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平成22年4月18日 校正すみ

第二回天隊実記

 小灘 利春

二十年四月の初め頃か、灯火管制で暗い大津島の士官室で、たまたま指揮官板倉少佐と私の二人だけが向かい合って座っていた時、電信兵が一通の電報を回覧板に挟んで持参した。

一読した板倉少佐は「横鎮長官から回天一隊を八丈島に至急派遣するよういってきた。君、行け。」と、即座に私へいわれた。

歓喜の衝撃が背骨の下端から頭のてっぺんまで、一気に突き上げた。後にも先でも経験がないほど強烈な喜びであった。出撃すれば、そのあと僅かな日数で自分の生命は確実に断ち切られる。それはすでに覚悟の上。当時の戦局のもと、若人の使命を果たす意義が大きい。

回天部隊の搭乗員には、その喜びは、極めて自然な感情であった。激しい感動に暫し浸っていたが、ふと疑念が湧いた。「八丈島に、本当に敵は来るのか?」しかし、理性が効いて質問を呑み込んだ。「横須賀鎮守府長官は当然、根拠があって八丈に敵が来ると判断し、要請されたものであろう。

一中尉のとやかく意見を持ち出すべき問題ではない」と考え、納得した。八丈配備の回天隊は十二基編成。受入れ態勢の都合上、取り敢えす八基を派遣すると言う。出撃中の潜水艦が帰ってくれば自分の番と、それまで思い込んでいたが、陸上基地の隊であっても、回天十二基を率いるのなら光栄に思うべきである。何はともあれ、待ちに待った出撃であると心は浮き立った。
 
 
板倉指揮官の決断はいつも速い。開戦当時、真珠湾々口で防潜網に絡まりながら苦闘の末の脱出成功に始まり、幾多の困難な作戦に成功を収め、数少ない生き残り潜水艦長となられたことは、武運に恵まれたと言うよりは、動物的とさえ言うべき直感力、果敢な行動力に負うものと私は観察していた。少なくとも潜水艦、駆逐艦など第一線の艦長として最高の資質を備えた人物との評価は誰が見ても変わらないであろう。偶然の一場面にも現れた迅速な決断が、私を一転して八丈島へ向かわせたのである。隊の正式名は第二回天隊となった。

第一回天隊は同期の河合不死男中尉が隊長となり、隊員百二十七名。二十年三月十三日、光基地から八基の回天を第十八号輸送艦に積載、全員これに便乗して出撃したが、同艦は三月十六日正午、佐世保を発航、沖縄に向かったまま行方不明となっていた。沖縄西岸に敵の大艦隊が出現したのは三月二十四日。四月一日からは沖縄本島への上陸が始まった。八丈の至急配備も、事態が急追していると判断すべきであろう。 


編成

第二回天隊の搭乗員、整備員と兵器は、大津島と光の両基地で半分ずつ準備することになった。各先任搭乗員は大津島の私と光の高橋和郎中尉、下士官搭乗員は訓練が進んでいる甲飛十三期出身の六名が指名された。搭乗員の氏名は下記の通り。

海軍中尉        小灘利春   海軍兵学校第72期出身       大津島

同           高橋和郎   海軍兵科第3期予備学生出身       

海軍一等飛行兵曹    佐藤喜勇   第13期甲種飛行予科練習生出身 大津島

同              鈴木慶二     同                     

同              桜井貞夫     同                     

同              齋藤  恒     同                     

同              永田  望     同                     

同              山田慶貴      同                     

 基地員は横須賀鎮守府所属の下士官が発令されて次々と集り八丈へ出発していった。八丈島は日本三大要塞の一つとして、ラバウルと並ぶ鉄壁の備えを誇っていた。二十年二月、硫黄島に米軍が艦砲弾二十九万発を撃ち込んで上陸、迎え撃つ日本車二万は激闘二十六日の後玉砕した。米軍の死傷二万九千人。

 次に米軍が狙うのは優秀な飛行場を持つ八丈であううとは、関東を防衛する横須賀鎮守府としては当然に予測するとこうである。少なくとも、敵に取られては困る要衝である。事実、連合軍総司令官マツカーサーは沖縄戦の後関東に上陸する意図であったと言うので、横鎮の判断は的はずれではなかった。ただ、日本本土の攻略に慎重を期した米軍統合本部は西からの島伝い策を決定し、昭和二十年十一月一日、九州南部に上陸する計画のオリンピック作戦を米国大統領は承認している。関東平野にはその後にコロネット作戦として上陸し、東京へ進撃する計画であったので、八丈も早かれ遅かれ米軍の攻撃目標になったであうう。

 八丈に赴く第二回天隊の壮行式は五月八日、第二特攻戦隊本部のある光で行われた。見慣れた通りの型であるので戸惑う事もなく、淡々と行事が進行した。八名の搭栗員は湊川神社宮司の筆になる「七生報国」の鉢巻を着け、連合艦隊司令長官豊田副武海軍中将が揮毫された「護国」の短刀を第二特攻戦隊司令官長井満少将より授けられた。記念撮影も幾通りか行われた。大津島の隊員は、一旦島に戻ったあと、父母に最後の別れを告げるため、それぞれの故郷に向かった。

佐藤喜勇一飛書は実家が函館にあり、青函連絡船の安全が保証されないので帰郷を断念し、私と同行して五月十五日大津島を出立、途中呉にあった私の家に一泊して横須賀に向かい、爆撃を受けて途切れ途切れに運転される列車を乗り継いで十七日に到着した。一方光基地組は五月十日朝出て故郷に帰った上、横須賀に集合し、第二〇号一等輸送艦の入港を待って便乗した。同艦は五月二十一日大津島で、二十四日光で、それぞれ回天を積んだ上横須賀に寄港、三十日午後発、館山で仮泊し三十一日朝、八丈島洞輪沢の泊地に着いた。

 

横須賀から八丈へ

その間、横須賀では随分待たされた。私は到着次第、鎮守府に赴き八丈島に急ぎ渡りたいと申し入れた。対応して貰ったのは航空参謀畠山国登少佐であった。少佐は真剣に渡島方法を調べられたが、直くにはなかった。私の胸の中には第一回天隊の不運があった。同隊は搭乗員と回天兵器の全てを一隻の輸送艦に積み、一挙に失っている。我々の場合、危険分散のためでも兵器を分けて運んでくれとは言えないが、搭乗員が別れて海を渡ることは可能であり、その方が良いと考えた。あの頃、兵器は勿輪貴重であるが、訓練をつんだ搭乗員はそれ以上にかけがえのない戦力である。基地整備を急ぐため、少しでも早く島に渡りたい一方、万一を恐れて大津島の組だけが先発することに私の独断で決め、主張した。畠山参謀は横須賀鎮守府長官、戸塚道太郎中将に私を紹介された。激励の言葉を頂いたが、大柄で容貌魁偉、頼もしいかぎりであった。さて参謀には毎朝会って催促するが、一向に便がない。一式陸攻が八丈に飛んでいるとの噂を聞いたのでお願いしたら調べてもそんなものは無かったと叱られた。実際は館山航空隊から八丈に残した資材を内地に引き取るため毎日飛んでいたが、横鎮には知らさなかったのであうう。第一四五号二等輸送艦が我々の前に八丈に向け出港したが、艦載機の銃撃を受け蜂の巣の様に穴だらけにされて戻ってきた。

