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平成22年4月21日 校正すみ

八百万の神々を恐れよ
日本の文化は自然と共に有る

池田 武邦

坂元 正−

 

死線をくぐった最後の世代

 

杉浦(司会)

本日は建築ジャーナル連載「聞き書き池田武邦」の番外編です。そこで今回は対談形式として、日本産婦人科医会会長であり、坂元正一さにお越しいただきました。坂元さんは、池田さんと同様、戦時中は海軍軍人として死線をさまよったそうですね。

坂元

 空と海の違いはあっても、昔どおりの服装をし、絶対数では最高の戦死者を出した期ですから海軍らしい最後の士官だったかもしれませんね。

池田

 クラスメートの半分以上が戦死したのもわれわれのクラスまでだね。

杉浦

 戦後は元軍人ということを表立って名乗れなかった時期もあったと聞いたことがあるのですが。

池田

 五人以上の元士官による集会が禁じられた時期もありました。

坂元

それよりも、大学に入ってすぐに軍隊経験者だけ集められたでしょう、東京大学の二十五番教室に。そこで若い学生が私たちに「お前らがバカだから日本は戦

争の道を歩んだのだ。大学はお前らのような者の来るところじゃない」とのお達しですよ。我々がグッとこらえていたな

かで、先輩が1人立ち上がり、「我々は家族も捨ててお国のために戦った。君らのように、逃げ回って守ってもらって、何の経験もない者が哲学を語るな。」と言って退場した。若い学生たちはシーンと静まり、やがて誰もいなくなりました。

池田

死線をくぐった男とそうでなく理屈だけの者とでは勝負にならないですよ。本当に。

杉浦

 陸軍士官学校と同様、やはり海軍兵学校でも殴られることは多くあったのですか。

坂元

 それは殴られましたよ。しかし、「修正」だったから気にならなかった。たとえば、「トイレを汚した者は集れ」とスピーカーが鳴る。無視してしまえば誰なのか分らないのに、みな「自分かもしれない」と思い、数十人が集った。そこでポカンと一発やられて帰ってくる。でも、みなケロッとしていて後腐れもない。男だけのしっけの世界だったな。

池田

 でも、あれは殴る方が大変なのだよ。手が痛くてね。いまは何でも理論だけで説得しようとする。肌、体を通じて何か

を写えるという体験が非常に欠落している。

杉浦

 理屈には限界がありますか。

坂元

 体験というより体得と言ったほうがいいかな、体得したものは一生忘れませんしね。今は体得する責任があるという気持ちもないのでしょう。われわれのころは人生二十五年と言われていたから、その時代に生きていることへの責任感みたいなものは自然に染み付いていた。その当時の環境がそう教え、子供も自然に受け入れていた。日本はすばらしい文化を持った美しい国であり、それを守るために犠牲になって戦うことに抵抗はなかったネ。

池田

 うん、自然だったね。無理をしていたという記憶は全くない。

 

文化のローカル性と文明の普遍性

坂元

 以前、司馬遼太郎さんが文化とは局地的に環境に順応したコミュニティの心の中で発生し、継続しているもので、文明

とはそれが普遍化したものだと言った。ぼくは共鳴したね。文化とは、その土地に合わせた習慣、言葉、方言、音楽など

であり、それらはすべてローカルなコミュニティから出てきたのだと思う。

池田

 それはそのとおりだね。

坂元

 そして普遍的に取り入れられたものが文明でしょう。アフガンの戦いは文明よりも文化の衝突だと思うナ。

池田

 文化と文明はそのとおりだと患う。ただ、私がここで問題にしたいのは近代技術文明について。これを支える哲学は、

デカルトの「我考えるゆえに我あり」という、人間中心の思想なのです。なぜそのような哲学が生まれたかというと、デ

カルトの生まれた中世末期は魔女狩りなどが行われていた時代だった。それに対し、人間中心の思想は非常に明るい時代の到来を予感させ、受け入れられたわけです。だが、その後は、産業革命によって、人間は人間のみに都合の良いように自然を支配し破壊して、生活環境もすっかり変ってきた。ぼくらにしても近代合理主義を信奉し、古い迷信のような考えを排除してきた。そういった目で、例えば江戸時代を見ると非常に非合理的に見える。新しいもの、進歩、発展こそ良くて、古いものや旧来の陋習は進歩を妨げる良くないものといった考えだった。ところが、ふと立ち止まってと周りを見ると、空気も水も汚れてしまって、人間そのものまでも脅かされるようになっている。

