平成22年4月19日 校正すみ
川久保4兄弟の戦死
左近允尚敏
川久保輝夫 | 左近允尚敏 |
兄弟四人が兵学校へ入ったという例がある。川久保四兄弟(鹿児島出身)である。
川久保の曽祖父は漢学者で、東郷平八郎が幼児の時、師事していたという。
川久保の父は、退役陸軍大佐で、日露戦争の時出征して、旅順二〇三高地の激戦で右小指を失い、大腿部に重傷を負った。彼は財部彰(十五期、大将)と同級生で、生涯二人は親交を続けていた。
川久保家には六男四女があり、男六人のうち、中の四人が兵学校に進んだ。
尚忠(59期、戦死後少佐)
航空に進み、日支事変が勃発する昭和十三年、水上機母艦「神威」の飛行隊長となり、同年五月十六日、南支厦門上空で九〇式水偵を駆って敵戦闘機と交戦の未、戦死した。彼は剣道三段で薩摩藩伝統の示現流にも長じ、童顔だが気品があり、水際立った男ぶりで、換縦技術は抜群といわれていた。
三郎(67期、戦死後少佐)
「ロ一一七潜」の水曹長として、昭和十九年六月十七日、あ号作戦中、サイパン島南方で敵哨戒機と戦闘の未、戦死した。
志郎(69期、戦死後少佐)
航空に進み、厚木航空隊の艦攻隊長であったが、のちトラック島に進出、昭和十九年四月三十日、敵機動部隊攻撃に飛び立ったまま、未帰還となった。
輝夫(72期、戦死後二階級特進して少佐)
昭和二十年一月十二日、兄尚忠と同期で、しかも幼いころから顔見知りであった折田善次艦長(59期、中佐)の「イ47潜」に同乗、人間魚雷回天によるホーランジア攻撃で戦死した。
かくて、川久保四兄弟は全員戦死した。
(なにわ会ニュース89号77頁 平成15年9月から掲載)