便乗していた第二回天隊基地員の先任下士斎藤三吉上等兵曹は戦死、赤地馨上等機関兵曹は負傷し退隊した。横須賀から一五〇浬足らずの八丈ですら無事に渡れると考えてはならなかった。  

朝、八丈行の便がないと判ると、その日は待つほが無いので出来る範囲で歩き回ったが、赴任途中のため搭乗靴のままであった。下士官搭乗員が市中で巡邏に咎められたので、私が証明書を書き携帯してもらった。 横須賀航空隊には海軍の巡回パスで行けた。訪ねてみると、我々72期のクラス首席である和泉正昭中尉が艦上攻撃機を操縦していた。九分隊伍長であった71期肥田 開大尉は艦上爆撃機の操縦、その他大勢の顔見知りがいた。実験航空隊であるから新型機が色々あって、二〇ミリ機銃四艇を背中に斜めに取り付けた双発機、ロケット弾を積む局地戦闘機雷電など回ってみると楽しかった。和泉は小学校のときの同級生でもある。その夜、彼は市内の料亭でクラス会を開いてくれ、八丈に敵がくれば一緒にやうう、自分も突っ込むぞと童顔を輝かせ熱っぽく言ってくれた。

海龍部隊は横須賀工機学校の中にあった。同期生が沢山居り話を聞いたが我々とは違って、なにかのんびりした感じであった。やっと八丈行があり、二等輸送艦であったが便乗した。機銃掃射にも安全な場所を探したところ、米袋を積んだ船倉が一番良さそうなので、士官室が狭いこともあり、格好良くはないがここを我々が陣取った。館山沖で仮泊したあと、島伝いに南下し、八丈島東岸の神湊に着いた。底土海岸の断崖が朝霧の中に黒々と見えていた。 

八丈島は繭の形をした伊豆七島最大の島で、南半分は10万年前の噴火で出来た標高七〇一米の三原山を包む、高い台地である。

太平洋の荒波に裾を削られて周囲の大部分が断崖になり、なかには二〇〇米の高さから垂直に海に落ち込む大絶壁もある。長い歳月の浸蝕をうけて険しい尾根と深い谷を刻み、大小の滝があるほど湧水が多く、緑豊かであった。北の半分は駿河の富士山と同じ頃の、一万年前の噴火の産物である。標高八五四米の休火山」八丈富士だけがあるような、水が全く出ない荒れ地であって、周囲の海岸は堅い溶岩である。南北両山地の中間は広い平地になって、赤い溶岩の砂を敷きつめた、海軍の美しい飛行場があった。 

20年2月、第2御楯隊の特攻機32機がこの飛行場から飛び立って散華した。彗星艦爆、天山艦攻の各隊長は同期生であった。今もある八丈空港である。

その平地の東端に神湊港、西に八重根港があり、両方が島の玄関であった。風の向き次第で、どちらか蔭になる方に船が廻る。敵の大軍が上陸できるような海岸は結局、これら二つの山塊に挟まれた平地の東と西の浜辺しかない。

さて、二等輸送艦に便乗して神湊に着いた搭乗員四人は、先発基地員が整備した底土基地に入った。三原山の崖が東の浜の南端に迫る底土海岸のこの基地には、回天を二本宛格納出来る長さ37米のトンネルが2本、それに発電機など補助機械を収める長さ20米のトンネルなどがあった。

トンネルからレールが延びて、海中に届くスリップ・ウェイまで続いていた。その硬い真っ黒な熔岩を爆破して削る作業が意外な難工事となり、完成が大幅に遅れたのが、我々の出撃決定から出発まで日数が掛かった原因である。

我々本隊の宿舎は、八丈島で最も大きい建物、蚕業試験場であった。江戸時代以前からこの島の租税であった特産の絹織物、黄八丈は最大の産業でもあったから、指導に当たる試験場は木造ながらも広く、立派な造りである。

日本3大要塞の一つと呼号するこの島を、防衛する陸軍1万9千人、海軍2千人。海軍部隊の本部は三原山中腹の、深い谷間にあった。雨が多いのでよく繁る樹木に隠れた、半分は横穴のような、湿気の多いバラックであったから、蚕業試験場に入れて貰った回天隊は島で一番大事にされたのであろう。

これだけの軍隊が居りながら、島で兵士の姿を見掛けることは殆どなかった。

延長実に69キロに及ぶ地下壕が、飛行場を挟む両側の山地に、縦横に地中深く、且つ立体的に巡らされ、兵員の大部分はこの土中の壕に住み、また掘り続けていた。

八丈島海軍警備隊の司令は中川寿雄大佐であった。戦艦大和の砲術長、海軍砲術学校教頭を経て着任された方である。

私の警備隊内の職名は第2特攻科長であった。先に到着していた第16震洋隊の、震洋艇50隻の隊長が私と同期の車田糖彦中尉で、第一特攻科長。先任将校が兵科3期予備士官の野崎慶三中尉、今の月刊紙「オールネービー」発行者である。搭乗員は、三重空乙飛19期出身であった。

回天8基と光からの搭乗員4人を乗せて八丈島南東端の洞輪沢泊地に入港した第20号輸送艦は、5月31日朝、先ず警備隊向け託送資材の荷揚げに掛かった。私も底土基地から洞輪沢に赴き、資材に続いて愈々回天を海面に下すことになったとき、空襲警報がかかった。輸送艦の艦長が大変な剣幕で飛んできて、私に「回天は兵器だろうが、輸送艦だって兵器だ。大切だから回天を海中に落として退避する!」と、噛み付くように言われる。

御尤もである。それに、積んだまま輸送艦が敵機に攻撃されたら回天も傷つく、咄嗟に判断した私は、「結構です。我々の作業艇で曳航して、基地まで持って行きます。回天は急いで下してください」と答えた。

艦長は、流石に「それでは役目が果たせぬ」と考えたのか、黙り込んでしまい、空襲にビクビクしながらも、回天を一基ずつ丁寧にデリックで吊り上げて、海面に下してくれた。ところが、最初の回天を載せた木製の架台が、重錘が外れて沈んでしまったので浮き上がり、回天が横倒しになって曳航出来ない。やむなく、ワイヤーを切り、艇体と架台を別々に曳航した。あと、錨泊した輸送艦が振れ回って、海面に浮べておいた回天に接触し、特眼鏡の屈曲、プロペラや鰭の曲損などの

損傷を蒙った。空襲警報の方は、B29の編隊が上空を通過しただけで済んだ。

洞輪沢で下した4基の行く先は、近くの石積基地である。八丈島唯一の灯台がある石積鼻の蔭の小さな入江に魚雷艇隊の基地が以前あった。崖下の格納トンネルは魚雷艇用だけに大きく、1本は長さ50米、2本が30米。ほかに居住用の壕などがある。コンクリートの斜路から、長いレールが引き込んであった。

5月31日1400、曳航してきた回天の引上げ作業を開始。幸い八丈では珍しいほど海が穏やかであったが、長いウネリが入ってくるので、切り離した架台に再び回天を乗せることからして難作業であった。1525、1本目揚収。照明がなく、月も出ない中で、深夜まで作業。翌1日未明から震洋隊の応援を得て続行、4基全部が水を切ったのは日没時であった。その時豪雨襲来、土砂崩れが発生、3日深夜に漸くトンネル格納を終えた。回天の損傷箇所は整備員が直ぐ修理にかかり、特眼鏡、プロペラなどの部品受取りに、飛行機便で整備員を内地に派遣した。

