戦争体験と戦後の価値観
講演 第七二期 池田 武邦
於いて 76期会全国総会講演会 平成21年11月24日 |
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池田 武邦 |
今日は76期の皆様の総会ということで、このように盛大な総会が行われますことを心からお慶び申しあげます。中には奥様をお連れの方も大勢おられて何よりです。私どもは皆様より僅かばかり先輩ですが、もうこのような総会は昨年度で打ら切ることになり、今後はクラス会としてではなくプライベートに集まることになりました。
私どもは皆様よりほんの僅かばかり先に生まれたために、先の太平洋戦争では、海軍兵学校の全クラスの中で戦死者が最も多いクラスになってしまいました。パーセンテージで言うとクラスの半分以上が戦死したのは、60期から私ども72期までの期の、どのクラスも過半数が戦死しています。60期は大正始め生まれで、我々72期は大正末期生まれです。要するに、大正時代に生まれた日本の青年男子の中の優秀な人材が海軍兵学校に入って、そのクラスメートの半分以上が戦死したという結果になりました。これは日本の戦後の復興に、大きなフレーキをかけたと私は考えています。
その中で一番末端の私ども72期が卒業して、最初の海戦はマリアナ沖海戦でした。私自身はマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、最後の沖縄海上特攻作戦と、この3つの海戦の全部に、たまたま巡り合わせた結果になりました。今日のこの総会には私のクラスメートではただ一人、都竹君が出席しています。都竹君は戦艦「大和」に通信士として乗艦し、レイテ海戦では艦橋にいて、「謎の反転」をつぶさに体験した唯一の男です。彼もこうして戦後は大学の教授を立派に勤め、今は引退生活をしています。しかし私のクラスの過半数は戦争中に亡くなり、戦後も今は随分欠けていますから、このようなクラス会はもうできなくなりました。
さて、私が今日これからお話するのは全く私のフライベートな体験を元にしていますから、これが普遍性があるかどうかは別の問題だとお断りしておきます。
[軽巡洋艦「矢矧」に着任]
軽巡洋艦 矢矧 |
私が兵学校を卒業したのは昭和18年の9月、ちょうどガタルカナルが非常に激しい戦闘を続けていたときで、優勢だった日本がアメリカ側の反攻に対して、次第に均衡が破れ始めた頃でした。ちょうどその時点で我々が卒業したのですが、卒業と同時にクラスの半分は海上関係に、半分は飛行機の方に分れました。私は海上で「軽巡洋艦『矢矧』の艤装員を命ず」という辞令を受けました。その時は、「矢矧」という名前も知らなかったし、また、艤装員とは一体どんなことをするのだろうかと思っていました。
軽巡洋艦「矢矧」は最新鋭の巡洋艦です。「能代」型巡洋艦といて4隻の姉妹艦があり、「阿賀野」が最初で「能代」、「矢矧」、「酒匂」と続いています。「酒匂」は終戦間際に完成し、とうとう戦場には出ませんでした。軽巡洋艦というのは水雷戦隊の旗艦として作られています。私が卒業したときは「矢矧」は艤装中で、佐世保工廠で突貫工事を続けていました。私は艤装員として着任し、それから二ケ月後に完成、公式試運転は豊後水道北側の瀕戸内海の広い海域で行いました。最大スピードは37.5ノット、最大戦速で走って停止、後進、またどの位の行さ足で止まるか、最大戦速のまま面舵一杯、取り舵−杯にするとどのくらい傾斜するかとか、そのような艦の性能試験をしましたが、とても素晴らしいもので、まるでモーターボートのようなスピードで、面舵一杯などすると立っておられないくらい傾斜しました。しかし安定性が非常によく、当時としては世界で最速の巡洋艦でした。
その代わりアーマー、防御を薄くしてあり、防御を殆ど犠牲にしてスピードと攻撃力に重点を置いた巡洋艦でした。公式試運転の時の写真がありますが、非常にスマートな性能のよい軽巡でした。私はその「矢矧」の航海士として着任したのです。そして当時の訓練基地へ行さました。
当時はもう油があまりなかったから、油がふんだんに採れるシンガポールの南のリンガ泊地という、ちょうど赤道直下の、その真中を赤道が通っているというところでした。そこは島に囲まれた周囲30〜40浬、非常によく防御されていて、敵の潜水艦は来ない、飛行機も来ない、そして油は自由に使えるという海域でした。連合艦隊はそのリンガ泊地で訓練を殆ど連日連夜の、それこそ「月月火水木金金」の猛訓練を続けていました。「矢矧」も竣工と同時に連合艦隊に編入され実戦部隊に加えられました。その実戦部隊というのは一〇戦隊という水雷戦隊で、駆逐艦10〜12隻を伴った戦隊の旗艦でした。
[マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦]
その旗艦「矢矧」の航海士として最初の作戦がマリアナ沖海戦でした。このマリアナ沖海戦の時は我が方の航空艦隊に「大鳳」という、当時としては世界最大級の空母が参加しました。その「大鳳」は珊瑚海海戦で空母の「翔鶴」「瑞鶴」が向こうの爆撃で飛行甲板をやられて、一発の爆弾が当たると、もう飛行機の発着ができなくなってしまった戦訓を生かして、非常にアーマーの厚い飛行甲板を作った空母でした。ですからちょっとやそっとの爆弾では、飛行甲板は壊れない素晴らしい空母で、当時としては世界最大最強の空母でした。その「大鳳」が昭和十九年三月に完成し、マリアナ沖海戦が六月でしたから、でき上がってすぐの海戦でした。また「矢矧」も完成してからリンガ泊地で訓練はしていたものの、このマリアナ沖海戦が初めての海戦、初陣だったのです。
