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平成22年4月18日 校正すみ

ハ201型潜水艦の短い生涯

春日 仁

春日 仁 ハ 201

終戦の玉音放送の時は、我々の潜水艦ハ201202203およびイ202203は伊予灘に於いて、旗艦にしき丸(11潜戦)に対し襲撃訓練の最中であった。訓練が終ると、毎日の如く旗艦に舫(もやい)をとり、各艦長と航海長は会議室に赴き研究会を行う。旗艦側からは旗艦の航跡図とマストから撮影された各雷跡写真が示され、イ201型(潜高)からは自画器による航跡図が提出される。各艦長から襲撃経過の説明があり、最後に参謀から講評が与えられる。各艦とも概ね90%の確率で命中するところまで練度が向上しており、6艦隊の実戦部隊に編入されるのも間近いとされていた。我々が11潜水戦隊を卒業した後には、ハ201型(潜小)のハ204から210(既に個艦訓練に入っていた)及びイ402があった。イ204205206207 は建造中であったが、構造が精緻に過ぎ竣工が遅れ気味とのことであった。

研究会は終り、この日に限り各艦長は暫く残り、各艦はそのまま待機せよと指示された。

やがて各艦長は各艇に戻り、それぞれ舫を解き我々潜小隊3隻は大畠泊地(柳井のすぐ東)に向った。ブイに舫を取ると、既に日没は過ぎていたが、「総員上甲板」が命ぜられ、艦長より「終戦の詔勅が下された」事が告げられた。

「艦としての行動は、やがて示される。あらゆる事態に即応出来るよう兵器、機器の点検整備に万全を期せよ。日課と基本訓練は従来通り続ける。他艦も軍艦旗掲揚降下は勿論、「総員ハッチ突入訓練」も続ける。軽挙妄動は許されない。」旨が達せられ、解散となった。

気が付くとコレスの機関長岩間と二人だけが上甲板に取残されていた。昨夜まで灯火管制で真っ暗だった大畠部落の無数の灯りが嘘のようで、一つの幕は確実に降ろされたのだなとしみじみ実感していた。突然岩間は小生の手を握り、「時至らば、立派に腹を切ろう。」と言い、小生も「おう。」と応じ、強く握り返した。

 

8月17日。旗艦より電命「ハ201202203ハ呉ニテ実用魚雷、燃料、真水、食糧ヲ搭載スベシ」。「潜水艦はやるんですね」と艦内は急に活気に溢れた。8月18日、軍艦旗掲揚後直ちに「出港用意、舫放て」。3隻は、ハ201(艦長佐藤嘉三(70期)、春日(72期)、岩間(53期))、ハ202(艦長菱谷(70)、山田(良)(72)、室井(53))、ハ203(艦長真山(70)、岩本(72)、橋本(53))で艦番号順に単縦陣を組み、クダコ水道を抜けると真直ぐ北に針路を採る。

暫く行くと、遥か南方に大型潜水艦が見え、それがみるみる中に我々の航跡に乗って追い付いてくる。どうやら前方に格納庫の突出たイ乙型らしい。ひょっとするとごく最近インデアナポリスを轟沈させたイ58が帰路を急ぐ姿では? まさに然り、イ58は潜小隊の右側を平行すれすれに追い越そうとしている。「艦長、お祝いの信号を送りましょうか」と提案、直ちに手旗で「カクカクタルセンカヲシュクス センショウタイイチドゥ」。

58艦橋上に橋本以行艦長や砲術長田中宏謨(72)の顔が見える。

直ちに返信あり、「カンゲイヲシャス マスマス クンレンニハゲマレタシ」。イ58は約20節、当方は10節、みるみるうちに我々を追い越し、淡い煙を残し視界から去ってしまった。阿多田島が見えてきたその時、3番艦より2番艦を経由して信号、「エタウチニタチヨリ セイトヲゲキレイシタシ イカガ」。