坂元

 環境ホルモンなんてまさにそれですよ。

池田

 その原因は、人間中心の近代技術文明が自然をまったく恐れなかったことによると思う。ところが、日本の文化は何千年も青から自然を恐れ敬う文化なのです。山には山の神、川には川の神というように、すべて自然の中に神を認めていた。

 

大切なのはトータルな視点

池田

 ローカルな文化と違って文明には普遍性があります。浦賀に黒船が来て、西洋文明を取り入れたと思ったら、あっといぅまに日露戦争に勝つようになる。これが文明の普遍性です。だが、そこには目先の合理性はあっても、時間・空間を含めたトータルな視点が欠落していた。

坂元

 医学の世界もやはりそうです。人間を見失って病気だけを見ている。表面的に人間中心の幸せを求めるから、技術の進

歩が内なる共生物を絶滅におしやり、自然界の中では共生を営む人間のあり方を忘れさせてしまう。逆に個々の生物である人間をトータルで捉えられなくしてし

まっている。

池田

 その逆が漢方でしよう。

坂元

 そう言ってもいい。漢方は病気を診断するというより、病人の示す証に従って治療し、人間を治す。近代医学は病気を見つけ出し、理論的にそれに治療を加えるが、人間の本体がそれをどう受け止めかはおろそかになる。初めからトータルに考えないから副作用という怖い結果をもたらす。近代科学の進歩という点では医学界も同じですよ。

池田

 そうそう、まったく同じ。近代技術というものは、どんどん専門化して細かくしていく。トータルでものを見ない。

杉浦

 ますますタコつぽ的になっていますね。

池田

 近代技術が発達するということは、量産化が出来るようになるということ。いま坂元君が医学における副作用を言いましたが、近代技術文明による建築界での副作用が大量のゴミなのでしょうね。

 

人間よ おごるなかれ

坂元

 もう少し言わせてもらえば、先の文明論のなかでの人間の優位性は、種としての尊厳性であって、個々の生命の尊厳性まで考えなかったところに落とし穴があった。文明の影で人種差別、奴隷制、性差別、障害者差別の溝が深まり、地域間

の争いは絶えることがなかった。医学も光の部分では進歩を遂げ、もはやゲノムの時代に入りクローン人間の誕生も可能

になった。しかし、動物で見る限り、成長の遅れや短命というしっぺ返しを受けている。二十世紀に人間は九つの大きな

革命をやったが、多くの人はそれについていけなかった。二十一世紀には人間個々の、そして共生している個々の生命

の尊厳性を見直す革命をしない限り、二十一世紀の革命の統合が行われず、個のエゴ、国益エゴに陥り、われわれ自身が

文明に滅ぼされると思います。

池田

 私には忘れられない映画があるのです。それは戦前の一九三〇年代、私が小学生のときに見たのですが、一人のサラリーマンがトボトボと帰途についているところから始まる。そして、雲の上ではギリシヤ神話に登場するような神様が議論している。神様たちは「われわれもいろいろな物を作ってきたが、人間というものはなかなか優れたものだな。ここは少しわれわれも休暇を取って人間自身に世の中を任せてみないか」といった内容で話をしている。そこで神様は先ほどのサラリーマンに神の能力を与えてみた。サラリーマンはそれと気づかずに帰宅する。ところが、「ああ、コーヒーが飲みたいな」と思うだけで、目の前にコーヒーが現れた。その後、何でも思っただけで実現するので、自分の不忠譲な能力に気づく。最後はそのサラリーマンは自分が神様になったような気になってしまう。だが、その有頂天の時、ある友人が、「それでも、この地球を止めることは出来ないだろう」と挑発した。そうしたら、その男は「出来るさ」と答えてしまう。その瞬間、地上の建物などが、急に地球の慣性がなくなったので壊れてしまう。そして、最後に神様が出てきて「やっぱり人間に任せたのは失敗だったな」で終るのです。

今にして思えば、近代文明への警告だったのでしょう。

 坂元

 世の中をコントロールしているつもりで、野放図に振舞っていると、いずれは自滅するということですね。

 

抑止力を持つ 文化のローカル性

池田              .

