2006年2月記
東部ジャワ海軍部隊終戦後帰国までの概要
――復員に備えての隊員教育に触れて一―
安田 和生(海軍機関学校46期)
平成18年1月15日、日本英語教育史学会の月例研究会で、ジヤワ敗戦抑留下の日本陸軍将兵への初等英語教育について、教育に当たられた大庭定男氏と、学会副会長江利川春雄氏からのお話がありました。筆者は聴講を願い出ておきながら風邪のため欠席致し、申訳なく、そして残念です。大庭氏のように英語教育について立派に纏めたものはありませんが、お詫びの印しに終戦から高地集結、そして帰国に至るまでの所属部隊行動の経過を摘記してみました。外地に在った各部隊には夫々の事情があり、これはごく一部の部隊の事ではありますが、ジャワで終戦を迎えた一人として、この機会にご覧に供します。
1. 筆者の所属部隊
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第二十一特別根拠地隊(以下「特根」と略称)
戦時占領地の日本海軍根拠地に、防備・補給・輸送・整備等の目的で特設され渚熱の一つで、スラバヤに司令部と本隊、ジヤワの沿岸各地に派遣隊が置かれた。
特根は第二南遣艦隊(以下「二南遺」と略称)に属し、二南遣所属の工作部・施設部・軍需部等の諸庁の本部と海軍病院もスラバヤに在った。
終戦時、特根の司令部(機関参謀として筆者勤務)と陸上警備隊(略称「陸警隊」所謂陸戦隊)はスラバヤ市の中心部、市役所付近に、水上警備隊は付属艇とともに、市の中心より数キロ北方の海岸に、その中間に防空隊が展開していた。
2. 終戦直後より高地移動前まで
1945(昭和20)年8月16日朝、特根隊員は司令官より詔書捧読と訓示を受け冷静に矛を収め、次いで派遣隊員は整然と本隊に収容された。
インドネシアが予定より20日早く、8月17日に急違独立を宣言したが、日本軍部隊は連合軍進駐の際に武器施設を引渡す前提で、その準備開始。
各分隊(「分隊」は概ね陸
軍の中隊に相当)に配属の予備学生出身少尉は夜問集合して、渉外英語を研修した。
スラバヤでは終戦後1か月は連合軍からもインドネシア側からも目立った動きなく平穏であったが、9月末、連合国地上軍がジャカルタに進駐した頃から、日本軍の武器を英蘭
軍に渡させるなというインドネシア急進派の動きが無秩序に高まり、西から東、スラバヤに波及。 10月2日、スラバヤ市街地区の日本海軍諸庁と憲兵隊本部が竹槍・軽火器を
持つ大群衆に襲われ、同日午後遂にわが特根司令部と陸警隊(同所)が包囲されて隊員再武装。包囲陣よりの拙劣ながら激しい発砲に対し、当方は既定の方針により隠忍自重した。(反撃は容易だが在留邦人に報復の恐れ)が'一触即発の危機。
折よく自旗を握げ二南遣長官命令を携えた使者がインドネシア警察官に護られ来隊、隊員は整列の上、命令により警察官立会の上武器をインドネシア側に引渡し、領収書を確保して収拾。
この後、陸警隊は各地からの収容者で膨れたが、インドネシア人からの敵対行動はなかつた。
3. 高地に移動集結
東部ジャワの日本海軍部隊は早急の帰国復員は困難な情勢のため、先ず適地に集結の要ありとし、マラン州高地のブジョン村(末尾の略図参照)を選んで連合軍側の原則的承認と、インドネシア国政府と地元との了解を得るとともに仮設宿舎(病院等一部は既存建築物使用)の突貫工事を進めた。
初めに病院関係を含む約500名が移動、特根隊員の移動は数次に分かれ、最後に残された組(わが特根司令部ほか)は10月26日深夜スラバヤ発、翌日午後、先発の隊員が待つプジョン村に落着いた。 移動は無事であったが、インドネシア側より「対英蘭戦に投じて助けてくれる日本人募集」があり、通訳(特根所属の海軍軍属)の働きで事無く済んだ。
ブジヨンではジャワ東部に在った日本海軍部隊(戦時の部隊編制を維持)と各庁の人員が道路沿い13の地区に分かれ起居。 二南遣長官を長としての自治生活であり「抑留」ではなく、私達は「捕虜」ではなかった。
わが特根全員は比較的広い第4地区に集結し、昼間の大部分は長期自活に備えて借用した土地で農耕、その他の時間に普通学教育を主とする授業、随時演芸会、自由時間に有志は球技を楽しんだ。
ここでの生活指導上の最重要事項は隊員全員を洩れなく、健全な心身と将来への希望を持って祖国の土を踏ませること。