最強の航空母艦といわれた大鳳
この初陣というものは曲者です。どんなに素晴らしい艦でも初めて戦揚に出ると、まず乗組員ですが、色々なベテラン乗組員が乗ってはいます。しかし軍艦として体験をする最初の戦争、初陣の体験は非常に厳しいものです。その初陣の戦争体験を経て、生さ抜いた艦はぐんと練度が上がります。ですが、最初の戦場に出た時にやられてしまうものが多いのです。日本の軍艦で最新鋭と言われても、できて間もなく出撃したもので撃沈された艦は随分多いのです。
「矢矧」は幸いなことにマリアナ沖海戦の時には殆ど無傷で帰ることができました。その時に「大鳳」は我々の目の前で大爆発を起こしたのです。
それもなんと敵の潜水艦の魚雷でやられてしまったのでした。敵の潜水艦は実に水中聴音機が発達していて、すぐ近くまで来て的確に我々の位置を把握して魚雷を放ったのです。
それに対して我々の方は中々把握できません。我々日本海軍の水中聴音機は、自分たちの艦の雑音が混じって入ってくるため、なかなか敵の潜水艦を見分けられず、把握が困難だったのです。ですから水中聴音機の性能の差でやられたといえるでしょう。このマリアナ沖海戦では、敵潜水艦の魚雷で「大鳳」がやられ「翔鶴」もやられました。
その「大鳳」は魚雷が当たってもまったく蚊が刺したくらいで、外から見ていてもまったく機能が落ちません。そのまま艦隊行動を続けていたから、さすがは「大鳳」だと思っていたのですが、その数時間後に大爆発を起こしたのです。それは魚雷で火災を起こしていたのですが、消火器、噴霧器などを使ってその火災を一応は抑えることができていました。ところが燃料油が気化していて格納庫いっぱいに充満したから、そのガスを排気しようとして、換気扇のスイッチを入れたそのスパークで大爆発を起こし、さすがの強虚な鉄板も、めくり上がるような形になって沈没してしまったのでした。ですから受けたその魚雷のためではなく、二次的に燃料油から発生したガスを排気する、ファンのスパークで爆発したという非常に不運な空母でした。
「翔鶴」も目の前で四本の魚雷を喰ってそれはもう大変な大火災を起こし、まずリフトが落ちて、そこから火災の炎がボンボン上がっていました。ですから乗員は全部が飛行甲板に避難しました。約千人ぐらいいたでしょうか、「矢矧」はその回りを護衛していたから、まず最初は「翔鶴」に接触して乗員を移そうと試みました。しかし「翔鶴」は次第に傾いてくるので接舷できません。そのため「翔鶴」の周りをぐるぐる回って警戒していました。目の前でぽんぽん火災を起こしているのにどうにもならない状態を見ているしかなかったのです。
ところが艦が次第に傾いてくると、リフトの所から噴火口のように炎が上がっているその中へ、飛行甲板に避難していた大勢の人が、飛行甲板には掴まる所がないから、滑り台のように滑り落ちて行くのです。滑り落ちると、否応なしにその噴火口の中にポロポロと人間が落ちて行きます。そのような悲惨な状態を目の前で見ていながらどうにもなりません。一方では海の中に滑り落ちて行きます。火責めか水責めかという、本当に地獄の絵のような姿を、目の前で見ていながらどうすることもできませんでした。「矢矧」はこのような人々を百数十人ほど収容しましたが、多くの方は「矢矧」の艦上で息を引さ取って、それらの方々を水葬したという、そのような経験を私は初陣で味わうことになったのです。しかし「矢矧」そのものは、空襲は受けたが、ほとんど無傷で戦死者はありませんでした。
レイテ沖海戦のときはもう航空母艦なしで囮艦隊としてしか参加できない状態でした。「大和」「武蔵」という巨大戦艦が唯一の頼りだったのです。この頃は米軍の艦隊勢力は日本のおよそ三倍くらいでした。飛行機のない海戦は、いわば宮本武蔵のような剣豪が日本刀を持って向かって行ったのに対し、向こうは機関銃をずらりと並へ、しかも三倍の兵力で待っていた状態だったと言えるでしょう。まさにその通りであって、このレイテの海戦で、海上艦艇はほとんど全滅の状態でした。
レイテ沖海戦奮戦中の戦艦大和 | 小沢艦隊航空母艦瑞鶴の最期 |
僅かに生さ残ったのは「大和」と私どもの「矢矧」、それと駆逐艦八隻でした。それが翌年の昭和二十年四月に沖縄海上持攻の時に、全艦隊を挙げて突入をすることになったのです。この頃は実際に海上戦闘に使用できるのはこの十隻しかなかったのです。他に「長門」や「利根」など、レイテで沈まずに戻ってきた艦はあったのですが、それらは修理をしても、とても戦場には出撃できない状態で、それらは繋留、力ムフラージユして陸上砲台になっていました。ですから帝国海軍は最後の最後まで戦って全滅したという、世界の海軍史上例のない最期を遂げたことになります。
[沖縄海上特攻作戦]
