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平成22年4月23日 校正すみ

松井中尉の場合

「戦艦大和の最期の誤認記事」

七十八期 木暮賢三

 「針尾ニュース」第二十八号に掲載した『海兵予科のチンビラのその後』の中で、吉田満著『戦艦天和の最期』に書かれている「船べりに犇めく腕切断の汚名」の如く、それが定着してしまって歴史を誤らせることを恐れますと森島通夫氏への手紙に書いたと述べたが、この話をもう少し詳しく紹介して、これが、先輩の松井一彦元中尉(七十三期・「矢矧」と「濱風」の乗員を救助した「初霜」の救助艇艇指揮)にとって、全くいわれも無い汚名(誤認記事)であることを、期友諸兄に訴えたい。

「戦艦大和の最後」を読んだことのある期友は多いと思うが、巻末近くの次の一文の印象はどうだったか。

 

 『初霜救助艇二拾ハレタル砲術士左ノ如ク洩ラスー

救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、スデニ危険状態二陥ル

更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク、全員空シク西海ノ藻屑トナラン シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、ココニ艇指揮及ビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、犇メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬り捨テ、マタハ足蹴リニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢ヘナクノケゾッテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、終生消エ難カラン

 剣ヲ揮フ身モ、顔面蒼白、油汗滴リ、喘ギツツ船ベリヲ走リ廻るル 今生ノ地獄ナリ』

(以上 戦艦大和の最期「昭和27年版」より)

 

 講談調に畳みかける文語体は臨場感に溢れ、何も知らずに読めば、「戦場の緊迫した場面では、そういうこともあつたであろう」と信ずるほかはない。「これは、おかしい。」「こんなことがある筈はない」と疑問を持った寺部甲子男先輩(七十一期)が、「戦後文学の名作といわれる同書にも、元日本海軍軍人としてどうしても認めることのできない記述がある」として、「水交」平成十年十二月号に、『松井中尉の場合』〜船べりにひしめく腕切断の汚名をそそぐ〜と題して「そんなことは無かった」といぅ真相を掲載し、これをうけて、同 平成十一年五月号に土橋久男氏(兵科第四期予備学生、「大和」関係者を救助した「冬月」救助艇 艇指揮)が、『松井中尉の場合』考を寄せている。

私も松井一彦先輩にお会いして、この話について直接伺った。長くなるので省略するが、「そんなことは絶対に無かった」

「吉田満氏の手抜きかフィクションに違いない」と私は確信している。「水交」の記事を読まなかった期友のために、前記二編と私が直接伺った話を集約して、吉田満氏の間違いを説明する。

一 救助艇に軍刀は持って行かない。

松井一彦先輩は、「救助艇に出るのに軍刀を所持しようなどと考えてもみなかった。駆逐艦のカマボコ内火艇は甲板部分が狭く、そこが重油まみれだから、滑り落ちないように身を保つことだけでも大変。軍刀を片手に救助作業に取りかかるなどという非常識な行動をとるはずがない」と、断乎否定している。

そもそも「陸上戦闘中の救出作戦ではあるまいし、まさか邪魔になるばかりの軍刀を持って行くことはあるまいと、吉田満氏は想像出来なかったのだろうか。なお、海軍では、下士官は軍刀を持っていなかった。

 

二 「大和」が沈んだ後、緊迫した状況では無かった。

松井一彦先輩からは、「大和が左への傾斜を深め始めた頃から、敵機も攻撃をやめて様子を見守っており、初霜も砲塔の兵員たちが鉢巻き姿で上甲板に出て来て、敵見方共、静かに、今将に沈まんとしている大和の最期を見守っている状況だった。そして大和が沈むと、敵機は早々に引き上げ、残された冬月、雪風、初霜の三杯で沖縄突入を目指して走り出した。大和沈没から二時間以上たってのち、GFから『作戦を中止し、人員を救助して佐世保に帰投せよ』との命令を受け、大和沈没海域に戻って救助作業を始めた。そのときは海も凪ぎ、米飛行艇も射程外に着水してパイロットの救助をやっており、正に『戦い済んで』という雰囲気で、あの『小説』とは全く違う。救助作業は平静に行われた。」と伺った。

初霜艦長の酒匂雅三元少佐は、「救助は見渡す限りの浮かんでいる人たちを引き上げ、何度もフネに運び、生存者の全員を救助しました」と『駆逐艦初霜戦記』の筆者上原光晴氏に言明している。

土橋久男氏の「駆逐艦初霜戦記」の文筆からも、平静に救助作業が行われた模様がうかがわれ、「初霜の松井艇の場合も同じ状態だったと思う」と述べている。

なお、「初霜」が救助したのは「矢矧」と「濱風」の乗員で、「大和J関係者は「雪風」と「冬月」に救助されている。

『鎮魂戦艦大和』のあとがきの中から本題に関係の深い部分を抜粋してみる。

 ・・・・。このたびさらに二十余年をへて再販されるにあたっては、その後に公刊された戦闘詳報、戦記等を参照し、不正確な記述、公式記録の引用に増補修正をほどこして決定稿とした・・・・。