底士基地の揚収作業も、31日1900開始、徹夜の作業で翌朝0730、全基陸揚げを終え、壕内に格納した。大発4隻を使用、基地員、設営隊員のほか、作業員二〇〇名を別途準備してもらった。ウネリは小さいが、斜路にはやはり白波となって躍り込むので危険な作業であった。

回天と搭乗員が無事に進出する、八丈島での第一段階は何とか終えたが、予想外の事態が数々あったので、これから各地へ進出する基地回天隊の参考になるよう、経過や意見を急いで大津島、光に連絡する必要があると考え、直ちに進出報告書の作成に取りかかった。同時に、八丈進出の回天は12基であるが、残り4基分の基地はまだ竣工していなかった。回天隊長用に、弱冠21歳の身に勿体ない話であるが、真鍮の錨のマークが付いた青い四輪駆動の乗用車とサイドカーが運転手付きで配置されていたので、新基地の候補探しにこれらを使って、第三〇五設営隊長の早川楕技術大尉と一緒に島内全部の海岸を回った。 

底土、石積の両基地とも八丈の東海岸にあって、東の風が強いときは回天全部が発進困難になる恐れがある。その場合に備えて、是非とも西海岸に基地が欲しい。2基宛の、二が所が良いと考えながら丹念に探したが、艦砲射撃に耐えて、しかも発進しやすい場所はなかなかなかった。                                                              

島の西側の沖合に浮かぶ、八丈小島という高さ六一七米の火山が海から立ち上がったような、険しい無人島に行った。南端に大きな洞窟があり、入り口が海面すれすれに開いている。外海から全く見えず、広い内部で回天を整備し、随時発進できる。まるでSF小説に出てくる秘密基地のような、絶好の候補地が見付かった。これらを進出報告書に書き加えて、第2特攻戦隊あて送付してほしいと、司令中川大佐に承認をお願いした所、警備隊本部で謄写して送ってやるこの事。暫くして私がもらった控えには八丈警機密第一号ノ七 (3/15) と書き込んであった。

増備の回天4基は、新基地の造成が略終わる段階で終戦を迎えたが、現物が何時来るのか、搭乗は誰が来てくれるのが、結局聞く事なく終わった。

大津島では、第二回天隊も、私も、戦死したことになっていた由である。また終戦直後自決した故橋口 寛大尉は、遺書に戦没した同期の回天搭乗員の名前を書き連ねていたが、それに私の名前も入っている。回天は出撃即戦死が基本であるから、それは良いとして、後発の基地回天隊に役立つようにと、願いを込め急いで書いた私の26頁にわたる進出報告書は、16部謄写されたらしいのに、何処へ届いたか、検討してもらったのか、今では判らない。現存する八丈島進出報告書は、私の控だけのようであり、このほど防衛庁戦史室に寄贈した。

(若しもどなたが必要であれば写をお渡しします)

八丈島の防衛態勢

回天の使用方法について、警備隊司令と何度も打ち合わせをした。中川大佐は「回天が敵の戦艦をやっつけてくれれば、八丈を守り抜いて見せる」と、いつも力強い言葉で我々を激励された。太平洋の島々は、米軍が進攻して来る度に日本軍が玉砕し、島を奪われてきた。しかし、八丈島は徹底した装備の防衛陣地を構築しており、その自信から海陸の将兵は士気が高く、玉砕など念頭にないようであった。

だが、島の防衛では戦艦の艦砲射撃が一番こたえる。我々の働きに海陸部隊の期待が集まる状況にあった。 

回天の攻撃目標は、最初は空母、戦艦であったが、航行艦襲撃に移行してからは攻撃効果から言っても、洋上で遭遇する確率からも、主要目標は輸送船団になっていた。それが八丈では再び、戦艦なのである。本来、陸上の砲台と軍艦の砲戦は、軍艦のほうが不利とされてきた。         

陸側は砲台自体に敵弾が命中しなければ戦闘能力を失わないのに、軍艦側は砲身や砲台に限らず艦全体の何処に弾丸が命中しても戦闘力が減殺され、横腹に穴放開いて水が入って来れば、艦が沈没することにもなる。その点、散開して個々に独立している陸上の砲台が、軍檻と違って一挙に全滅するここもなく、戦闘継続能力の面で明らかに有利である。しかし、軍艦は砲を据え付けたまま自由に移動出来るので.、陸軍の野砲よりも大口径の砲を積むことが出来、射程も長い。近代軍艦では更に方位盤射撃を利用して一隻から八−十二発も一斉に、正確に飛んで来るようになった。弾火薬庫を持ち大量の砲弾、火薬を携行しているので、一回の攻撃で敵陣に打ち込む砲弾の総量が大きい。軍艦とくに戦艦の主砲の破壊力は第二次大戦になって格段に増大していた。陸上砲台も土台から、艦砲に挟られてしまう時代になった。戦艦の砲弾一発の重量は一トン前後ある。若し戦艦大和ならば砲弾の重量一.四五トン。九門の一斉射撃で合計十三トンもの弾丸が一団となって飛んで来ることになる。戦時中恐怖の的であった一トン爆弾の破壊力から想像しても大変な威力なのである。また、戦闘の局面では、基本的には兵力の優勢な方が勝つ。攻める側は攻撃する地点と時期を自由に選択できるので、大兵力の集中が可能であるのに対して、陸で待って守る方は兵力が分散するのを免れることが出来ない。島の攻防では結局、艦隊を組み集中砲撃を加える進攻側が、陸上砲台の利点を圧倒する様相に変わっていた。

だが、戦艦、巡洋艦の艦隊が陸上に対して艦砲射撃を行うときは、命中精度を高める為陸岸に近寄り、微速で、直進する。正に回天にとっては絶好の獲物ではないか!基地回天隊は、回天の新たな価値を発揮する可能性を握っていたのである。回天の襲撃では普通、速力、方位角などに多少の誤差があっても命中の確率を高めるため、敵艦の中央に照準をつける。しかし相手が大型で、ゆっくり動く戦艦ならば、主砲の砲塔群の直下にある弾火薬庫を狙うことができ、「回天乗り」の夢である{戦艦の一発轟沈}が航行艦の攻撃で実現する可能性は、基地回天隊に於いて最も高いのである。 

二〇年二月、硫黄島上陸に先立ち、米海軍は高速機動部隊の一部を八丈島攻撃に向かわせた。しかし発進した艦載機は只の一機も帰って来なかった。八丈側はこの空襲で高角砲弾を何と四万発以上、機銃弾も同数撃ち上げたのである。しかし、この時から八丈の高角砲は水平射撃用に転換し、壕に隠れた対地砲台になった。同時に海上を睨む砲も多くが海からは見えない場所に移動し、厚いコンクリートに被われた砲台になった。対空砲火は一部の二五ミリと十三ミリの機銃だけとなり、しかもこれらは隠顕式の機銃座になった。従って、敵の大軍が進攻して来ても、砲台は苦手な艦砲射撃への対抗は回天に依存し、飛行機や上陸用船艇もあまり狙わず、上陸してきた後の残滅戦に備えていた。敵が飛行場を狙って来るのは明白であるから、大半の火力はこれに集中できる配備である。それには飛行場の南北が高い山地なのが好都合であった。 硫黄島の守備隊は善戦し、米軍の予定を覆す一カ月余にも及ぶ、長く激しい戦闘となったが、その陣地構築を指導した陸軍の築城専門家がその前に八丈島に移り、地形を活かした大規模な洞窟陣地を築き上げた。肉体労働で掘り進める兵員の苦労は大変なものである。その地下陣地は今も残り、時折りテレビで紹介されている。