その沖縄持攻の時にも「矢矧」は参加しました。それまでに私のクラスメートはほぼ転勤して代わっていましたが、私だけは一年半くらい全く転勤なしで、少尉候補生から分隊長になるまでずっと「矢矧」でした。ですからこの沖縄持攻の時は、士官室では一番若手の士官として第四分隊長兼測的長として部下数十名と共に参加したのです。この時は味方に全く飛行機がないからそれこそ滅茶苦茶にやられました。それでも「矢矧」はさすがにマリアナ、レイテの海戦で散々な戦争体験を繰り返していますから、艦の練度というものか素晴らしく上がっていたのです。ですから、この時は直撃爆弾7個、魚雷10本を受けてもなお沈みません。応急処置がよくて火薬庫にはすぐ注水して爆発させません。そしてできるだけ抵抗できるようにして、最後の最後まで傾きなからも大砲は撃ち続けていました。
これは戦後のアメリカの記録を見ると全く奇跡的で、まるで戦艦クラスの働さをしていたと紹介されています。しかし、沈まない問は繰り返して爆撃されるから、これではもう早<沈んでくれた方が有り難いと思うくらいに、耐えに耐えて、遂に「矢矧」は沈没しました。そして私が泳いでいる時の17分後に「大和」は水平線の向こうで大爆発を起こして沈没しました。
沈没直前の大和 | 転覆寸前の矢矧 |
「大和」が沈んでしまった後には駆逐艦4隻が残っていたのですが、傷ついた駆逐艦4隻で沖縄に辿り着いたとしても、殆ど意味がないためこの作戦は中止になりました。中止になったから特攻ではあったが、私は生き残って戻ることができたのです。残った駆逐艦4隻の中の「涼月」はパウ(艦首)が折れてしまって前進でさません。後進するのがやっとのことで他の艦の乗員を救う余力は全くありません。とにかく内地に辿り着くのが精一杯の状況でした。後に残ったのは「冬月」と「雪風」、もう一隻は「初霜」でした。
この3隻は救助が可能であって、私は「冬月」に助けられました。この時の駆逐艦の航海長は全部が七二期の私共のクラスメートで「冬月」の航海長は中田中尉でした。私が助けられた時は、航海長の彼は既に重傷を負ってベッドに横たわっていましたが戦死はしませんでした。私は顔に大火傷していましたが、とにかく生きて帰って来たから、こうして皆様の前でお話ができるのです。その時は大火傷をしていましたが、戻ってから佐世保の海軍病院に行った時に、池田中尉は非常に応急処置がよかった、だからこの程度の火傷ですんだ、おそらくケロイドは残らないですむだろう、火傷の応急処置で一番大切なことは、まず冷やすこと、それから空気と遮断すること、この二つが非常に大事なのだと軍医長に言われました。
私が沈められた海は四月の東シナ海ですから、海の水は非常に冷たい季節で、氷で冷やした状態が数時間続いたことになります。また空気から遮断というのは水面に分厚い重油が浮いていたから、重油で顔が真っ黒になって目も開けられないほどでした。ですから沈むと同時に、まず重油で空気を遮断したことになり、さらに数時間、海水が冷やしてくれたから、それが非常によい応急処置になったのでした。そのお陰でケロイド状にはならないですみました。けれども眉毛が全部焼けてしまって一年くらいは生えてきませんでした。眉毛は一度焦がしてしまうと中々生えてこないものです。一年くらい経ってからようやく自然に生えてきました。それでも助けられてから一月くらいは傍に来たクラスメートなどから、「おい池田、重油臭いぞ」とよく言われました。自分では全く判らないのですが、それくらいに重油の匂いが皮膚に染み込んでいたのでした。
[国力の差異]
私はそのような意味でマリアナ、レイテ、沖縄と、戦艦「大和」、「武蔵」以下の航空母艦、主力空母「大鳳」、重巡「鳥海」、「摩耶」、「愛宕」などの、日本海軍主力艦隊の殆どすべての艦が目の前で沈んで行くのを、この目で見てきた生き証人となって今ここにいるのです。僅か一年足らずの問に、あれだけの大艦隊が全滅してしまったわけです。一体これはどういうことか、あれだけの、月月火水木金金の全くの訓練に訓練を重ねてこれ以上はない艦隊を作って置きながら、それが殆どやられてしまいました。
これは科学技術の大きな差異であったと言えます。資源力、工業力、そして科学技術力、レーダーは、彼らが一歩先へ進んでいました。VT信管しかり、水中聴音機しかり、そういうものがアメリカは一歩先へ進んでいて、しかもそれを継続して生産する能力がありました。日本ではアイデアは色々あっても、それを実現する資源がない。工業力もありません。近代戦というものは、全く正直な国力の比較なのです。そういう意味で改めて、日本とアメリカの戦争当時の経済力や工業力、それから資源力などを比較してみると、大雑把にみても1対20、20倍ほどの差がありました。それは当時の中学生でも判るようなデータは沢山ありました。ですから少しでも近代戦とはどんなものかを知っている人が考えると、これでは、とても戦争してはならないことは当然判るわけです。
日露戦争までは古典的な戦争でした。トラファルガーとか日本海海戦などは大艦隊同士が戦って勝った方の国が勝つ。もう戦争は続けることはできないという古典的な戦争でした。しかし、第一次世界大戦から全く様相が変わっています。第一次世界大戦では、至る所でドイツの艦隊とイギリスの艦隊が大海戦を戦って勝ったり負けたりしています。それでも勝負はなかなかつきません。結局は経済力、資源力、補給力、そのような国力の差の勝負でした。
