして、0935男女群島上空の月光が次々とB29編隊を捕捉攻撃した。

352空飛行隊長 神埼国雄大尉率いる零戦31機、雷電16機は、0904から0920頃、逐次発進した。勿論72期の面々 (203空へ転出の小林を除く。上田は未転入)はそれぞれ零戦に搭乗して出撃。この日の雲量は6乃至9で7000メートルまで層雲があった。戦闘機隊は高度7500メートルで大村地区に侵入する米編隊を捕捉した。邀撃戦闘は味方戦闘機1、2機が敵の数機ないし、10数機の編隊を各個に攻撃する形で実施され、従来の20ミリ機銃のほか、編隊攻撃用として特に開発された30キロ三号爆弾を加えて果敢な攻撃を行い、敵米編隊を攪乱(かくらん)した。352空の坂本幹彦中尉は、零戦で三号爆弾を投下後、上方からの攻撃で銃撃した。さらに敵を追って、編隊外側のB29に上方から体当たりした。坂本中尉(71期)は前夜、期友に「体当たりする」と言い遺している。

大村空からは、零戦21機が発進、352空戦闘機と協同して邀撃戦闘を行った。この日、352空が9機、大村空が3機の撃墜を報じ、地上砲火による1機が記録されている。わが方の損害も少なくはなく、4機を失い、不時着大破8機を出した。幸いに、我々クラスは、被弾機はあったが全員無事帰着した。

この日の邀撃戦闘は、B29に対して海軍航空隊が初めて有効な打撃を与えたものである。米側資料によれば、この日はB29 109機離陸し、悪天候のため、大村に到達したのは61機であり、レーダー爆撃を行ったが、損害を与える事は出来なかった。日本軍戦闘機の抵抗は相当に盛んで、B29 1機が撃墜され、4機が未帰港となった。成都離陸時の1機墜落と合わせると、同日の損害は6機喪失、搭乗員51名を失った。この後、成都基地からの来襲は、1219日に17機、20年1月6日に28機で大村地区に対して行われたが、見るべき成果は無い。(以上、海軍戦闘機隊史から)

この1121日の邀撃線における坂本中尉の武勲は全軍に布告され、海軍少佐に特進した。352空に対しては、東久遷宮防衛総司令官及び、杉山佐世保鎮守府司令長官からそれぞれ部隊感状が授与された。

昭和1912月には、B29の単機や小数機による偵察行動が多くなり、連日、遊撃や哨戒行動をとらなければならなかった。これは、空襲のための綿密な偵察であり、その企図を粉砕する必要があったが、敵機の電探情報は殆ど無く、見張りの発見により発進する場合が多く、敵機の挿捉攻撃は困難で見るべき成果はあがっていない。

 

昭和20年の新春は、新年の造拝式の最中から敵機来襲の情報が入り、元旦から戦闘機隊が連日のように上空哨戒を行ったが、接敵不能で成果はあがっていない。ところが、1月6日には、在支米空軍B29の大編隊が大村方面へ来襲中との情報により、0904から1005の間に、折からの吹雪混じりの悪天候をついて、零戦30機、雷電12機、月光4機が出撃した。戦闘機隊は、五島列島宇久島の西方約50浬に集結中のB2970機を発見、攻撃を加えた。敵の梯(てい)団約40機は、大村に進入し、21空廠プロペラ工場の一部に投弾、損害を与えたほか、大村基地にも投弾、滑走路も被爆した。この戦闘の戦果は、撃破2機、黒煙を吐かしめたもの5機で、基地被弾のため零戦8機、雷電5機が出水、佐世保、目達原、熊本の各基地に降着し、6機が大破した。この戦闘でクラスの沢田中尉は雷電に搭乗、長崎市の西方上空で果敢な攻撃の後、壮烈な戦死を遂げた。他のクラス6名は勿論、邀撃戦闘機隊の中核として勇戦奮闘した。

私はこの日、上空で哨戒中、突然カウリングの間から潤滑油が吹き出し、風防が真黒になり、前方視界が殆ど効かなくなるとともに、エンジン停止の危険さえ感じる事態となった。幸いに佐世保航空基地が眼下に見えたので、急遽急速不時着を決意した。佐世保航空基地は、零戦が殆ど着陸したことがないと云う狭い基地であったが、必死の思いで無事着陸をする事ができ、安堵の胸を撫で下ろした。佐世保空から電話で不時着を報告した際、初めて沢田 君の戦死を知らされ、大変口惜しく、切歯扼腕(やくわん)の思いであった。そして、その後間もなく、私は飛行隊長 杉崎大尉から雷電隊に移るように命じられ、雷電の操縦訓練に専念することになった。

そして、3月27日、今度はマリアナ基地からのB29が九州東岸から侵入の報に接し、1025、零戦32機(うち大村空から12機)、雷電8機、月光2機が発進し、高度9千メートル付近で哨戒したが、敵機を邀撃できたのは、零戦5機、雷電4機、月光1機にとどまり、見るべき戦果はなかった。敵機も大村基地南側の21空廠方面を爆撃したのみで、当方にも大きな被害は無かった。

3月31日には、またもやマリアナ基地からB29の大編隊が大村方面へ来襲中との情報により、全機即時待機が令された。出撃にあたり杉崎隊長は、郷里の親友から贈られた懐剣を救命胴衣の間に収め、決意を秘めていた。やがて、1015 杉崎隊長指揮の邀撃戦闘機隊、零戦、雷電、月光計36機と大村空零戦10機が発進、地上指揮官の指示により高度9千メートルの哨戒高度に上昇中、予期に反して、1035頃、高度4、5千メートルで大村上空に侵入して来たB29の編隊を発見したが、時、既に遅く、有効な攻撃を敢行することは出来なかった。それでも、杉崎隊長は何とか熊本県三角上空で敵編隊を捕捉して、果敢に突入したが無念にも被弾、火を発して壮烈な戦死を遂げた。これには稀に見る善意に満ちた、心温まる後日談がある。

杉崎隊長機の墜落現場となった蜜柑山の地主さんは、収容洩れになった遺体の一部を発見して、氏名不詳のまま、埋葬して木の墓標を建て、ひそかに供養していた。やがて地主さんも変わったが、新しい地主さんも朽ちた木の墓標を石碑に建て替え、供養を続けていた。そのうちに杉崎隊長の遺体の一部である事もわかり、地元の有力者も動くことになり、墜落現場に程近い三角町千房に故・源田実参議院議員の揮毫になる留魂の碑が建設され、杉崎隊長の功績が顕彰されている。

(写真参照 掲載略)    続く

(平成18年9月・記)

(なにわ会ニュース9651頁 平成19年9月掲載) 

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