近代技術文明の−番危険なところは自己抑止力を持たないということだと思う。

坂元

 そのとお。我々は加齢の影響は残るが、ほとんどの細胞は生まれた時からは入れ替わってしまっている。代謝や成長に抑止力があるから、君は君、私は私で個々に区別でき、コミュニケトションも正常にとれる。抑止力のない細胞増殖をするのが悪性腫瘍なのだけれども、そうすると抑止力の無くなった個体の細胞はその時点からガンに置き換えられることになるネ。恐ろしいことだ。

池田

 欲望こそがエネルギーになっているので、止めることが出来ない。法による抑止という人もいるが、法律なんて後からついてくる。先ほどの映画でいえば、破滅してから制定されるのでしょう。ところが文化というものは、抑止力をしっか

り持っているのです。基本となっているのが、ローカル性であり、それこそが生きていくうえでの知恵だからです。「罰が当たる」というのもそうですね。これはすごい抑止力です。神様の罰が当たると本気で思ったら、絶対におかしなことは

出来ないでしょう。

 坂元

 進歩の方向づけが宿題の一つと思う。脳の神経細胞は不変と考えられていたけれども、再生が可能で変化も起こることが判明したのだ。色々な刺激は前頭葉で多くの経験と照合して、相応しい反応を選りわけて、身体に命令するから平和が保たれている。恒常的なストレスの大きなものが来ると前頭葉にトラクマを起こしたり、前頭葉を短絡していきなり反応する脳細胞にゆく短絡回路が出来たりするらしい。子供がキレル、考えられないことをやらかす原因は進歩した社会の絶大なストレスで、それを無くすことが治療になるのではないかということで研究が始まっている。抑止力を考える上で大切と思う。

杉浦

 日本の中世期において、共同体の中で人がキレたり餓死したりするようなことは少なかったそうですね。

池田

 そこには文化があり、文化こそが共同体で生きていく知恵であったからです。天変地異があったときも、皆が生きてい

くにはどうすればいいかを、権力はまったく別の次元で理解していたのでしょう。だから「封建社会では人権が無視されていた」なんていうのはとんでもない誤解です。現在よりもはるかに民主的であったと民族学の見地からは再評価されていますね。

 また、江戸時代というのは、調べれば調べるほど非常に高度な循環型社会であった。植物文化というのかな。燃料は炭、

ろうそく、薪など、すべて植物です。当時は全国に3000万人ぐらいが住んでいたが、一年間に消費するエネルギーは、太陽熱が一年聞かけて蓄えたものと、同じなのです。すごいバランスを保っていたそうです。だから元本とでもいうのか

な、何千年もかけて育成された森はそのままで、自分達が作った雑木林などがだす利息分だけで生活していた。それを見

事にやっていた。これに鎖国の影響もあるのですが、他国からエネルギーも食料も入ってこないのですから、自分たちで

何とかするしかなかった。ある意味では理想的なサスティナブル社会です。

 

都市に生きた森が欲しい

坂元

 森ということで言うと、明治神宮をつくったとき、全国から木を持ってきて植えたが、今になって見れば非常にいい公園になっていて、空気もきれいに感ずるネ。

池田

 あれは最近の公園とはまったく違うのです。つくる当初から一〇〇年くらい先まで考えて、植生がどう変化するのかまで予測して植えている。

 最近の公園は工事が終了した時点で完成形となっている。長期計画がないのです。

坂元

 だから池田君が手がけたハウステンボスはすばらしいのだ。あれくらいやらなくてはいけないと思う。手間ひまかけるという言葉があるが、生きている木のある森をもっと都市の中につくって欲しい。根のしっかりした木は震災でも倒れません。人間はそこを中心にアルカディア(理想郷)をつくるからね。

杉浦

 とくに大木を大切にする考え方が根付かなければいけませんね。

池田

 問題は、建築界では都市と農山村問題をほとんど別の人がやっているということにあります。ここにも専門分化の弊害

が出ている。これはハウステンポスをやってすごく感じました。

杉浦

 ハウステンポスは循環型社会を目指していますね。

池田

 ハウステンポスにも車や船があるので、化石燃料は使います。そこでそのCO2を削減するために荒地に四十万本の木を植えたところ、今は森のようになって来ている。だからハウステンボスで出す排気ガスはあの森がだいぶ吸収しているだろうと思っていました。そこで、実際に試算してみたところ、四十万本で年間炭素換算100トンのCO2を吸収することがわかった。そこである程度満足したのですが、では車や船は総額でどのくらいのCO2を出すのか計算してみたのです。すると年間で一万トンという数字が出たのです。つまり、あの四十万本の木はハウステンボス全体の−%しか吸収していないのです。そう考えるとハウステンポスを本当に循環型にするには四〇〇〇万本の木が必要になる。つまり残り九十九%は周辺の森に吸収してもらわないとハウステンボスは完結しない。だから、都市問題というのは農山村と一緒に考えなければならない。そういった意味でもやはりトータルの視点が必要なのだな。これまでの都市計画、農村計画は非常に狭かった。