第一次世界大戦の時は、日本は日英同盟を結んでいたから、英国からの要請で、地中海へ艦隊を派遣しています。第二特務艦隊です。私の父は兵学校を出て、当時は駆逐艦「桃」の艦長として、地中海に行っていたから敵のUボートと戦っています。その時に日本海軍から数十名の戦死者を出しました。今はマルタ島に慰霊碑が建っています。
日本の海軍が地中海に行って強く実感したのは補給戦のことでした。アメリカなどからヨーロッパに資材の補給する輸送船を、ドイツの∪ポートが撃沈して補給路を断とうとしています。補給路を断たれると、戦場は次第に縮小して行かねばなりません。要するに国力であって補給とか経済力とかそのようなもので、一つの海戦の勝った負けたで、勝負がつくというものではないと、第二特務艦隊の長官がレポートに書さました。それは海軍省に出されています。そのレポートを読むと、まさに近代戦争は、国力の.比較であると書いてあります。そのような先人のレポートをよく読むと、全く太平洋戦争は、無謀であったことがよく判りますが、やはり世の中はそのように合理的には行かなかったのです。
[情けなかった日本の戦後]
一番大事なことは、あれだけの犠牲を払って、日本の国土を焦土と化して、あれだけの戦争をしているのに、なぜ戦争をせねばならなかったのか。その戦争にはどんな意味があったのか。またその犠牲者に対して戦後の国民はどんな態度を取ったのか。これだけの犠牲を払って、これほどの貴重な体験をしているのに、その戦争を反省することがない。なぜ戦争になったのか、その点を全く追求しておりません。そしてうわべは、戦争はよくない、平和がよいと言います。それはもう全くの上っ面だけでしかありません。しかもこれだけお国のために命まで捧げているのに、それに対する日本の国民の対応は、まったく信じられない情けない状態が、戦後にずっと続いていたのです。
私ども七二期は戦死者が最も多かったから、翌々年だったと記憶していますが、慰霊祭をやろうと言い出したのは確か七二期が最初だったと思います。そこで全国のご遺族に、靖国神社に集まって戴いて慰霊祭を行うことになりました。そのために宿を手配しなければなりません。そこで我々生存者が、靖國神社周辺の宿を色々と手配に歩さ廻りました。ところが入ると途端に「軍人はお断り」です。軍服も何も着ていないのに、我々の面魂が明らかに軍人面をしているから、軍人の印象を持つのでしよう。そのための「軍人お断り」でした。靖國神社周辺の宿やホテルがそういう時代でした。そのために「私どもが泊まるのではない、ご遺族が泊まるのだ」と説明して、やっとのことで、宿を確保したありさまでした。それから戦後もかなり経ってからですが、私の息子が小学校へ行く頃の昭和30年代後半のことです。息子が学校から帰ってきて「お父さん、何で戦争に行ったのか、学校の先生が、戦争はよくない、戦争に行ってはいけない。あんなことは悪いことだと言われた」と私に告げました。私は非常に薄っペらな教育をしていると思いました。十歳やそこらの子供は先生が言うと本当にそうだと思い込んでしまいます。ところが自分の親父は戦争に行ったことを知っているから、真っ先に問い詰めてきたのでした。その前後の大学を出たインテリなどはひどいものでした。いかにも戦争に行った奴は馬鹿だと言わんばかりの対応をしていた戦後だったのです。
みんなが同じ年輩で同じ日本人の顔をしているのに、私たちは、異邦人の中にいるような感じがずっとしていました。クラス会に出るとホツとしたものです。それ以外のところに出ると、何となく異邦人の感じがしていました。
[無視された我々の価値観]
私たらは次の世代に、我々の価値観を息子にさえも伝えることができませんでした。ですから私はもう一切口を閉ざして、彼らは彼らの新しい価値観で行きなさい、我々は我々の価値観で行くと居直ってしまいました。戦争の話や思い出話など、八十歳を過ぎてやっと最近になってから色々な要請があるようになったのです。今回もここに出席する前の先週は、京都まで行って3回も4回も講演をしてきました。それはどういうことか、世の中が少しずつ変わってきているのです。日本人はとても洗脳されやすいから、少しでも教育されるとワッとそちらの方に行ってしまう。それは非常に危険です。自分というものを、キチンと持っていない。ですからすぐにジャーナリステイックな新聞論調などを受け入れてしまいます。それは最も危険なことです。ですが、これは、政治家としては一番やりやすいのです。
色々な宗教がマインドコントロールとか言っていますが、日本国全体が、文部省以下徹底してマインドコントロールをしているわけです。それらに対してキチンとした考え方を持っていないと道を誤ります。ですから今までの私の戦争や色々な体験を通して、今や八十歳も半ばになるともう誰にも遠慮することなく言えますが、これからはどうあるべきか、非常にはっきりと明確な私なりの考え方を言うことにしました。
皆様もおそらく色々な、私と同じ経験を積んでいることと思います。