佐藤艦長より「×カヨカ×リョウカイ ワレニツヅカレタシ」。

安渡島を左に見て津久茂瀬戸より江田内に滑り込む。丁度その時、兵学校の校庭に何があったのであろうか。全生徒が整列していたが、その整列が急に解け、白い作業服がダビットの並ぶ海岸に一斉に走り寄り、我々3隻に対ししきりに帽を振ったのである。320トンとは言え、3隻が間合(まあい)をとって円を画くと、大原分校の海岸にも接近する。分校も全く同様で海岸を埋めて帽を振っている。1番艦としてはこれに答えるべく、かねて準備の「南無八幡大菩薩」の幟を短波マストに結び高々と掲揚、2番艦も3番艦もそれぞれ菊水の旗や吹流しなどを掲げた。

戦後757677期の人達に聞いてみた処、皆よく覚えていて確か3回位ぐるぐる回られましたよ、と言うと他の連中は、いやもっと多かったですと云う。小生も数は覚えていない。

201型は艦橋が狭く舵輪が置かれていない。ハッチを通じて発令所の舵手に大声で面舵、取舵を指示し舵手は外界を目視することがないので、浮上中の操舵は実は危険が多い。舵にばかり気をとられ、生徒達の挙動は二次的なことであった。それでも3回目位になると、生徒がそれぞれ手信号を送り出した。

とても読み切れなかったが、最も多いのが「シンシュウフメツ」であった。

江田島を去る際、松ヶ鼻の利根、飛渡ノ瀬の大淀が共に砲塔まで波に洗われ傾いている姿が目に入り、聯合艦隊の破滅をハッキリ認識した。

呉に着くと、かなりの潜水艦が既に来て盛んに積み込みを行っていた。6艦隊旗艦筑紫丸と潜水艦基地隊が全面的にバックアップしてくれている。夜となり我々の順番がきた。筑紫丸に横付けし、沢山の投光器のもとで、訓練用魚雷の搬出、実用魚雷の搬入を夜を徹して行う。翌日には水船、油船がやって来た。田平船も横付けし、米、缶詰、タオル、ちり紙など気前よく配給してくれた。

工廠の建物は無惨な姿を呈していたが、修理を申し出ると溶接機を持込んで心よく応じて呉れた。「潜水艦だけはやるんだそうですね。何でも手伝いますから、出撃の時は是非乗せて下さい、お願いします。」と懇願する勇ましい工員さんの姿があちこちで見られた。

各艦の出撃準備が出来上ると、艦長クラスの6艦隊長官醍醐中将への直訴が始まった。

「出撃命令を下さい。何時になりますか。」と詰め寄られると、中将は「中央を説得して必ず出撃の許可をもらってくる」と申され、飛行服に身を固めて直接呉沖から水偵で飛び立って行かれた。

中将は極めて律儀な方で、翌日には舞い戻られ、艦長等の相手をされ、再び飛立って行かれる。計3回位繰返されたと記憶するが、我々潜小隊の先任将校達は少し醒めた目で中将をお気の毒とも思っていた。これには実は小生らの人間醍醐に対する特別の思い入れがあったのである。

余談になるが、その年の二月我々潜水学校普通科学生(U)40名(72期)と15名(53期)が卒業したのであるが、小生も含め若干名は艦ではなく、そのまま潜校で蚊竜搭乗予定の予備学生と予科練生の教官を命ぜられていた。

脾肉の嘆を(かこ)つ同僚の山田や岩本に誘われて、当時潜校の校長であった醍醐中将に「何とか早く艦に乗せて下さい」と直訴したのである。

中将から「分った。然し今やって貰っている仕事は極めて重要なんだよ。」と諭されて引き下がった。ところが間もなく中将から呼ばれ、「実は諸君の乗る艦は既に決まっている。少し早いが佐世保工廠に連絡して置いたから、勉強のため一度見て来たまえ。」と申された。この事で、我々は中将の誠実な人と迅速なアクションに恐れ入り、傾倒するに至っていた。