 海軍の対空レーダーが西岸の高台にあって、兵科3期予備士官の西村邦夫中尉が指揮していた。日本の本土爆撃に向かうB29大編隊が、気流の関係か低い高度で八丈島の真上を北上して富士山を目指し、雲があっても頭を出す山頂から岐れて目標地に変針して行ったようである。マリアナ諸島から島伝いに来て、大抵八丈の上空を通るので、敵機情報を送る海軍のレーダーは大活躍であった。しかし、八丈の砲台は沈黙を守り、山の中で炊事の煙を出す事すら禁止されていた。陣地の徹底的な秘匿を計っていたのである。回天隊も二五ミリ単装機銃を持っていたので、底土の洞窟近くの谷間に細い銃眼だけが見える陣地を拵えた。二〇センチ噴進砲(ロ夕弾)の供給も受けていた。米軍の攻撃も、同時に殆ど無かった。B29の一機が故障でもしたのか爆弾を清走路に拗りこんで引き返したことがある。やはりB29が一機、低空で神湊の港を銃撃したことがあった。

以前は屡々、小型機の機銃掃射があったと聞くが、私が着島後に見た攻撃は上記だけである。硫黄島がら来る小型機はP38、P39とP51の、陸軍機ばかりであったが、私が見たのは上空通過だけであった。あとB24コンソリデーテッド・リベレーターがひと頃は連日、低空で海岸線を掠めていた。底士の崖の上に立っていると、眼下を四発の大型爆撃機が背中を見せて悠々と通り過ぎ、操縦士の顔もはっきり見える。腹が立って、隊の二五キロ機銃を据えて撃ち墜してやろうと余程考えたが、司令の発砲禁止令があるので思い止まった。毎日のように見る敵機が攻撃して来ないのは、指示任務以外は手出しを許さない米軍内部の規定があるのだううと私は想像していたが、戦後判明したところでは米海軍は帰還ゼロの事実から「この島には何かある」と警戒して「八丈島を勝手に攻撃してはならない」との命令を出していたと言う。

 これには、隠された珍談がある。上記のように、発艦した全機が帰らぬばかりか行方知れずになり、不時着機乗員を救助する周到な措置にも係わらす、乗員や救命筏はおろか破片すらも発見できなかった。撃墜され、機体諸共海底に直行したのであろう。米国のプッシュ前大統領はグラマンTBFアベンジャー爆撃機に乗り小笠原島を攻撃して墜落し、味方潜水艦に収容された経験を持つが、八丈では誰も巧く行かなかった。これらが判ったのは戦後のことであり、当時日本側はパラシュート降下をしたのち遺体となって漂着した米軍飛行士一人を確認しただけであった。それで、対空射撃では飛行機は落とせないものと或いは諦めた事が、高角砲の水平射撃転換を促進したのではないかと想像される。

「戦争は、双方の錯誤の連続である」と言われるが、その端的な一例であろう。 

終戦になって直後、米軍の双発飛行艇PBMマーチン・マリナーが民家の屋根すれすれの超低空で飛び回った。私は「捕虜になった米兵を捜しているな」と直感したが、事実その通りであったようである。あと、武装解除の艦隊が来て、島で確認できたのは米兵の立派な墓一つだけであった。他の艦載機乗員はどうなったのか、占領軍総司令部は関係者を次々と呼び出して、食べられてしまったケースを含めて厳しい究明を行った。四〇人を尋問したが、それ以上何も出てくる筈はなく、米軍は調査を打ち切った。しかし全員消滅では都合が悪いと見えて、この事件は発表が無い。これまでの私の調査では、原著者がドイツ人の米海軍年記に「第五八高速機動部隊二月一六、一七日関東方面を空襲、喪失八八機」の記事だけを僅かに見た。

七月七日の夜、敵の機動部隊が八丈島の東方六〇浬を通過した。震洋隊は司令から出動命令が出て、艇隊は洞和澤の海面に一時浮かべられたのに、回天隊には連絡がなかった。

回天が攻撃できる距離は司令に申し上げてあったが、通ったのは真夜中でもあるし、八丈を攻撃にくる敵でなければ回天は使わない計画だからであろう。

 

島での生活

八丈は女護が島との伝説がある。島は生産力に限界がある為、男は長男以外は江戸、東京に出る風習があったと言う。一方女性は残って黄八丈の生産に携わるので、当然伝説通り八丈島は女性が多い筈なのに、内地疎開が進んで港に近い三根、大賀郷の村落では若い女性を全く見かけなかった。我々の底土隊の宿舎には男の子供ばかり集まって一緒に遊んでいた。ところが石積の隊では女の子達も来ていた。途中で疎開船東光丸が沈められると言う事件があり、「同じ死ぬなら島で死ぬ」と言い出す人がいて、島の南部の末吉村つまり石積基地の付近には老若の女性が残っていた。

石積隊の高橋和郎中尉、斎藤 恒、永田 望、山田慶貴の各搭乗員は一緒に、太平洋を望む見晴らしの良い民家で、まここに優雅な生活を送っていた。私も石穣基地に行くと大層御馳走になった。

鳥も適わぬ八丈島と言うが、ここまでは内地から何とが輸送がついていたので、食料にはさほど不自由は感じなかった。農業学校を出た生産隊員が遠くから毎日牛乳を届けてくれたし、底土の隊で豚や鶏などを飼っていた。 

搭乗員は士官と一緒に食事を摂るのであるが気のきいた従兵がいた。

平成三年のある新聞記事を引用すると、「お前は何の通信兵か。和文が英文か」

「自分は英文であります」 特攻隊員であった佐藤喜勇(六五)は色白の青年、石井との出会いを覚えていた。風呂場で背中を流したり、御飯をついだリ、特攻隊員たちの身の回りの世話を焼いてくれていた。夕食で僕の嫌いな肉が出ると、そっとサケ缶を持ってきてくれる……」、

この従兵石井 進一等水兵は背の高い、ほっそりとした感じで色が白く、黒目勝ちの瞳が印象に残る少年兵であったが、後に関東稲川会の会長として政界関与や株買占めなどで勇名を馳せた。

「自分は八丈回天隊の基地員であった」と彼は包まず言っていたとのことである。人間は地位を得たのち、自分の嫌な過去は隠す傾向があるが、彼の場合、当時の環境に良い感情を残していたのであろう。横須賀海軍通信学校をトップクラスの成績で卒業して回天隊配属になった。横振り電鍵を使って英文を送信したという。只、珍しい名前ではないので、広域暴力団の会長がまさか彼本人とは、亡くなるまで私は気付かなかった。

戦争終結

八月十五日、玉音放送があるので全員が聞くよう、警備隊本部から予め連絡があったので、底土の隊員は本部の蚕業試験場の広い板敷きの部屋に集まり、整列して聞いた。ラジオのスピーカーから流れる声は、妨害電波の所為か強い雑書が入って、途切れ途切れにしか聞こえない。陛下の御声とは思われるが、意味が全然掴めなかった。多分、「非常の事態につき一層奮励努力せよ」との御趣旨であろうと推察して解散し、私は直ちにサイドカーを用意して山の中の警備隊本部に向かった。