私が戦争に行っている頃に、日露戦争の話を聞いても遠い昔のように思っていました。ところが今振り返ってみると、我々が兵学校に入った昭和15年は日露戦争から38年しか経っていません。一方で、太平洋戦争が始まってから60数年が経っています。それでは38年前とは何か、ついこの間のことです。年齢を重ねてくると過去が、自分の経験の範囲が掴めてさます。私には少し前に曾孫が生まれました。その曾孫からみると、85歳の老人はどう見えるかと少し考えてみました。私が生まれた時に85歳になる老人は何時生まれたのかと思って調へてみると、高杉晋作が正にそうでした。彼は天保10年生まれです。もし今のように医学が進んでいて肺病で死なずに生きていたなら、私の生まれた大正12年には85歳でいたことになります。坂本龍馬は大正12年に89歳です。ですから江戸時代はついこの前のことだと非常によく判りました。
江戸幕府の次に明治維新の大革命が起きました。明治維新によって、日本は統一国家、近代園家になって、その明治政府は文部省を作って、近代国家にするための教育を徹底的に行いました。ですから私どもは、江戸時代は封建社会であって、どんなに能力があっても百姓の子は百姓に、大工の子は大工にしかなれない。非常に窮屈でよくない時代だった。しかも鎖国していて外国と交流しない。これは非常によくない時代だったと徹底的に教えられています。ですから江戸時代は、本当によくない時代だったから、これからの時代は技術文明を一歩でも前進させて、エジソンのような発明を進めて行けば、世のため人のため、さらに人類に貢献でさると教え込まれました。
海軍に入ったらますます近代合理主義、徹底した合理主義でした。そして戦争したらアメリカの方がさらに上回っていて、その上回って近代化されていた方にそれこそコテンパンにやられてしまったのでした。
[建築業界の近代化を推進]
霞が関ビル | 新宿三井ビル |
戦後、私は日本を再建するためにはやはり近代化を進めなくてはならないと考えて建築の世界に入ったのです。その最初が東京丸の内の日本興業銀行本店ピルで、我々が設計し私はその建設現場に常駐しました。ところが現場を見ると地下二階を手掘りで進めています。足揚は丸太を組んでいました。アメリカのように、フルトーザーやパウーシャベルを使うということは全くありません。これではアメリカより遥かに遅れている。こんな状態では、戦後の日本も国際社会からやられてしまう。建築界をもっと合理的に近代化せねばならない、というのが、私が最初に痛感したことでした。
それから若造にもかかわらず、どんどん合理化、近代化の論文を出して提言を続けている中に自分で超高層ピルにチャレンジする立場になりました。近代化、合理化はよいことだ、と思ってみると、建設産業は非常に遅れている。物を作る産業で建設産業に似ている近代化した産業は何か。造船、自動車などはずっと近代化している。だから建設産業もそうせねばならない。そんな提言をどんどん続けたために、なんとなく私が、超高層ピルにチャレンジしなくてはならない立場になったのでした。
たまたまその時、1960年に日本に初めてのコンピューターが入ってきました。それまでは計算尺を使って計算していました。手計算ならば、例えば霞ヶ関ピルの設計は、50〜80名の技術者を投入しても少なくとも十数年はかかるほどの膨大な計算量があります。それが、コンピューターが入ると瞬時にできると言うのです。コンピューターが入ったら超高層ピルは実現可能になる。超高層ピルの理論はもう戦前から東大、京大の先生方が耐震工法という数々の理論を出しているから理論的には可能でした。後の問題は、これを具体化するための計算力がなかなか伴わないことでした。
そしてその理論ができていたところに、これを具体化可能な計算機が入ってきたことになります。そのために霞ケ閲ピルは八年で完成しました。しかしその時の日本でたった一台のコンピューターは真空管式でした。十畳ぐらいの部屋に真空管が立体的に山ほど積み重ねてあって、見ただけで圧倒されるような機械で、さすがに凄いと思っていました。
[問題のある近代技術文明]
ところがこのコンピューターは、今の皆さんが日常で使っておられるパソコンより性能は悪いのです。皆さんの使っておられるパソコンの方が遥かに性能が高い。それはどういうことか、あの1960年からまだ半世紀も経っていません。コンピューター一つ取り上げてみても、あの時の日本で、たった一台のコンピューターより遥かに性能のよいパソコンを今では何万人の人々が使う時代になっています。それくらいに二十世紀は、近代技術文明が急速に進歩しているのです。戦前は私たちでも理解でさる程度の発達でした。確かにV丁信管、レーダーにしてやられた、と思っていました。そして原爆は、まさに決定的なものでした。
近代技術文明が進歩すると、社会に貢献することができるという価値観、しかしその価値観は、原爆以降は非常におかしくなってきています。それは素粒子の世界に入ってきたからです。素粒子の世界に入る以前の私たちは、例えば自動車ですが、兵学校全クラスの中で、誰でも自動車の運転ができるようになったのは私のクラス以降でしょう。その頃の自動車は故障しても、すべて私たらの手で直すことができました。ところが今はどんな小さな車でも、コンピューターというブラックボックスが入っているから直すことができません。いわんや皆さんの携帯電話などは、故障しても自分で直せるはずはありません。私たちの周辺はすべてがブラックボックスばかりなのです。私どもは平気な顔をしていますが、我々の知らないところで色々な物が動いているのです。そして近代化したから社会がよくなったかと言うと、公害問題が起さる、自然環境を破壊する、温暖化問題が起きてくる。このような近代化とは、一体何だろうかということになります。