佐世保に行くと、技術士官が詳しく案内してくれた。大ドックの中に3条の軌道を敷き、軌道上にはそれぞれ恰も大根を輪切りにしたような格好の5つのブロックが各台庫の上に載せられており、盛んに溶接の火花を散らしていた。これ等はハ201202203潜となる筈と告げられた。完成した姿を今イメージするのは少し難しいかも知れませんが、実物大の模型があり、その中にも入れますよと格納庫のような工場に案内してもらった。

このような経緯もあって我々は出撃命令に対しては、待ちの態度を取っていたが、待ち切れない艦も多く、例えば歴戦の雄イ47潜などはデモンストレーションとして毎日高々と菊水幟を翻しながら港内を遊弋した後、屋形石のあたりまで出掛けるのである。

その頃の大竹の潜水学校の様子を元奈良県立医科大学長の石川兵衛(74期)は次の様に語ってくれた。当時の潜校の教課内容はハ201型一本に絞られており、この艦だけは量産に成功しており(ハ239まで既に着工)、乗る艦に困るような事はないとて、張切って勉強に励んでおりました。

そんな時に終戦の詔勅ですから皆悲憤慷慨し、学生は手分けして大竹の町に出て辻説法をやったんです。「諸君、柔弱なる側近の仕組んだ罠に嵌る勿れ!神州不滅を信じ戦い抜こう〃‥」とやったんです。大竹は潜校で持っているような町なので、皆熱心に耳を懐け、盛んな拍手を貰いましたとの事である。

さて、ハ201では艦長から海軍病院に行けば青酸カリが貰えるらしい、少しでよいから貰ってきて呉れないかと言はれた。どう転んでも、自分の身は自ら処さねばならぬ時が来るのだ、との覚悟を新たにし、10アンプル入りを2函貰ってきた。

8月はあっと言う間に過ぎ、9月に入ると各艦帰郷者と残留者とに分け、残留者は航海に必要な最少の人数とせよとの指示があり、ハ201としては帰郷者16名、残留者10名として名簿を提出した。当局側の反応は早く、帰郷者は910日艦を去ることになった。これで実質上の戦闘力は失われてしまう。複雑で淋しい気持に襲われたが、何の罪もない水兵さんを早く両親の元に帰してあげることは確かに良い事だと考えた。

9月中旬各艦の航海長集まれと言われ集合場所の広工廠に行った。米第8軍というのが呉地区へ進駐してくるので、豊後水道から広湾まで水先案内をやって欲しいとの事である。

20名が選ばれ駆逐艦に乗り佐田岬の手前まで行くと、米駆逐艦が1隻出迎えてくれ移乗した。

どんな兵器でわが神風特攻隊の突入を阻んだのであろうかと非常な興味があったが、現物に接し一寸拍子抜けした。単純な連装機銃で大型の簡単な照準環が付いているだけで射撃指揮装置らしきものが一切ない。数も少なく甲板は広々している。発射管に至っては余りにも簡素で思わず明治時代の水雷艇を連想してしまった。自転車のサドルと同じものがチョコンと雨曝しのまま置かれている。

然し、兵器以外の特徴としては、艦全体は美しく、塗装の剥落や錆が一切見当らないこと及び設計に無理が感じられないことであった。

乗員は極めて陽性で、水兵達がオールウェイズオンデッキを実践している感じで、下士官や準士官を探してはボクシングを挑む姿が多い。またよく煙草を吸う。吸殻は甲板上にポイ捨てするが、どういうシステムになっているのか絶えず掃き清められているのは不思議だ。

やがて宇和海に入ると、いるはいるは5,00010,000トン級の輸送船がピッしりと50隻位錨泊しており、マウントマッキンレイという巡洋艦が旗艦で、10隻程の駆逐艦が泊地の周囲を警戒遊弋している。小生は大型の輸送船にランチで移され、その夜は船に泊まり、明朝出港とのことで、寝室が付属している事務室に案内された。通訳の仕事場らしく通訳が4人おり愉快な時間が持てた。