中川司令は

「これは戦争終結である。しかし背後に事情があるかも知れないし、また平穏裡に収拾がつくがどうかも判らない。これまでよりも、戦機は却って近づいたと思わねばならぬ。島に来る者は撃滅する。一層警戒を巌にし、士気を高揚せよ」

と私に指示された。

戦争が打ち切り、とは予想しなかった事態である。自分がどうあるべきか判断してきた基準が突如、消えてなくなった。先ず胸に浮かんだのは「自決」であった。

「死にたい」という感情ではなく、「死すべし」という冷静な思考であった。『国を守る』自分の任務を果たせぬうちに事が終わった申し訳なさが先に立った。また、これまで略一年、常に或る日数以上の自らの生は脳裏に無かった。共に死ぬ筈であった数多くの戦死した仲間、大津島の分隊員の顔が瞼に浮かんでいた。だが、明白な眼前の急務は、「敵が来れば戦う」事である。

来れば真っ先に回天が発進する。その機会が、この異変で一挙に早まるのではないか。司令の指示は納得できる。気落ちしていてはならないと自らを奮い立たせ、隊に帰り着くと状況を皆に伝えて、何時でも回天が発進できる構えをとった。

「貴様達の命は貰った!」と私が叫んだ。

搭乗員達が戦後、からかうのはその時の話である。

自隊装備の九三式全波受信機を自分の部屋に取りこんで、暇さえあれば内外の短波、中波の放送を聞いて情勢把握に努めた。通信兵が六名おり、各種電報を受信、翻訳しているが、さらに警備隊本部に時折行き、機密電報を調べたりして、事態が段々と飲み込めてきた。案の定、終戦後三日経ってからソ連軍が千島列島に侵攻、攻撃を仕掛けてきて双方に大量の死傷者を出していた。

敗戦のショックは、戦闘準備強化の時期を挟んでいたので徐々に来た。

隊内も、島内各部隊も、洋上の離島の為もあろうが混乱はなく、軍隊の秩序は復員が終わるまで整然と保たれた。私の自決の思案もうやむやになった。

八月二十四日、陸海の全軍が一斉に実弾射撃を行った。

苦心して折角徹底的な戦備を整えた各陣地の砲と機銃を、一度も火を噴く事なく放棄するのは無念であると、一日だけの集中射撃を実施した。

大型砲は殆ど、飛行場を指向していた。その日、各方向からの砲弾が空を切り裂くシユルシユルシユル!という音が、一時期途切れる事なく頭上を飛び交った。まさしく「十字砲火」である。

回天隊は底土海岸で搭乗員・士官は拳銃で、他は全員が小銃で、浜辺に並べた標的を撃った。今更事故があってはならないので、全部の銃口の向きに気を配りながら私が号令をかけた。基地員に多くいた中年の補充兵の動作も結構きびきびしていたのは嬉しかった。 

海軍全体の演芸大会も開かれた。飛行場に大きな舞台が出来て各隊が熱演、回天隊は丹下左膳の芝居を披露した。鈴木慶二上飛曹が左膳で大奮闘、女形の経験があるという整備員の山田登久男水長が櫛巻お藤、陸軍部隊にいた歌舞伎俳優市川紅雀丈の指導を受けた甲斐あって、見事優勝した。

石積基地の倉沢栄治主計兵曹も、転勤の時どうやって運ぶのか心配になるほど大型のアコーディオンを抱えて、玄人はだしの演奏をして二位。実力が人気かはともかく、入賞の上位を回天隊が独占した。

米軍艦隊の来島

米軍が来たのは十月二十八日であった。朝早く、見張り所から「アメリカの戦艦が現れた」との通報があったので、私はサイドカーに乗り西海岸、八重根の港に急行した。沖に浮かんでいたのは新鋭重巡洋艦一隻と大型駆逐艦三隻、フリゲート艦一隻の艦隊であった。

巡洋艦は三連装の二〇サンチ砲九門の俯仰旋回を繰り返し、我々を威嚇しているように見えた。この時、大発艇で米艦に赴いた中川司令は、戻るなり私に交渉状況を話された。大発が旗艦の舷梯に近付くと、米軍は近寄るなと制止し、上の方から「回天はどうしているが?」と聞く。

司令が「回天は信管を外し、動けなくしてある」と、機転を利かせて答えると「それなら上がってこい」と、やっと乗艦を許され、交渉に入ったとのここである。

回天を彼等が如何に恐れていたかの証明であろう。司令の返答次第では米国の艦隊は直ちに一斉抜錨、戦闘態勢をとったかもしれない。本当は、回天は何時でも動けたのである。

 

八丈島の武装解除は回天が真っ先であった。旗艦は、ソロモン海で日本艦隊に撃沈された、先代「ウインシー」の代艦で、塗装も綺麗などカピカの新造艦であったが、その士官が多勢ゾロゾロと底土海岸にやって来た。艦長が「回天を二分間だけ見せてほしい」と、鄭重に私に言う。二基ほど、壕の前の明るいレールの上に出していたが「どうぞ」と言うと、ハッチから艇内を覗き込んで、二分どころではない、長い時間見たあと感謝の言葉を述べた。

他の士官たちも代わる代わる覗いていた。米軍の士官たちは打ち解けて色々話を始めた。士官の一人に回天の戦果を聞くと、実に渋い顔をして「回天による損害は一切発表を禁じられている」と言ったまま口を開かない。知って居るのか、知らないのか判らないが、それ以上こちらも追及出来なかった。私から同艦に海軍兵学校出身者は何人乗っているかと聞いたら、艦長と砲術長がアナポリス兵学校出だと言う。

乗員は一二〇〇〜二二〇〇人乗っており、士官は何十人かいる筈であるが、上級の二人以外は全部予備士官とのことである。艦長はかなりの歳に見えたが白人は老けやすいのであろう。砲術長は背の高い、映画俳優のような好男子であったが、傲然と天を睨んで、我々のほうを見向きもしない。プライドが高すぎる厭な奴だな、と反発を覚えた。 

私の出身地を聞く士官がいたので「広島である」と答えた。本籍と出身中学校が広島市、自宅は当時広島に近い呉にあった。広い範囲で広島と言ったが、原爆を落とした奴等の反応を見たい気持ちもあった。士官達は一様に気の毒がってくれたが、後の方でふんぞり返っていた砲術長が、いきなり私の側に駆け寄って「両親は無事か?便りはあったか?」と、おろおろしながら聞く。「判らぬ。便りはない」と、本当だからこれしか言い様がなかったが、彼等自身も原爆が何たるか理解しているのだな、と若干心が収まると共に、昨日までの敵、米国人が共通して心に持つ善意を知り、目が覚める思いがした。

武装解除に来ても、私は米軍に頭を下げない積もりでいた。確かに日本海軍は、結局は徹底的に叩かれて終わった。だが、「回天は敗けていないぞ」と言う自負があった。しかし米軍は以外なほど我々に低姿勢なので、拍子抜けがした。海軍同志の誼で紳士的に振る舞うと言った感じばかりでなく、明らかに回天に対しての敬意を示してくれた。