この問題を見極めたいと私なりの近代化、合理化について考えてみました。例えば超高層ピルの場合ですが、人間にとって一番よいという気候環境、温度湿度はどのくらいがよいかというデータは出ていますから、エアコンなどを使って最も理想的な温度や湿度を作ることができます。超高層ピルでは、うっかりして窓を開けて物を落としたりすると大変ですからすべて国定されています。超高層ピルは、ちょうどジェット機と同じように外界とは完全に遮断された環境になっています。そんなところに長時間過ごしているとどうなるか、確かに身体はとても楽です。けれども自分では意識しない中に、かなりの精神的なストレスがかかっているのです。これには私自身も気がつきませんでした。
私は自分で設計した新宿三井ピルの50階に、自分のオフィスを置いて仕事をしていました。そのピルは74年に完成していましたが、75年の冬のある日のことです。その日の朝、出勤した時は曇っていました。今日は一日中曇りだと思いながら仕事を終わって、夕方下に降りると、下はもの凄い吹雪で周囲は真っ白でした。五十階にいると外界と遮断されているから判りません。五十階は地上200メートルになるから雲の中に入っているのと同じで、外を見ても何も見えません。だから今日は一日中曇りだと思っていたのですが、実は下界は雪の世界だったのです。
仕方がないからその雪の中にウイシャツのまま飛び出して行ったのですが、そのとき何とも言えない安らいだ気持らになったのです。身体は冷たいのです。周りも冷たいのですが空を仰いで非常な開放感を味わったのです。「アレッ」と思いました。
やはり人間は自然の中の一部だったのです。人工的な最も理想的な温度や湿度の中にいた時よりも自然の吹雪の中にいた万がずっと安らぐというのは何だろう。それから私の疑問が始まりました。
考えてみたら、戦争中は船乗りでした。今日の温度、湿度、雲行きはどうか。何時も空を見て雲の動さで今日の午後は雨になるかも知れない。そんなことを気にして、港に入ったら潮はどうなっているか。潮の流れでブイとの関係が全く変わってしまうから、潮の満ち引き、雲行き、それから月齢というものをすごく敏感に感じていないと海上生活はできません。
そして戦後です。超高層ピルに関係している頃、製図板に向かっていて、全く何も外のことを知らないで、そして人間にとって最もよい環境はどうかと一生懸命に考えて、超高層ピルを作って都市計画をしていた自分は、大間違いをしたのではないかと気がつきました。
それから色々な文献を読み始めると、1970年代に、ルイチェル・カーソンというアメリカの生物学書か「沈黙の春」という本で警告を発していました。これは文庫本になっていますが、要するに、DDTを飛行機で農作物の上に撒くと生産がぐんと上がります。DDTを開発した科学者はそのお陰で、世界中の農業生産が爆発的に向上したとしてノーベル賞を貰っています。DDTは1939年に発見されていますが、ノレベル賞を貰ったのは1948年でした。人類に貢献したからと言うのです。
そのDDTに対してルイチェル・カーソンは、「これはおかしい、こうして昆虫を殺して、その昆虫を食へた鳥が死んでいる、春になると、森は小鳥の囀りで賑やかになるのに今は沈黙している」。という象徴的な「沈黙の春」という本を出しました。もちろんアメリカの農業団体、農薬会社は猛反対して、その出版を止めようとしました。それをケネディ一大統領がこれは出版すべきだとして出版を命じたのです。それが翻訳されて私たらが読むことができるようになったのでした。その頃から近代技術文明が進歩発展すれば、世の中をよくなるという私たらの神話は明らかに変わっていたのです。
また当時のローマクラブという世界の賢人が集まったクラブでも近代技術文明を批判しています。成長には限界がある、どこまでも生産性が上がって行くなど、それはどこまでも無限に続くはずはない、必ずあるところでカタストロフイ、破滅に陥る。近代技術文明は、令や加速度的に進んでいるが必ず破滅に進んで行く、そのような警告を発していたのです。
それから戦争当時、私自身が戦争のあの近代化のために、してやられた体験があるから、戦後の日本の建築界をいかに近代化を進めねばならないかと、近代化を進めてきました。その近代化そのものに問題があることに気がついてからが、私の放浪の旅の始まりでした。一体どうすればよいのか、それが最大の問題です。本当はそれだけのための講演をしているのですが、今日は戦争体験の話を加えましたからそこまで行さませんが、実は近代技術文明には非常な問題があるのです。
近代技術文明を支えている哲学は、皆様よくご存知のデカルトです。デカルトが生まれたのは日本の戦国時代です。彼があの有名な「われ考える故にわれあり」の哲学を唱えたのは、ちょうどヨーロッパは中世の暗黒時代、宗教裁判で魔女狩りのあった時代でした。あの人は魔女だ、と言われると裁判にかけられ、魔女だと断定されると火焙りになりました。ヨーロッパでは、一万人ぐらいの犠牲者が出ています。
