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平成22年4月23日 校正すみ

原村回想録

山根眞樹生

山根真樹生 現在の広島カンツリー倶楽部

 「カイヘイゴウカクイインチウ」の電報を握りしめ、天にも昇る心地で、江田島の門を潜った鳥取の田舎出身の男は、赤い煉瓦にどんな鬼が棲んでいるのやら、また、江田島の四大イベントの遠泳、遠漕、原村演習、彌山の何たるかを知らずに入校したのは不覚であった。

 中学の教練で、鳥取砂丘を鉄砲かついでさんざん走らされ、それが嫌で海軍に入ったのに、ああ無情なるかな、入校当初の課業は陸戦ばかり。ちと話が違うのではないかと思ったが、あとの祭りであった。

 三年の江田島生活のなかで、何が一番辛かったと問われれば、躊躇なく原村→海田市の退却戦訓練と答える。

 あの重い三式機銃の台架の一端が肩に喰い込んで辛いのなんの、それでも歯を食いしばって駆けも駆けたり十数キロ。一生の辛い思い出である。

 手元に袖ヶ浦カンツリー倶楽部の会誌に掲載された寄稿文があるので、再現してみる。

『ゴルフとの因縁』 (昭和四十七年)

「ゴルフ場という言葉を始めて耳にし、実際に見た三十年前のあの日の光景は、今でも正確に瞼に焼きついております。それはまだ紅顔十七歳の昭和十六年十月下旬のことです。

恒例の秋の大演習が全校生徒参加のもとに、広島県加茂郡原村の陸軍演習場を借りて、約一週間開催され、徹底的に鍛えられたものです。当時私は海軍兵学校一年生で、たとえば漆黒の暗夜斥候に出され、「ゴルフ場付近ノ敵情ヲ偵察スベシ」との命令を受けた時は、戦々恐々として暗い道を心細くも手探りで歩いたものです。演習の最終日は、時局柄廃業させられたゴルファーのいないゴルフ場を挟んでの大遭遇戦です。もともと私はゴルフとかゴルフ場とかいう言葉を知らない田舎者でしたので、絨毯を敷いたような見事な芝生、小高い山やあちこちにうまく配置された砂場(今考えてみればバンカー)や池などを目のあたりに見て、美しさに驚くと同時に、一体ここでどんなことをするのやらと少年らしい空想を馳せながら、機関銃を構えるのでした。しかし、芝生をやたらに傷つけたり、その他の乱暴狼籍は他の生徒ともどもやらなかったことがせめてものなぐさめです。と言うのは古来江田島の躾教育の一項目に「芝生内二立入ラザルコト、芝生ノ端ヲ踏マザルコト」が厳しい掟としてあり、これに違反すると上級生の鉄拳が飛んできたためでしょう。

 有為転変、以来三十年、いまや自分も人に劣らぬゴルフの虜となりましたが、当時一緒に機関銃をかついでゴルフ場を駆けめぐつた多くの同期の桜は、南溟に散りました。不思議に命永らえてゴルフを楽しめる身をしみじみ勿体ないと思い、あの当時の亡き友にすまないと思います。ご参考までにあのゴルフ場とは今の広島カンツリー倶楽部八本松コースです。

 戦争も終り、昭和二十四年東京で学生生活を送ることになり、駒沢に下宿を探しあて、勉強の合間に散歩に出かける余裕も出てまいりました。大先輩のゴルファーならご存知のとおり、あの一帯は旧東京ゴルフ倶楽部のゴルフ場跡でした。当時は見渡す限りサツマ芋、大根の畑でしたが、ゴルフ場のレイアウトもアンジユレーションも昔のままのたたずまいを残しており、その快適な散歩道をぶらりと歩くのが何よりの楽しみでした。晴れた日には何の遮るものなしに富士の山が見通せました。正直いって当時の貧乏学生の自分が将来ゴルフをやれるようになるだろうとは一度も考えたことはありませんでした。それは夢のまた夢で余程の金持か特権階級のやることだという意識はあったと思います。しかし、不思議にゴルフに対する抵抗感はなかったように思います。ゴルフシューズをとおして伝わる芝生の感触が三十年前の昔の演習のこと、そして二十年前の駒沢のゴルフ場跡の散策の思い出につながるたびに、ゴルフとは矢張り無縁でなかったと思わずにはおれません。 文中の広島カンツリークラブ八本松コースは昭和三十八年に再開場した。現在の所在地は東広島市八本松町原と番地は変わっているが、ゴルフ場は昔のところを中心に再現され、広島県下随一のチャンピオンコースとなり、名門中の名門である。現在は樹木が大きくなり、昔の面影をうかがい知ることは出来ないが、四周の景観は少しも変わっていない。女子プロの試合もときどきテレビで放映されるので、ご覧になった諸兄も多いと思う。いわゆる丘陵林間コースで豪快ではあるが、難攻不落である。バックティで六九五〇ヤードあるからご老体では打っても打っても 届かない。

 広島方面でゴルフの機会があるときは、何とかかんとか理屈をつけて、八本松に出かけることにしていた。新日鉄時代から数えると七回ぐらいプレーしたと思う。あのコースを歩いていると、不思議に昔の若い顔が浮かんでくる。同分隊の三号には大柄な柄沢節夫、古川次男、水野英明がいた。はっきりした記憶はないが、ときどき青マークの實吉安志もいたと思う。誠実一途の神保政夫、前原博生は模範生徒だった。江戸ッ子の高木日出雄は小事にこだわらず泰然としていた。熱皿漢で後に回天特披隊に加わった橋口寛、中島健太郎の二人は、よくしゃべり、良く食い、よく走った。あの頃はみんな若かった。明るかった。ロマンがあった。悲しいかな同分隊三号のうち右の九名が戦死とは、何とすさまじい戦争であったかと思い知らされる。

 先年、広島出張の折、八本松に近い新広島空港で降りて、かねての念願であった昔の退却戦訓練の道を確かめるべく、年配のタクシー運転手にわけを話し、旧道をゆっくり走ってもらった。車中右を見ても、左を見ても、思い出す景色は何一つない。豊かそうな町並みや静かな山村が果てしなく続く平和な世界であった。要するに、あの当時は必死の思いで、前だけ見ながら駆けたということか。車中運転手に、江田島海軍兵学校のこと、海軍陸戦隊のこと、原村の演習のことなどいろいろ話して聞かせた。

 懐かしい広島弁の運転手曰く。「海軍の丘隊さんがなんで原村まで来て演習したのかいな?最後には機関銃担いでこんな道を海田市まで走りなさったって本当かいな。自衛隊の装甲車で移動すれば良かったのになあ」 御説ごもっともである。しかし今更何を反論しても無駄だと思った。無理もないと思う。戦争を知らない世代には想像を絶する世界の出来事としか映らないだろう。

 指折り数えてみると、丁度六十年の歳月が流れている。世の中もすっかり変わって、老人達は昔の公序良俗いずこにありやとブツプツ言っているが、大変革で世の中が大きく変る時は、こんなものではないかと思っている。若い世代にはそれなりの世界があるだろうし、われわれ老人には老人特有の依怙地や自惚れがある。わたしはこの依怙地をとおして「一怒一老」をわが身に言い聞かせながら、自分の人生を貫くつもりだ。

 諸兄笑うなかれ。われ喜寿を過ぎたりとはいえ、闘志まだ衰えず。折あれば、今一度八本松を訪れ、チャレンジしてみたい。

(なにわ会ニュース85号44頁 平成13年9月から掲載)

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