『軍人としてそれぞれ国家のため戦う義務がある以上、意気地の無い軍人は軽蔑され、良く戦う者は、敵味方を問わず尊敬を受ける』と言う事であろう。

クインシーの副長は穏やかな人物で、特に親切にしてくれたので、日本酒を一本進呈しようと言ったところ、丁寧に押し止とめ「好意は有り難いが、アメリカ海軍は艦内では酒は一切飲みません。日本海軍は軍艦で酒を飲んだから負けました」と言った。

聞いた瞬間、相手の暖かい好意がジンと伝わって来た。双方の海軍に、実力ではどれ程の差もなく、僅かなことで勝敗を分けたにすぎないと、慰め且つ敬意を払ってくれていると感じた。

酒は人を陽気にさせ、ストレスを消す結構なものであるが、過ぎれば緻密な思考力を失わせる。有事に際し最大限の能力発揮を求められる軍艦では、やはり飲まぬに越したここはあるまい。因みに、戦後日本の自衛艦は酒を積んでいないと言う。尤も、ワインシーの別の士官は貰った一升瓶をジャンパーにくるんで、喜色満面といった嬉しそうな顔をして艦に帰って行った。色々あるわいなと思ったが、それはそれ。

回天の処置

底土基地見学に来た翌朝、米軍が来て回天の武装解除が始まった。最初、米側は「トンネルの中で全部爆破する」と言ったが、私は「処分ならば、自分たちの手でやる。だが、回天の火薬は一基で二・六トンだがら、山が吹っ飛ぶ。民家が迷惑するから駄目だ」と拒絶し、実用頭部を切り離して海中に投棄し、胴体だけをトンネルに納めて爆破するよう主張して、その通り決まった。頭部は四本とも、底士の溶岩を削った斜路から次々と海に落し込み、トンネルに残る胴体は、自分たちの分身を葬るように我が手でダイナマイトを仕掛け、スイッチを入れた。轟然たる爆発音と共に洞窟の入り口が崩壊し、中に入っての確認は出来ない儘に米軍はOKした。

石積基地の回天も同様、切り離した頭部を斜路から滑り落とそうとしたが、ウネリが入ってくるので、多数の人員が海に入り声を揃えて押して行っても、海底に落込まない内に、次のウネリで又コロコロと転がり戻ってくる。立ち会いの米軍下士官まで裸になって一緒に押し、これを繰り返していたとき、ウネリで躍った二・四トンの実用頭部が私の目の前で搭乗員桜井貞夫上飛蕾を直撃、彼は頭に裂傷を負った。ただちに、基地近くの末吉陸軍病院で手当てを受けた後、彼は暫く各地の海軍病院で治療を続けたが、「その年齢で上等飛行兵曹とは、余りにも進級が早すぎる」として官暦詐称の疑いを受け、苦労した由である。

私と一緒に底土基地からわざわざやって来て、危険な作業の先頭に立った、人一倍真面目であったが為の災難であった。

石積基地四基の胴体もトンネルに納めて爆破し、全回天の処置が終わったので、以後私は海軍部隊を代表して武装解除の折衝に当たった。米軍代表と一緒に島内の陣地を廻って処分方法を決めて行くのであるが、彼等は持ってきたジープの、運転席と反対側の右席が最上だといって、私の指定席にしてくれた。八センチ砲、十二センチ砲や機銃が八丈の民家に多い石垣の間など、思いがけない所に隠れて多数配置されていた。巧妙さに案内する私の方まで驚いたが「爆破すると周囲の民家が傷む」と私が言えば、米軍はそれぞれ砲身の一部を溶断するだけで済ませてくれたのは有り難かった。南北の山地を繋ぐ平地の中央から南の山中に上って行く防衛道路という大きな道があって、それを登った中腹に陸軍、海軍の司令部がそれぞれあった。戦闘になった時、その入り口の急な坂道を爆破してしまえば、あとは戦車が登れない崖ばかりになる。その防衛道路の途中に、最も重要と言える堅固な砲台があり、細い隙間から一四センチほどの砲口が飛行場を向いていた。その時の武装解除指揮官はグイン中尉と言ったが「爆雷を使って爆破せよ」と言う。砲台員達は厭な顔をしているし「砲台は使わなければ何れ埋もれてしまうから砲身を使えなくすれば済む」と私は言ったが、それまで提案通り承認してくれていたのに彼は只一言「トラーイ!」と叫んだ。結局砲台員に爆破するように伝えその場は済んだ。後で見ると砲台が割れていた。米国人の思案より先ず手を出す積極性を教えられた一幕であった。

 

復員と弾薬爆発事故

十月に復員が始まった。警備隊本部では「最初に回天隊が帰国してくれ」と言う。「最後に島に来た新参者が、真っ先では申し訳ない」とは思ったが、隊員の為には遠慮しない方がいいと思い有り難くお受けして、私だけ最後まで残ることにした。優遇されたのか、物騒な連中だがら早く帰せ、となったかと考えたが、多分、中央からきた復員要領に特攻優先(?)と書いてあったのであろう。

石積基地にいた隊員も蚕業試験場に移って来て底土組と合流、復員を待った。その半数が海軍最初の復員船に乗り、残りが十一月九日に、神湊海岸の芝生の上に整列して乗船を待っていたとき、いきなり目の前の波止場で大爆発が起こった。大量の弾薬を此処で連日大発に積み込んで沖合に投棄しており、こぼれた黒色火薬が岸壁の上に厚く溜まっていたという。作業立ち会いの米兵が煙草の吸い殻を捨てた瞬間に爆発したと聞いた。山のように績み上げられた砲弾、火薬に引火して、爆発が連続花火のように切れ間無く続く。我々には為す術もなく、帰国直前に隊員が怪我をしても詰まらぬので、破片が飛んで来ない所まで退避して、鎮まるのを待った。陸軍の兵士が二四人、無惨にも故郷に帰る日を前に犠牲となった。負傷者は約四〇名と言う。

米側も喫煙の当人が行方不明のほか、草むらの中に一人、着衣が全部燃えしまったのか、脱ぎ捨てたか、裸の白人兵が虫の息で倒れているのを発見し、米軍下士官を捜し出して渡した。病院に収容されたが、全身火傷で助からなかったと言う。二〇歳前の少年兵のようであった。阿鼻叫喚の港で、作業中の兵士たちは海に飛び込んで逃れた。港内の狭い水面に点々と頭だけが黒く浮かんで見えた。

「早く泳いで逃げてくれ」と心の中で叫ぶが、その黒い点は殆ど動いているように見えなかった。泳げない人も多かったのであろう。その時、灰色塗装の米海軍の大発艇が、一面の黒煙に包まれて暗い中、爆発が続く港の狭い水路に乗り入れ、機敏に一人一人拾いあげて廻った。急激な前進・後進を繰り返すエンジンの、グォングォンと腹に響く唸りは今も忘れられない。一人だけで舵輪とクラッチを操作して大発を操縦し、数人が艇首で日本兵を引揚げていたが、彼等の勇敢さ、敵軍であった兵士達でも命懸けで救助する人道的精神に、私は深い感銘を覚えた。

