平成22年4月18日 校正すみ
イ三十三潜につながる話
小西 愛明
去る六月十二日夕、イ三十三済慰霊祭に参列の為、宿舎に来られた方々との前夜祭で、会食の始まる前に、呉鎮守府潜水艦戦没者顕彰会長として来られた高見俊作氏に初にお会いし、七十二期の小西ですとご挨拶すると、私は六十六期で七十二期とは縁があり、三三二空で戦死した高見隆三の兄ですと名刺を出しながら話された.その後、会食、慰霊祭、直会と三度隣にいて、親しくお話を聞く機会を得た.
イ三十三潜水雷長として、殉職された平沢大尉と同期の方と思っていた(同大尉の妹さんは毎回参加されるが、六十六期会で同氏を知っておられる由)所、高見の話で杉田繁春、相澤善三郎、向井寿三郎、林 藤太の名前を聞き、さらにイ三十三潜の艤装員で初代航海長を勤められた方であると知って驚きながら、一号二十二分隊会の靖国神社慰霊祭後の昼食会時に、渡辺光允が三三二空の話でB二十九と戦って戦死し、京都府下の山中に散華した期友のことにふれたのを思い出し、さらに「なにわ会会誌」でそれらしい話を読んだことを思い出した。
(ニュース七十三号十一頁 向井寿三郎記)
向井の手記の写をお送りした所、おり返し、「ジーンと来ました・・・・」と丁重なお手紙を頂いた.戦争末期は兄弟四人とも戦場にいて、母一人留守番で、遺品(軍刀その他)は呉鎮まで届いていたらしいが、戦後になって始めて復員局からB二十九の爆撃で焼失し、遺骨のみ残っていると連絡があり、受け取ったが、中味は名札のみであったこと、杉田繁春の尽力で終焉の地が判明し、訪れることが出来たことや、相澤、向井に詳しく話を聞くことが出来たこと、藤井伸之が生前十四分隊会の帰途、一・二・三写そろって墓参に訪れたこと、お墓は古鷹山を望む小高い丘にあること等期友との緑を書いておられ
た。名簿によれば高見は三三、一九、一四と一学年時三三分隊、三三二空で戦死と、偶然とはいえ、三三の数字に縁があったと思う。
なお、高見氏と一緒に来られた方のうち、成林氏は顕彰会の事薔局長で、私と一緒に泳いで助かった岡田氏の戦友、川崎氏(同会理事)は呉鎮潜水艦慰霊碑の建立に際し、同碑の運搬と建設に係られた方で、戦後呉でイ五
十八潜橋本艦長が始められた蒲鉾店を手伝っていた等言っておられた.(イ五十八はイ三十三と同じ巡潜乙型)
六十六期の弟で七十二期には他に諸橋がいる。彼の長兄久義氏は記録映画「轟沈」で知られるイ十潜最後の水雷長として、サイパン付近海域で戦死されたが、同艦の英霊は佐鎮潜水艦合同慰霊碑に合祀されている。
(なにわ会ニュース85号46頁 平成13年9月から掲載)