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平成22年4月23日 校正すみ

昨日の敵は今日の友

浅村 晃司

 この話は、戦後間もない外地での苛酷(かこく)な体験談である。

 小生はトラック島の海軍警備隊の司令付であった。トラック諸島は南太平洋にある広大な珊瑚礁に囲まれた日本海軍の重要な基地であり、その中に幾つかの大きな島があり、それぞれ警備隊が配置されて居た。終戦の年の11月に米軍が進駐して来た。米軍の指令によって各海軍部隊は日本海軍航空隊が使用して居た飛行場のある春島に集結し、作業隊を編成した。それは千三百Mの滑走路をB29の様な大型機が発着出来る様に五百米延長する工事が米軍の主要目的であった。それから米軍が駐留するための居住施設の建設、道路の整備、水源地ダムの構築、その他色々な雑役もあった。毎朝、8時に作業隊は乙女峠の広場に集合した。間もなく米軍の下士官が来て無差別に必要な人員をそれぞれの受け持ち場所へ連れて行く。土木の現場は皆苛酷であり、作業員は大変怖がった。それに較べると仮設映画館や酒保の清掃炊事の仕事は楽で時には余り物をもらい喜んでいた。

 土木の中でも特にセーム・フローマン中尉の監督下にある水源地ダムの建設工事は苛酷そのものであった。フローマン中尉は24歳の青年で小生も同じ年で大尉であった。

 小生の仕事は作業員の監督、フローマン中尉との折衝、通訳で、若い士官が8人起居を共にしていたが、土木専門の士官が一度セーム・フローマンの現場で酷い目にあい誰一人行こうとしなかった。そこで小生はこの仕事をやるのは自分しかいないと思いこの仕事を最後まで全うしようと決意した。

 フローマン中尉には2人の陰険な部下がいた。我々はフローマンのことを鬼中尉と呼び、部下の一人をFOX(顔が長くて狐(きつね)に似ている)と呼んでいた。もう一人をMONKEY(顔が赤く猿に似ている)と呼んでいた。後で聞いた話だがフローマンの親友が沖縄戦線で戦死して居るので日本人を「ジャプ」と呼び敵意を持っていた。彼等は作業員を奴隷の様に扱った。作業員が少しでも手を休めると容赦なく罰を課した。重い石を一時間くらい持たせるとか、スコップで地面に直径60センチ、深さ1メートルくらいの穴を掘り、次に埋める。また掘って、埋める。この仕事を一時間くらいやらせる。正に真綿で首を締める様な罰である。

 小生は思いきってフローマン中尉にかけあった。

「兵士を罰するには日本海軍のやりかたがある。鉄拳制裁(拳固で相手の頬を思いっきり殴ること)でやらせて貰いたい。」と申し出た。

 彼はしばらく考えて「OK」と言ってくれた。早速兵士に告げた。これから若しフオックスやモンキーが君達を罰しろと言ったら「俺が頬を思いっきり二発なぐる」がどうかと提案すると其の方が良いと言って同意してくれた。完成まで2ヶ月毎日、約80名の兵士と力を合わせて頑張ったが、毎日2名くらいは、鉄拳制裁を心で詫びながらやったと思う。ある時昼休みに椰子の木陰で寝転んでいると「浅村大尉」と呼ぶものがいた。それは午前中に鉄拳制裁をした荒井という師範学校卒の下士官で小生よりも2.3年上であったかも知れない。混成部隊だから小生の部下ではない。名前はその時始めて知った。

 彼が「酒保のドラム缶の中で拾ったチョコレートですが食べられませんか」といって2センチ角で6センチくらいのチョコレートを二本くれた。「今朝はすまなんだ。チョコレート有難くいただくよ。あと暫くだ。復員までお互いに歯をくいしばって頑張ろう」といって彼の手を握り締めた。

 米軍の酒保ではチョコレートが少しでもかびていると箱ごとドラム缶に捨てるのを荒井兵曹が拾って来たのである。アメリカの物資の豊さに改めて驚嘆した次第である。

 さて此の鬼中尉と 4ヶ月位付き合ったが、 2ヶ月くらいたってダムが完成した時から小生を全幅信頼して米軍宿舎の周りの石積と周辺の芝生の庭造りを任された。作業員は全部沖縄人で兵士でなくて軍属であった。皆40才くらいの人で石積みがとても上手な20名くらいの集団であった。フローマン中尉も気に入っていた。ダム工事で沖縄の人達をよく見ていたのかも知れない。小生は気が付いていたのだが、兵士の方は、きつい仕事をやる時は一生懸命やつて早くすませゆっくり休むというタイプ、沖縄の人はゆっくり構えてコンスタントに働くというタイプである。フローマン中尉や部下の 2人の下士官は兵士よりも沖縄人のやり方が良いと思ったのかも知れない。だから沖縄人で罰を受けた人は一人も居なかった。だから小生に沖縄人20人の軍属をつけておけば監督する必要がないと考えたのかも知れない。そのかわり、道路工事の方は、フローマン一家に散々な目にあったと聞いている。

 その頃、アメリカ軍の司令部からこちらの司令部への文章の中に

1:ロード・コンストラクション隊長(道路建設) 川又中佐

2:ランドスケーピング隊長(宿舎庭師隊)      浅村大尉

と書いてあった。

 川又中佐は司令部のベテラン機関参謀で、小生は24才の若輩である。びっくり仰天であった。

 さてダムの工事では 2ヶ月の間作業員とともに徹底的に絞られたが、ダム工事が完成してからは次第に柔軟になり、小生を全幅信頼する様になり、時には雑談もする様になった。小生はやっと彼への誠意が通じたのかと、とても嬉しかった。彼とは最早敵ではなく同い年の親しい友人である。それから数ヶ月後、彼はアメリカ本国へ転勤することになった。春島の飛行場から軍用機で飛び立つ日、小生が日本人で唯一人米空軍の軍用機の側まで行って彼を見送った。彼から握手を求めてきた。「グッドラック」「シーユー・アゲイン」「幸福を祈る・又会おう」と再会を約して彼は飛び立った。63年経ち、未だ再会を果たしてはいないが、若し彼が生存しているならば是非とも会いたいと願って居る。

 余談になるが今から14年前の平成 7 6月、73才の時高山市で開催された英語スピーチコンテストで「昨日の敵は今日の友」と題して出場したが,昔の事が蘇(よみがえ)り感涙してしまった。閉会後審査員の一人、アメリカの青年教師が小生の肩をたたき「貴方のスピーチは興味深かった。フローマン中尉と再会出来たらいいですね」と言ってくれた。一人の見知らぬアメリカ青年からこんな暖かい言葉をもらって本当に嬉しく思った。

(注)この記事は2009年(平成21年) 827日(木曜日)浅村晃司君が地元の神岡ニュースに寄稿されたものである。

浅村晃司君は飛弾地区剣道連盟の会長を務めており、今年 830日下呂市で行われた第57回全飛剣道大会の時、元気で米寿を迎えられたのを記念して上の写真の手拭いを作成し配布された。 (編集部)

(なにわ会だより第2号46頁より)

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