ソ連許し難し

全島武装解除の作業も終わる頃、八丈島支庁長の世話で行政の中心、大賀郷にある旅館で、米軍士官達と我々海軍側の若手士官との懇談会が開かれた。日本酒のほかに八丈名物の焼酎が出たと思う。途中、私は立って「このたびは、アメリカを理解する機会を得て、今はもう敵愾心は消えた。

ソ連の行動は、私は容認できないのであるが」と、ひとこと感想を述べた。相手の同盟国への非難が当然反発を買うと覚悟しながらも、私は言わずには居られなかった。たちまち、猛烈な反応が沸き起こった。何とそれは「米国は今直く起って、ソ連を撃て」と言うのである。和室なので座布団に座っていた米軍士官が、口々に叫ぶうちに興奮が高まり、全員立ち上がって拳を振り、真剣な気勢を揚げていた。

ソ連は、日本が行詰まったのを見て、二発目の原爆投下の日に、日ソ不可侵条約を一方的に破って侵攻、わずか一週間の戦争なのに、終わった後までも火事場強盗を働いていた。世界が漸くにして得た安寧を再び撹乱するソ連に対して、たとえ味方でもその暴虐に怒る米国人の率直な正義感を、私はまのあたり見た。思いがけない成り行に驚きながらも、一層の共感を私は深めていった。

 

大津島に帰る

生きて出るここはないと思い定めた八丈島である。初めて島影を見た時「自分の命でこの島を護り抜くぞ」と胸の中で誓った、その美しく清らかな島を、父母の安否も判うぬ状況にあった私は、後ろ髪を引かれる思いで離れた。

十一月下旬、司令ほかと共に海軍最後の引揚船、東海汽船の橘丸に便乗して神湊を出港、伊東の港に到着した。伊東館という木造ながら大きな旅館が海辺近くにあって、八丈島海軍部隊の受入れ本部になっており、ここに荷物をおいて東京に出掛けた。海軍省に出頭して司令より報告、私は人事部の尉官担当、福地誠夫中佐から「解員・帰郷」の指示を受けた後、ひとり大津島に向かった。懐かしい島に着くと、活気に満ちていた基地がひっそりと静まり返り、知っている顔は主計長の窪添龍輝主計大尉だけであった。私を見て「幽霊ではないか!足は…あるんだろうな?」とのご挨拶。冗談を言う、と思ったが、どうも本気だったらしい。

十九年九月六日の大津島着任に始まった回天の勤めに、二十年十一月末日、再びは帰ることがなかった筈の島に立ち戻って終止符を打ち、茫漠たる気持ちで戦後の人生に入っていった。

今年も終戦記念日が近づいた。

戦争の歴史が風化しようとしている今日、戦史を語る人の話ほど重量感のあるものはない。小灘氏が敵≠フ米兵と接することで変化した意識には、ここで改めて考えさせられる。 

八月十五目の玉音放送は、隊の兵舎にあてていた八丈島三根村の蚕業試験場で聞いた。即日、司令から連絡があったので、私たち回天隊員は整列してラジオに聞き入ったが、電波の妨害でもあったのか雑音がひどくて、ところどころしか開きとれず、何か重大な事態を迎えたので、非常の手段によっても一層奮戦せよといわれているような印象であった。

三原山の中腹の谷間にある海軍の警備隊本部に行き、司令中川寿雄大佐にたずねたところ、「戦争終結である。しかし背後に事情がおろかも知れないし、また、平穏裡に収拾がつくかどうからわからない。戦機はこれより、かえって近づいたと思わわねばならぬ。島にくるものは撃滅する。一層警戒を厳にし、士気を昂揚せよ」と指示された。

五月に島に渡ってきてから内地爆撃に向かうB29の編隊が頭上を通過するだけで、ただ来敵を待っていたわれわれには、まったく意外な出来事で惑乱を覚えるが、ともかく司令の指示は納得できる。急速に戦闘準備をととのえ、われわれの回天が基地の洞窟から洋上の敵艦めがけて、いつでも発進できるかまえをした。

「貴様たちの命は貰った」と私が騒いだと、当時の搭乗員がいうのは、このころだったのだろう。八丈鳥には木原少将麾下の各種部隊、兵力二万余。海軍は八丈島警備隊と設営隊約二千名が配備されていたが、混乱もなく、軍隊の規律を保持して整然と復員をおえたのは、離島という条件のほかに、右のように、一挙に虚脱状無におちいることがなかったからと思われる。

 

終戦秘話

十月になって望楼から戦艦接近の報があった。行ってみると米国の重巡クインシーと駆逐撃二隻、フリゲート一隻で、島の武装解除にきたのだった。

沖の艦は主砲の俯仰旋回を練りかえし、われわれを威庄するかの如くであったが、私が渉外係となって八重根の港に行くと、日本兵がたくさん見ているなかで、若い米兵が一人だけ呑気そうに立っており、交代がくるとヘルメットをポーンと投げわたしていた。彼のズボンの膝はさけてパックリ口をあけたままで、服装態度に厳格なわれわれには奇異な感じであった。武装解除の指揮者はクインシーの副砲長で、求められて握手をした手は柔かかった。

「俺は敗けていない。終戦前にきておればお前たちは回天の餌食だったろう」との自負で控えたが、われわれの敵の概念とはどうもちがっていて拍子抜けだった。武装解除の手はじめは、われわれの回天からとなり底土と石積の基地で、一・六トンの火薬を詰めた頭部は、つぎつぎと切りはなして海中に沈め、胴体は洞窟に納めてダイナマイトを使い自らの手で爆破した。あるときわれわれが処分の立合いに向っている途中で、陸軍側が勝手に爆破をはじめたことがあった。

いきなり車の近くで大爆発が起こったので、米軍将校たらはあわてふためいて、なにか聞き取れぬ言葉で私をこずくばかりである。車を傍らの道に入れさせたが、破弾の破片が降ってくるので、またもや逃げだしたけれども、その間私はまったく恐怖を感じなかったので、アメリカ人は意気地がないんだなあと内心軽蔑した。ところが、武装解除のおわりごろ、悲劇が起こった。

三根の港で弾薬投棄作業中に、米兵がたばこをすったためというが、とつじょ埠頭で大爆発が起こり、山と積まれた火薬、砲弾がつぎつぎと引火爆発をつづけ、この世の地獄の有様になった。米兵ふたりと復員寸前にひかえた陸軍の兵士十数名が死亡したが、そのとき米軍の上陸用舟艇が、黒煙に掩われつぎつぎと火を噴上げる波止場のすぐそばに近づき、海中に逃げて泳いでいる日本兵を艇内に引揚げてまわった。自己の危急から逃れようとあわてるさま、そして他人の生命を救おうとしての挺身ぶりが自然に併存しているのを覚り、

私は深い感銘をおぼえた。

八丈回天隊実記・断章

小灘 利春

◎彩雲隊の飛来

或る日、高速を誇る新鋭の艦上偵察機「彩雲」が数機、八丈の飛行場にやって来た。あれだけの数なら、乗員の中に同期生が多分いるだろうと思い、隊の乗用車を出して飛行場の庁舎に行ってみた。やはり一人、加藤孝二大尉がいた。

一緒に蚕業試験場の回天隊宿舎まで来てもらって、夕食を共にしながら歓談した。大規模の航空特攻作戦を実施するため、偵察機の一隊が予め八丈島に進出し、気象調査と発進、誘導の準備に当たっているとのここである。