執筆の意図にてらして、三編がいずれも基本的には事実の上に成立つていることはいうまでもない.類推や修飾は最小限にとどめ、細部にいたるまで事実の検証には努力をおこたらなかったつもりである・・・・

昭和4911月   吉田 満

以上「鎮魂戦艦大和のあとがき」から

 

『戦艦大和の最期』は昭和二十七年に発刊され、これを読んだ松井一彦先輩は、ガダルカナル徴収作戦の際にこうしたことがぁったと聞いていたので、吉田満氏がそれと混同したのであろうと考えていたが、後になって、ガダルカナルでもそのようなことは無かったことを知り、吉田満氏のこの記述を見過ごすわけにはいかないとして、再版の話がもちあがった昭和四十二年に吉田満氏に手紙を出して、この部分の削除を求めた。吉田満氏から来た返事は、自分が得た事実をそのまま記述したことを強調し、二十二年前の話だから何びとも明らかでないとも言い、次の出版の機会に削除するか否か考えさせて欲しいと答えたまま七年後にはそのまま『鎮魂戦艦大和』に収録発刊し、その後書の中で、前記の如く『すべて事実である』と言いきっている。

そして、そのまま再版が繰り返されるうち、昭和五十四年に吉田満氏は他界してしまった。

吉田満氏は、当時の艦長、砲術長、航海長との対談という松井一彦先輩の提案についても、黙したままだった。吉田満氏は何故松井一彦先輩の削除要求に応じなかったのだろうか。

『戦艦大和の最期』初版のあとがきに、「この作品の初稿は、終戦の直後、殆ど一日を以て書かれた」とある。その時期は連合軍の占領下にあり、資料も乏しく、検証もままならなかったであろうが、それから『鎮魂戦艦大和』の発刊まで二十二年、松井一彦先輩の抗議からでも七年、最終改訂版までには更に四年もあり、本当にその気があれば、再確認するための資料にも時間にも不足は無かったはず、吉田満氏は、訂正する意志が全く無かったのではなかろうか。

寺郡甲子男先輩は『松井中尉の場合』の中で、「吉田氏は『あのようなことがあり得るのが現代の戦争の特質であり、それが個人の良心や責任を超えた非常のもとを描いた点で拙作の;の意味があつた』と言っているが、初霜救助艇事件は彼の論理を構成する象徴的な事件であったが故に、少なくとも悲劇が起こったのは初霜艇ではなく、惨劇の加害者が初霜通信士ではなかったことが判明した後も削除の要求に応じなかったのであろうと推測しており、土橋久男氏もこれに賛同している。では、砲術士某が艦名を間違えたか、または吉田満氏が聞き違えたか.如何に九死に一生の場面とはいえ、海軍士官が、自分を拾ってくれた救助艇の艦名を間違えることは有るまい。また、退却戦など緊迫した場面で味方の兵の指や手首を斬り放したという話は、なにも『現代の戦争の特質』ではなく、春秋、源平の昔から、戦争の非情さを象徴する出来事としてしばしば現われている。 松井一彦先輩が『小説』と喝破された通り、吉田満氏が虚構の話を取り込んで記述し、この件を外すことは正に点晴を欠くことになるとして、で虚構を承知で削除しなかったと、ストレートに推測するほかはない。しかし、事実と異なる記述は、ルール違反である。吉田満氏は潔くお詫びして訂正すべきであった。

この本は一九八五年に英訳されて、米国で出版されている。この本に事実と異なる記述が多々あることについて、訳者のリチヤード・H・マイニア教授は「最終改訂版にも事実上の誤りがあることは分かっていた。この本は歴史ではなく、吉田自身の経験と反省の回顧録であって、云々」と解説しているが、大方の読者は事情が分からずに読むであろうから、非人道的な日本海軍という虚構の話が世界中に伝えられるのは誠に残念、痛恨の極みである。

その中の一節)の巻末に、『戦艦大和の最期』について、「・・・まだ記憶も生々しい終戦直後に書かれているから、大和特攻の生き残りの彼の証言は最後の決め手となりうるだけの重みを持っている」と書いており、私が「海兵予科のチンビラ」の中の事実と異なる記述の指摘と訂正要求の手紙を森嶋通夫氏へ書き送る際に、誤った物語が書き物になってしまう恐さの例として、この話を使わせてもらったゆえんである。

この記事は七十八期の会誌「針尾」四十三号に掲載されたものを、大谷友之君の薦めにより、本人の了解を得て転載したものである。

(なにわ会ニュース87号42頁 平成14年9月から掲載)

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