そんな暗黒の時代の中でデカルトは、人間には尊厳がある、人間は考える、考えることは神から与えられた唯一の尊いものである。人間以外のもの、例えば樹木、昆虫、動物などは考えない。実は考えているのですがその時の彼は考えないと断定しました。人間神から選ばれた人種である。この世界の中では人間が中心になって考えるべきだ。人間が合理的に判断してそれを行うことはよいことだと論じました。これはあの中世の宗教裁判などでも、犯人かどうかはちゃんとした証拠がなければなりません。ですから、そういう意味で、人間にとっては明るい人世の哲学でした。
そこで皆は、これはよい哲学だとして、近代合理主義に進んで行ったのです。それをサポートしたのが、産業革命に続く近代技術文明でした。そして人間が作り出した蒸気機関などで自然を人間に都合のよいように変えることによって、確かに暮らしも経済もよくなりました。しかし発展途上国などは近代化していないからいつまで経っても暮らしはよくなりません。確かに近代化すれば暮らしはよくなります。日本も明治維新で近代国家になったから、近代合理主義が一番よいと、そのデカルト哲学で進み始めました。
私たちも小学校からしっかりと洗脳されました。私が子供の頃はまだ昔からの井戸水を使う生活をしていました。井戸端には水神様を祀ってあって、毎朝学校へ行く時は「行って参ります」。帰ってきたときは「ただ今」と水神様に手を合わせるように子供の時から仕込まれて育ってきました。それら井戸端で少しでもオシツコなどすると、罰が当たると叱られました。その罰が当たるという言葉を散々に聞かされて育ってきたのです。
ところが中学校へ入ったら、水はH2Oで水素と酸素の化合物である。また実際に水素と酸素で水ができます。目の前での実験だから非常に判り易い。ところが水神様は目に見えません。ですから近代合理王義は非常に理解し易いのです。水神様の罰が当たるというのはどうも迷信臭い、いや迷信だと思ってしまいました。そして旧来の晒習をうち捨てて、近代合理主義こそ世のため人のためになるという価値観を身につけて、今の超高層ピルまで進んできたのです。
[伝統の文化『足るを知る』]
ところがよくよく考えてみると、近代合理王義でどこまでも進んで行ったとしたら、その行く末の世界はどうなるか、それはもう破滅以外に想像できません。今生まれたばかりの曾孫が大人になる頃の世の中は、どうなっているだろうかと想像しただけで非常に暗い気持らになってしまいます。そこでよく考えてみると、この近代技術文明一辺倒というのは非常に危検なことが判りました。
それでは、その文明に対してどうすればよいのか、文明に対して文化という言葉があります。実はこれからが本当の私の話です。日本語で文明と文化について辞書を引いてみても何ともはっさりしませんが、文化人類学の方では非常にはっきりしています。文化というのは人間の知恵、色々な生活の知恵です。
例えば縄文時代のある集落が生活しているとします。その集落の中の長老たちは、色々と自分たらの経験したことを次の世代へ伝えて行さます。山菜を採る時は、その根まで取ってしまうと翌年は出てこない。こうすれば翌年も生えてくる。そのような色々な知恵を、親から子へ、子から孫へと伝えて行さます。 それが文化です。ですから文化は、地域によって違います。
アフリカのサパンナでは、どうして猛獣から身を守るかが大切です。だから彼らの住宅はブッシュの中にカムフラージュされています。私たちがちょっと見ても判りません。そんなのがその土地の文化です。文化というのはその土地国有のものですから、日本には日本の、アフリカにはアフリカの文化があってそれぞれ異なっています。そういうのが文化です。
文明には、非常に普遍性があって合理的だから、アメリカで開発したエンジンはそっくり真似して日本でも開発することができます。一か所で可能であったらそれが世界中に広がります。ところが文化はその土地に固有なものですから全く違っています。
何より一番違うのは、文明は創造、クリエイトするもので、今までの常識を破って全く新しい考え方をクリエイトするのが文明創造活動です。文化は伝承ですから勝手にクエイトするのではなく、ご先祖様からの色々な生活の知恵があるから、浅はかな私たちの百年やそこらの考えでどうこう言う性質のものではありません。何万年もかかってでき上がっているものが文化です。きすから文化は伝承して行かねばなりません。
文明を発達させる原動力は何か、それは欲望です。欲望なしに近代技術文明は一歩も前進しません。どんなによいコンピューターができても、それを上回るコンピューターが出てくると皆がそちらの方を求めます。もっとよいもの、もっと速くコンパクトなものをと、そのように欲望をどんどん駆り立てて行くのが文明です。ですから、欲望が文明を進歩させているのです。もし欲望が途絶えたら、この辺りでもうよいとなったら文明はストッフしてしまいます。ここで欲望が原動力だということの、その行く末をよく考えてみて欲しいのです。
私たちは「足るを知る」ということが、非常に大事だと教わりました。欲望をどこまでも限りなく進めて行けば、破滅に行き着きます。ですから、私たらは常に「足るを知る」ことが大事なのです。文化は「足るを知る」ということです。これ以上、便利なものはもうよい、ということです。