彼等は皆志願して海軍の日本語学校を出たと言い、平素は傍受した電文の解読や暗号文の作成に従事しているらしく、よき機会とばかり色々話しかけてきた。「ドゾドゾ」とケーキを勧めてくれる。「オンガクスキデスカ」とレコードまで掛けてくれる。部屋の向いは洗濯屋で数人の職人が忙しそうにアイロン掛けをやっており、これは物凄く羨ましく思えた。その隣は赤と青の螺旋のランプがクルクルと回っており、のびのびとした兵隊さんの生活が窺えた。

翌日の水先案内は楽であった。航路の要所、要所には予め浮標が置かれており、キャプテンは「ヴェリウェル」を連発していた。僚船との連絡は手旗ではなく指向性のラウドスピーカーを主用していた。広湾に入ると、予め定められた航行序列に分かれ、行き脚がまだあるうちに旗艦からのスピーカーで一斉に「レッコーヂアンカー」を行う。よく訓練されているなと感じた。

早速、潜水艦基地隊は米軍の基地とされ、各潜水艦は米軍の総点検を受けた。決して厳しいものでなく、「ヴェリウェル」式だった。

その後は毎日米兵の点検を受ける。彼等は極めて大らかで忽ち我々と和み、間もなく「オサケアリマスカ、ラッキーストライクアルヨ」という仲となった。水筒の中に清酒を詰めてやると相好を崩す。米軍は酒に限り日本より厳しいが、ここでは犯罪行為には触れないこととし、端なくも見せて呉れる米兵の差別のない態度につき考え込んでしまった。

点検者が若し帝国陸軍の兵士であれば随分尊大で厳しいものではなかろうか。ソ連の兵士であれば戦々恐々としなければならない筈である。文明進度の差と捉えるべきであろうか。

201203が整備の上、米兵のみの力で米国へ回航することとなり、整備作業のため各艦から毎日2名ずつ手伝いに行くことになった。日本流の技術と操縦法を米兵に伝授することが出来るであろうかとの不安があったが、容易に解決した。日本兵と米兵の間に垣根がなく、すぐに友人になれたからであった。緊張感のない平穏な日々が過ぎ正月を迎えた。

艦長から一度郷里に帰ってこいと度々言われていたが、その気になれず、如何にわが身の始末をつけようかとそればかりうじうじと考えていたことになる。あけっぴろげな米兵の態度に少しずつ融かされつつはあったものの、妥協は許されないという頑固さも根強くあった。

元旦を少し過ぎた某日、小生は芦屋駅に降り、呆然とした。あたりは呉駅と同様瓦礫の砂漠であった。芦星川に沿ってとぼとぼと下って行くと、僅かに空襲を免れた一廓が見え、懐かしいわが家も残っているらしい。

急に父母に逢いたい気持がこみ上げ、走った。然し、現実は甘くはなかった。勢よく戸をガラガラと開けたが、出てきた人は見知らぬ女の人であった。

「春日さんの御家族は終戦の少し前丹後に疎開され、私達は同じ会社の者ですが全焼し此処を譲ってもらったのです。」と言われる。

一晩其処に泊めてもらい、翌日山陰線で峰山の母の実家の離れに辿りついた。

両親と弟は健康で先ずは安堵したが、小生の食器が一切なく早速不自由した。どうしたのかと尋ねると、仁は潜水艦だからどうせ戦死しているに違いないとて、疎開時やっと都合した2トントラックに積込む際不用不急の物はすべて芦屋の方に差上げてきたと言う。小生も両親も共に一年以上音信していなかった事に気付いた。