そこで江戸時代の話に戻りますが、江戸一〇〇万都市の真ん中にはとてもきれいな川が流れていた。それは、都市住民

と周辺の農山村の住民とを一体にして都市が考えられているからです。パリやロンドンでは毎日出る糞尿はすべて川に流されていた。しかし、江戸ではそれは農村の人が買いに来て、お金に替わっていた。そして、農村ではそれを肥料として農作物を育て、それをまた100万都市が消費する。そしてまた肥料になる。完全に循環型です。都市部と農村部が全体としてのコミュニティをきちんと形成していた。それからボロ市というものがあって、大人の着た物を小さくして子供が着て、そして最後にはオムツになる。それがとうとう綻びて雑巾になる、そして、最後にはボロ市に出すと農村の人が貫買ってわらじの補強材とする。そしてそのわらじを都市で売る。都市の生活と農村が−体になっている。だから、現在の都市問題と農村問題を別々に考えるのは間違いなのです。

 

自然破壊が芸術性をも破壊する

杉浦

 最近、日本では政治の荒廃、経済の荒廃などが叫ばれていますが、一番ひどいのは人心の荒廃ではないでしようか。ここで生命の問題がキーワードになってくるような気がするのですが。

坂元

 そのとおりです。それで、調和のとれない進歩の怖さを先ほど申し上げたのです。もうお互いの間に心のある言葉を交

ゎせる人が少なくなってしまいましたからね。

池田

 人心の荒廃は自然を破壊したことに直結していると思う。いま教育問題が言われているが、教育問題とはすなわち自然

を回復することだと思います。それをやれば自ら教育は良くなる。今は、文部科学省をはじめとして、テクニックばかり

を教えている。目先だけで「ゆとり」などと言っても、そこには人間としての哲学がない。本当の哲学とは、自然をいかに育てるか、それがすべてのベースであり、教育の原点です。ぼくらの時代はまだそういった文化が生きていたから自然

に身についていた。こんなことをしたら罰が当たる、といった思想が生きていました。でも、戦後になって、まったくな

くなってしまった。

坂元

 昔は季節ごとに自然の旬があって、その時々を楽しんでいた。いまは人間に都合がよければ自然の順序が違っても、意に介さなくなった。ふと窓外に目をやると自然の美しさがあり、感動できた昔は遠くなってしまいました。即物的、短絡

的なところに何が生まれるのでしょう。

杉浦

 文学、芸術などもやせ細っているのはそこに原因がある。

坂元

 発想が豊かでなくなりますからね。その時代にあった新しいものは出るでしょうが、いつの時代になっても人に優しい

ものなど出るかどうか。

池田

 問題は、人間の環境を主テーマとすべき建築界でこういった話をしても余り響かないことですよ。坂元君は産婦人科医として、生命の誕生をずっと見てきているので、自然や生命というものを考えざるを得ない。医学界はまだ希望があるがあるのかな。

 

坂元

どうかな。美しい日本語もどんどん消えていくし、IT革命とか言ってパソコンは上手だが、患者の目を見て問診が出

来ない医者もいるからね。しかし、医者が人間回避をしたら終わりだよ。

池田

 ところが建築界はそうではない。人がいなくても技術で建物はつくれる。そう思っている建築家が多い。

杉浦

 建築界をはじめ、日本に希望は見出せ ませんか。

坂元

 私はそれほど悲観的でもないですね。阪神・淡路大震災の発生した一週間後に、二度復興現場に行って感動しました。

 人々の心は荒廃し、さぞや混乱をきたしているのであろうと予測していたのですが、まったく違い支給を受ける被害者の方々もきちんと暗黙のルールを守っていたからです。

杉浦

 あれは見事でしたね。敗戦後の満員電車のように押し合いになるかと思えば、まったくそんなことはなかった。

坂元

 コミュニティで体得したものは、何かにぶつかったときに人々の心の中に呼び戻されるのでしょうね。

池田

 それが困ったときの生きる術ということを体のどこかで理解しているのでしょう。それこそ長い歴史に培われた文化が私たちの遺伝子に生きていて、なんらかの契機に目覚めるのでしょう。その意味では希望はたしかにありますよ。


なにわ会ニュース88号(平成15年3月15日

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