文明が発達して行くと、身障者や老人、我々のクラスメートの中にもいますが、動けない寝たきり老人などがテレビのチャンネルを変えてみたい、このとき、リモコンは大変に有り難いものです。ところが、リモコンができると、若者で元気溌剰とした者までが寝そべってリモコンを使っています。二歩か三歩か歩いてダイアルを回せばよいのにそれをしません。ですから、人はどんどん堕落してしまいます。
文明というものはどのように扱うか、どのように接するかが、非常に大切なのです。それが今のほとんどの人にはできていません。教育そのものが、勉強々々と欲望を掻さ立てています。少しでも金儲けをしようとしています。そんな欲望ばかりです。確かに欲望がなければ文明ガストッフしてしまうから欲望も大事ですが、今は欲望だけの社会、アメリカ、ヨーロッパがそうだった時はまだしもでした。しかし、これに日本、チャイナ、インドなど、世界中の古くからの文化を持った人々が加わって技術文明を追い求め、進歩発展、進歩発展と、欲望の行くままの社会になりました。
欲望の行き着く果てはどうなるか、それは、はっきりとしています。破滅以外にありません。破滅以外にないという考え方について、ジャーナリズムも教育の中でも一言も触れていません。ましてや「足るを知る」という言葉などはもう死語になっています。「罰が当たる」などと誰も申しません。字はせいぜい 「モッタイナイ」、資源を大切にしようという言葉が幾らか復活してきましたが、もうそのような問題ではありません。根底が違っています。
近代技術文明そのものに対して冷徹に批判する目を持っていないと、これからのあなた万のお子さん、お孫さんたちが生さて行く上で非常な問題が起きる。私たちは日本の文化を嫌というほど鼻につけた世代ですから、字こそ、その文化「足るを知る」、そして互いに尊敬しあう、親から子へ、さらんと伝える、伝承する、そういう文化をぜひ伝えて行かねばなりません。
そういう点では私たらの海軍兵学校は、近代化と同時に、日本の文化を根底にしっかりと教育してくれた唯一の学校であったと思います。私たらに非常に禁欲的で「足るを知る」という精神を植えつけてくれた教育であったと思います。そのような教育を、戦後の私たらは息子の世代に全く伝えませんでした。それを今は反省しています。
皆様も私と変わらない世代ですからおそらく同じ思いがあると思います。ですから皆様の持っておられる価値観こそ、これからの孫や曾孫にぜひ伝えて欲しい、これは非常に大切なことだと思います。日本の文化をぜひ復活させて欲しいと思います。これで私の話を終わります。
池田武邦のプロフィール
年 譜 | |
1924年(大正13年) 1月 | 静岡県にて出生(本籍:高知県) |
1940年(昭和15年)12月 | 神奈川県立湘南中学校卒業、海軍兵学校入校(72期) |
1943年(昭和18年) 9月 | 海軍兵学校卒業、海軍少尉候補生任官 |
10月 | 軽巡洋艦「矢矧」航海士拝命 |
1944年(昭和19年) 3月 | 海軍少尉任官 |
6月 | マリアナ沖海戦に第十戦隊旗艦「矢矧」航海士として出撃 |
9月 | 海軍中尉任官 |
10月 | レイテ沖海戦に第十戦隊旗艦「矢矧」航海士として出撃 |
1945年(昭和20年) 2月 | 軽巡洋艦「矢矧」測的長兼第四分隊長拝命 |
4月 | 沖縄海上特攻に第二水富戦隊旗艦「矢矧」測的長として出撃 |
軽巡洋艦「矢矧」撃沈され海上漂流5時間、駆逐艦「冬月」に救助さる | |
5月 | 大竹海軍潜水学校教官 |
6月 | 海軍大尉任官 |
8月 | 終戦 |
10月 | 復員船「酒匂」乗組(分隊長)、ニューギニアの陸軍将兵を内地送還 |
1946年(昭和21年) 2月 | ビキニ環礁における原爆被爆実験艦として「酒匂」米軍に接収 |
4月 | 東京大学工学部建築科入学 |
1949年(昭和24年) | 東京大学工学部建築科卒、山下毒郎設計事務所入社 |
1962年(昭和37年) | 工学博士 |
1967年(昭和42年) | 山下薔郎設計事務所退社、日本設計創設、取締役 |
1976年(昭和51年) | 日本設計代表取締役社長 |
1993年(平成 5年) | 日本設計名誉会長 r |
1995年(平成 7年) | 長崎総合科学大学教授 |
2000年(平成12年) | ハウステンポス代表取締役会長 |
2003年(平成15年) | ハウステンポス代表取締役会長退任 |
2004年(平成16年) | 長崎総合科学大学名誉教授 |
現在の職業 | 長崎総合科学大学名誉教授 |
日本建琴学会名誉会員 | |
日本建築家協会名誉会員 | |
NPO法人「樹木環境ネットワーク」最高顧問 | |
主な著書 | 「大地に建つ」 エコシティー出版 |
「ハウステンポス・エコシティーヘの挑戦」かもがわブックレット | |
「人・自然・共生の作法」(長崎自然環境フォーラム編著)出島文庫 | |
主な受賞建築作品 | 霞が閲ビル (日本建築学会業績賞) |
京王プラザビル (日本建設業協会賞) | |
新宿三井ビル (日本建築学会作品賞) | |
東京都立大学キャンパス(日本建設業協会賞) | |
徳島県庁舎 (日本建設業協会賞) | |
ハウステンポス (日本造園学会賞) |
これは池田武邦君が平成21年11月24日 東京ドームホテルで行われた海軍兵学校76期の全国総会の時行った講演である。