そのためインドネシア側とのトラブルを未然に防ぎ安全を確保する反面、彼らへの親睦と共感の余り、帰国前に部隊を離脱する者の皆無を期すことであつた。 筆者はここでも特根司令官を補佐する立場にあつたが、戦時前半に舞鶴で将校生徒教育に当たった時と異なり、英語の教育は、滞在が甚だしく長期でない限り二次的で、国語の読み書きが遥かに重要と考えていたというのが、偽らざるところである。
4. プジョン集結地における普通学教育
―一第4区(特根)の場合
まず司令官以下幹部士官が会合して、意見交換の結果次の原則を決定した。
a, 算数と国語を必修とし、義務教育終了者として一般人に劣らない素養を与える。
b. 英語入門も望ましいが、その実施については生活指導上の直接の責任者である各分隊長の所信に任せる。(当初英語入門教育に消極的と見えた古参分隊長もいたが、その分隊でも希望者に対する英語教育は行われていた。)
c.各分隊内で分隊士(分隊長補佐の士官)その他適任者が授業を担当するが、分隊配属の予備学生出身少尉の大部分は分隊を離れて起居を共にし、普通学(特に英語の入門)授業実施につき相互に知恵を出し合い、要望のある分隊に赴き授業を実施する。
D.社会科系、理科系教養事項については各分隊で企画し、適任者は協力する。
(憲法、科学常識等の講話や『キュリー夫人伝』等の朗読と解説も行われた。)
E.準士官以上を対象とする集結地本部主催の講話には、希望者が奮って出席する。
(政治、国際経済、宗教、英語、科学等の講話が行われた。)別に初任準士官全員に対し特別教育(筆者は文書作成につき今後の参考事項を解説)を施した。
5. 英語入門教育(4.b,c項補足)
前述の通り予備学生出身少尉が主役となった。 旧制帝大、早慶等の出身が大部分で旧高商出身も1名いたが彼の英語力に遜色はなかった。 司令官の副官は高等商船卒の
元ベテラン船長で、自らも要望に応じ直接に入門教育を担当するほか、予備学生出身少尉の指導に当たった。
予備学生出身少尉の大部分は学生時代に第二外国語としてドイツ語
を履修したので、英語教育担当の傍ら、フランス語初歩を東大卒の主計大尉を講師として学ばせ、筆者も一緒に受講した。
言語を教え、そして別の言語を学んだのである。
帰国行動に備え各自私物をリユックサックーつに収めることとし、余剰品を集結地の一定憶所に供出させたところ、差当たりの教育上も有用な辞典、参考書も意外に多く集まつ
た。 中国の英語入門テキスト(疑問文で始まつていた)を所持する者も居た。筆記・謄写物は集結地を去るまでに全て処分するよう指示され実行されたので、教材の詳細については、残念ながら資料が遺っていない。
6。その他、帰国まで
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名歌手藤山一郎氏が増永丈夫の本名で中佐待遇、二南遺司令部員として部隊と行動を共にし、プジョンでは音楽教育、音楽会での演奏指導等に目覚ましい活躍をされた。
一時期第4地区でわが特根と起居を共にされた時は毎日朝礼の後、全隊員に歌唱指導。「言葉が先、メロデーは後」が氏の口癖で、先ず節を付けずに正しい発音で、歌詞を朗読することから始まったのは、隊員教育上まことに貴重なことであった。
藤山さんは惜しくも平成5年夏に急逝、8月24日には在京の元特根隊員が、ご自宅前で会葬者の長い列に加わり、後日富士霊園のお墓に詣でて、ご冥福を祈つた。
プジヨンの頃に遡るが、終戦の翌年1946年4月上旬、日本人帰国につき英軍とインドネシア政府間の協定成立、6月初めにかけて逐次下山、プロポリンゴ港からシンガポール南方、英軍管理の小島に再集結、私達最終の組はここに1か月の滞在であったが、英ゴから作業等の指示はなく、体調維持を旨として、青い海を見納めに平穏な日々を送つた。
7月16日に航空母艦葛城に乗艦出港。
藤山一郎さんが毎日、飛行甲板に腰を下ろして涼む私達に懐かしい日本の歌を熱唱して下さつたことが忘れられない。 航海が長引き(汽
終わりに―― ここに記した海軍部隊員のスラバヤ退去後の行動は無事で、集結地での生活も比較的恵まれたものでした。
しかし、ブジョンヘの集結は必ずしも全員が円滑に進んだわけではありません(結局は落着きましたが)。ここで述べましたことも、経過の大筋に過ぎません。ジャヮ中西部の日本海軍関係者についてはここでは触れません。 陸軍の大庭氏が炎暑のジヤカルタで終戦2年後までも苦労なさりながら、英語教育も確りと実施し、その内容を学会で披露なさったことに対し、ジャワで終戦を迎えた海軍の一員として深甚の敬意を表して、本稿の結びといたします。