楽しい一夜であった。その情景は瞼に残っているが、なにを話したかは思い出せない。どちらからも深刻な話題が出なかった為であろう。大津島でのクラス同志の会話がいつもそうであったように、朗らかな雑談ばかりであった筈である。

今でも加藤は「あの時はすいぶんと御馳走になった」と言ってくれるが、変わった食べ物や、手の込んだ料理があるわけではない。ただ海の幸、山の幸が新鮮であり、量は豊富に出てきたと思う。当時の内地から見れば、それが値打ちだったのかもしれない。

八丈では震洋隊長の吉田義彦大尉が同期生であるが、島の南端、洞輪沢の崖の下にいるので滅多に会うここがない。島外からやって来た同期生は結局、この時の加藤一人であった。

 我々が八丈島に着いた頃、飛行場には毎日のように一式陸攻が単機でやって来た。見事なのは、彼等は敵機の目を避けて海上をかなり低く飛んで接近し、そのまま滑走路に滑り込んでいた。飛行場の上空を回った後、遠くから高度を徐々に下げて進入する通常の着陸方式を執らないのである。操縦員の練度が高く、且つ何も積んでいないので可能だったのであろう。

燃料、資材を積込んで内地へ運んでいた。ある時陸攻の乗員が「何かプツ(物資のここ)が欲しい。牛がおれば機内に積んで行きたい」と、飛行場を管理する警備隊の士官に掛け合っているのに出会った。

人口一万人足らずの八丈島に、牛が戦前は二万頭もいたのである。多くは乳牛であり森永乳業の工場があったが、戦争になって閉鎖したので、既に減っていたであろう。いずれにしても、警備隊が飼っている牛はないので、いきなり欲しいと言われてもどうにもならない。警備隊の士官は苦笑いして黙殺した。私は時おり飛行場の見物にいったが、これら飛来する陸攻に同期生は乗っていなかったようである。

 艦上攻撃機の主力となっていた「天山」の隊も航空燃料が沢山残っている八丈島に交代でやって来て、燃料を満載して飛び立ち、洋上に浮かぶ孤岩、蘭灘波(イナンバ)島を敵艦に見たてて魚雷攻撃の訓練を繰り返していたと、最近になって聞いた。その雷撃機隊には同期では山下茂宰ほかがいたようであるが、いつも夜間の離着陸だった由なので私は気が付かなかった。

 これも戦後に知ったことであるが、我々が行く前の1911月から2ヵ月間、第三〇二航空隊所属の双発夜間戦闘機「月光」の三機が厚木から八丈島に進出していた。B29撃墜王として勇名を馳せた遠藤幸吉大尉がいたこの一隊の搭乗員として、クラスの柴田英夫の名前が島に残っている。

 

◎新聞記者の来島

20年の7月であったか、新聞各社の記者団が島にやってきた。その頃では取材に行ける最前線だったのであろう。彼等は島内を廻って、陸海軍を活発に取材し、写真を撮っていた。

回天隊にもやってきて、底土基地の斜路や八丈富士を背景にして朝日新聞のカメラマンが我々搭乗員八名の写真を撮ってくれた。目映のカメラマンは「訓練が終わって基地に戻ってきたところを想定して下さい」と言って、搭乗員が一団となって歩く姿に向けて環影機を廻していた。

彼等と海軍警備隊幹部との会食に私も同席した。酔うほどに芸達者振りを発揮し始めた彼等は、軍部をからかうような芸を平気でやる。新聞記者たちの才気と図太さを存分に見せ付けられた。

そのうち求められて、無芸の私は止むなく童謡をひとつ歌った。大津島を出て横須賀に向かう途中、親に別れをそれとなく告げるため自宅に一泊した時、繰り返し童謡のレコードを聴いた。これが特攻に向かう自分の心情に一番ぴったりしていたからである。途中まで歌った時、新聞記者たちはいきなり私を隣室に引っ張り込んで「今の童謡の歌詞を書いてくれ」と、ノートと鉛筆を突き付けて迫る。抑えて飲む僅かな酒が急に回ってきて、うろ覚えの歌詞が急には出てこない。ウンウン言いながら、

月の兎は何見て踊る 盆の灯籠 見て踊る

 サア 見て踊る・・・  ≠ニ、なんとか書き上げた。

 続いて「貴方の死生観を是非」と来た。それについては大いに言いたいことがあった。再びは帰る事のない特別攻撃隊の隊員は、最も重大な「自分は何のために死ぬが」という問題を、それぞれに考えて自身が納得した結論、覚悟を心の中に築き上げている。死生観は各自が出す人生の結論であるがら、人により異なって当然である。私の場合、戦中にしては特異な、天皇陛下への独自の思いを含むものであったので、考えてみると記者に説明しても、まともに理解できなかったであろう。さりとて、型に嵌った文句は無意味である。私は遺書なるものを書いていなかった。これが家郷へ、日本の国へ、自分の言葉を残す唯一の、また最後の機会であろうと思いながらも

「私は確固たる死生観があって行動している。だが言えない。いや、言わない」と突っ撥ねた。

この死生観は、今なら問題ないが、かの戦中ではやはり発言しない方が良い。詳しく述べないと誤解を招くので、この件は纏めて別記するつもりである。

猛者揃いの中でも、日本経済新聞の記者が一番逗しかった。名前は時々思い出していたが、今は一寸浮かんで来ない。

戦後、我々を撮影した映画のフイルムの所在を尋ねたところ、終戦の時焼却したと言う。朝日新聞の写真の方は、戦後20年経って一部を焼増しして貰うことができた。

 

 

◎神楽桟(カグラサン)

八丈島の港湾設備は、当時は地形上あまり整備が進んでいなかった。その頃の内地の一般漁港とて、充分な防波堤がないのは同様であろうが、違うのは台風が来た時の風浪の程度である。八丈では荒天のとき、漁船を全部高い岸の上まで引き揚げていた。そのため島の船は、捲き揚げる神楽桟の力量の限度である八トンに大きさが抑えられると聞いた。丁度回天と同じ重量なのである。

回天も基地に揚収するとき、やはり神楽桟で牽いた。

こちらは鉄のレールであるが、八丈の漁船の場合海から岸の高い所まで、コンクリートで横方向に固定した丸太が並んでいた。

神湊も狭い港で漁船しか入れず、荒天の時はやはり全部の船を陸上に引き揚げると聞いた。

島にはまた、日本では此処だけという片側に浮舟のついたカヌーがあった。

岸の近くに浮かべて海に潜り、魚やとこぶしを捕る島の男たちをいつも見かけた。

一人から、「八丈の男は損ですよ、毎日海に潜って。女は家の中で黄八丈を織って、いつもお喋りしている」と、こぼされた。

我々の思い及ばなかった生活の一面を聞かされたが 

「それで島の女性は日に当たらず、評判通り色白の美人ぞろいになるのだろう。それなら一緒に暮らす男性もまた結構ではないか」と、

平時の幸せな島の日常に思いを馳せた。

 終戦になって、我々も底土の海岸で泳ぎ、海に潜った。島の少年が貸してくれた手製の水中眼鏡で、岩の間を泳ぐ南海の色鮮やかな、美しい魚たちに初めてお目にかかった。私の全く知らない世界であった。ささやかながら「未知一との遭遇」の感動を覚えた。

(なにわ会ニュース75号13頁 平成8年9月・76号24頁 平成8年9月から掲載)

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