それにしても「戦死」は殺生だなと言うと、済まん、済まん、でもこちらも大変の連続だったんだと、先ずは目出度いと喜んでくれた。

呉にはすぐ帰った。艦の処分がもう決まりそうな予感があったからである。

2月15日呉を出港し、九州の南を回って17日佐世保に入港した。続々と各地の潜水艦が集まり、全部で40隻程になった。

爆破処分する事が決まり、41日五島沖まで航行しハ201はハ202と共にイ402の両舷に抱かれた恰好で繋止し、我々は米軍のLSTに移乗した。爆沈の様子は見せて呉れ、それは一つの荘厳な儀式であったが、肝心の自分の乗っていた艦の時には下の船室に入れられて見せて呉れない。

我々の艦の順番は最後の方だったので、殆どの艦の別れに立会することが出来た。爆薬は大型辞書位の大きさで、ハ201型では2ケを内殻のやや下側に固定し、導火線をハッチの外側まで導き、点火係の兵がライターで点火し、急いで内火艇に飛び移り、離れる。艦は恐らく下部で裂けるのであろう、火炎は見えず、突如マンホールの数だけの黒煙が天に(ちゅう)する。煙以外は何事もなかったかの如く見えるが、乾舷部分が薄くなってゆくのに気付く。

やがて水平が失われ艦首か艦尾が棒のように立ち上り、名残り惜しげに暫く静止するが、間もなくすうっと海面に吸込まれてしまう。

どうしてもその瞬間には涙が溢れた。

 

最後にハ201型の特徴を述べる。

一、水中速力が速い。13節(1,400馬力)

参考、イ20119節、較竜16節、イ587節、戦時中の米潜水艦は最大9節)。

二、流線形。潜高と同じ構想のもとで木製平甲板を(はい)し、艦首以外は現在の涙滴形にほぼ等しい姿である。

三、潜舵が艦の中央。世界に先駆けた独創的な設計で潜入、浮上が極めて軽快。急速潜航秒時25秒達成はこの潜舵に負うところが大きい。現在の潜水艦は皆これに倣っている。

四、好適射点は敵艦まで500米とされた

(一般潜水艦は1,500米)。発射管が僅か2門で必中を期するためであるが、発射後目標に衝突しないため直ちに深く潜入することが求められた。

五、潜航指揮官は機関長。

潜航指揮官は水雷長(先任将校)と決まっていたので大きい改革であったが、潜航指揮官は潜航時以外の時も常にツリム計算を行っていなければならないので、機関長の仕事は倍増した。

六、快適とは言い難い居住性。乗員は26名で、うち士官は掌水雷長を含め4名。3直制を組むことは無理で行動中は2直制とされ、ベッドの数が2名に対し一つで合理的とも思えたが、実施してみると不愉快な点が多く、停泊中は狭い空間内で皆工夫を凝らして休息しなければならなかった。泊地(穴水、大畠)では民家の一部を借りる便が与えられはしたが、思い通りには中々進まず苦労が多かった。その間愚痴一つこぼさなかった乗員一同に対し謝らねばならぬ気持で今一杯である。

順序が逆になったがハ201 202203の乗員は昭和20年4月15日佐世保工廠内の宿舎に「潜小隊」の標札を掲げ、教育、訓練、整備を行い、510日から試運転に入り、諸性能試験、潜航諸試験を行った。その結果計画性能のすべてをクリヤし、ある面では予期以上の成果を収め、又不具合箇所が発見されなかったことは奇蹟的なことで、関係者一同により「優秀」の判定が下された。

202と共に531日竣工、翌6月1日個艦訓練地、七尾湾に向け出港、途中舞鶴に寄港し、七尾湾の奥にある穴水の泊地に着いた。連日急速潜航訓練を繰返し、目標急速潜航秒時30秒に自信が持てるようになった頃、湾口にB29が機雷を敷設し始め、それが三晩に亘った。脱出不可能になる畏れがあり、電命により舞鶴経由で呉に回航した。

広島湾で個艦訓練を続行した後、7月20日付けで11潜戦に編入され、泊地を大畠に移し、襲撃訓練に専念することとなった。

(なにわ会ニュース77号 平成9年9月掲載)

 

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