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 なにわ会ギネスブック登録申請書

      多胡 光雄‥

1、件名 四・三・二号と連続第一分隊員

 時期 昭和十五年十二月〜十七年十一月

【状況説明】

@ 教官、教員、一号の全員から常に注目されているので気が抜けなかった。特によその一号の修正の際は、『模範たるべき一分隊におりながらそのざまは何事だ』と、一段と厳しいように思われた。

A 整列は必ず最前列となり目立つので、服装、動作には格別に留意して行動したものだ。

B 部外者の起床動作見学は、寝室が生徒館入口の二階にあって地の利が良いので必ず一分隊にやってきた。ある日女学生一行が来たとき、寝室入口に近い四号で、エフユーからはみ出しているのに気がつかず、一所懸命頑張ったのが居たのを思い出す。

C 連続して第一分隊員になったのは、何かの事情で特に選ばれたのかと思い、戦後石隈教官にお尋ねした処、単なる偶然の結果だよ、とのことで、ちょっとがっかりした。

 

2 「件名 弥山登山競技ゴールイン一番乗り

   時期 昭和十七年秋(二号時代)

【状況説明】

@ この競技は、途中のコースが狭く大勢が一斉にスタートできないので、分隊ごとに時間差をおいて出発し、所要時間を比較して順位を決める方法であった。

A 第一分隊は当然のことながら一番目に出発した。古鷹山での練習で一番速かった小生は、一号からの期待、激励もあり、ひとりでどんどん先頭を走った。その結果ゴールインは堂々の一番乗りで、頂上に居た審判関係者の盛大なる拍手で迎えられた。

B その後成績発表の好結果を楽しみに待って居たが、後からの分隊に好タイムを出したのがいて、残念乍らメダルを逸した。

C 実は前回の三号の時は、直前に湿疹・発熱で入室となり出場出来なかった。従って当日が初体験であり、コース全体の様子が判らない。あとどのくらいで頂上か不明で、頑張りすぎて途中でへたばってしまわないか、不安があった。そのため全力を出しきらず、余力があったことが悔やまれた。

D 前を走る者が居ればそれを抜き去る楽しみで頑張れたがそれが居らず、又併走者も居ないので競走の努力もせず、記録で負けた。

 

3、件名 アルコール燃料で飛んだ

  機種 九三式中間練習機(赤とんぼ)

  時期 昭和十九年十一月〜十二月

     (霞ヶ浦航空隊教官時代)

  場所 青森県三沢飛行場

【状況説明】

@ この頃内地におけるガソリンの入手は、極めて困難な状況になっていた。

A 代替燃料として松根油の生産が始まっていたが、その生産量は極めて僅かであった。

 霞ヶ浦飛行場の付近で生産現場を見学したことがあったが、一つの釜のパイプから出てくる松根油は、『がまの油』の口上そのままに、たら−り、たらりと、まことにささやかな量で如何にも頼り無かった。

B 一方、アルコールの方はガソリンとの混用のためかなり増産体制が出来ていた。そこで、これからの練習機をアルコールのみの燃料で飛ばせられないかと、霞ヶ浦航空隊で研究を始めた。その結果、エンジンに若干の対策・改造を加えれば可能との見通しがたった。

C 次に厳寒期の低温ではどうか、この解決のためには厳寒期の気温で飛んで見るしかない。そこで既に霞ヶ浦飛行場の厳寒期と同じ気温に下がっている三沢飛行場で実験を続けることになった。実験用に二機が準備され、その操縦員の一人として選ばれた。

D 三沢での実験概要

@ エンジン関係の対策・改造

  アルコールの気化を容易にする為の保温策として、気化器の周囲に排気管からの熱風を吹き付けることや、シリンダーの放熱片を石綿で巻いたりした。又加速ポンプのピストンの径を太くし、ポンプ作動時の燃料噴出量を多くし気化を助けた。

A 操縦法の工夫

  着陸降下時はスロットルを絞り切らず、一定の回転を保ちつつ降下して冷えないようにする。再離陸の際は、スロットルレバーを続けて二回押して加速ポンプを二回働かせ、燃料の注入量を倍にすればエンジンの回転数は確実に増大した。

E 以上で、アルコール燃料による練習機の冬期訓練が可能との結論を出すことになった。

 

4、件名 B32を要撃、撃破

  時期 昭和二十年八月十六日一〇三〇頃

     (横須賀航空隊戦闘機隊在隊時)

  場所 東京湾上空

【状況説明】

@ 八月十五日正午終戦の放送があった後、横空戦闘機隊は直ちに所有機の整備、試験飛行を開始した。目的は、戦力を保持しておいて講和条件を有利にする為と聞かされた。

A 大部分は当日中に完了したが、小生の零戦三二型は旧型のため整備に時間がかかり、翌日午前十時頃になってやっと試験飛行に出発した。六千米位まで上昇したとき、指揮所からの電話で『鴨が三羽、浦賀水道を北上中、発見次第攻撃せよ』との命令が伝えられた。見れば敵は四発の大型機三機で、高度は約三千米、約千五百米間隔の単縦陣でやってくる。銀色の機体は陽光に輝き、白鳥が湖上をスイスイと泳いでいるような美しさを、一瞬感じた。

B しかし直ぐにこれを撃つのだ、と思い直して状況判断をした。『こちらは敵の前上方におり、高度差も充分あって直上降下攻撃が可能な位置に居る。』と思った。

C 習い覚えた操縦法で反転急降下し、敵機の真上から果敢に突っ込んだ。OPL照準器にぐんぐん広がる機体に対して、二十粍、七・七粍機銃を同時に発射する。すると間もなく右内側のエンジンがパッと火を吹き、もくもくと煙が出てくるのが確認出来た。

D 一旦敵機の下へかわってから次の攻撃をと思い機首を上げたら、なんと敵機は左へ急旋回して反航してくる。こんどは前下方政撃となり、射撃レバーを引いたが数発の発射で打ちおわりとなってしまい、残念ながらとどめを刺せずに引返した。

E 敵機は垂直尾翼がひときわ大きく、明らかにB-29とは違う。当日夜の米軍放送傍受でB-32であることが確認された。

 

5、件名 飛行機乗りが巡洋艦分隊長に

  時期 昭和二十年九月〜十一月

  場所 舞鶴〜佐世保〜グァム島〜ソンソロール島〜トコベイ島〜モメリール島〜浦賀

【状況説明】

@ 八月下旬、横空から東京築地地区に移動し、焼け残りの旅館で待機中に、海軍省人事部の海軍大佐が見えて一同に懇請された。即ち緊急復員輸送を巡洋艦酒匂でやることになったが、定員不足のため出港出来ず困っている。飛行機乗りでも、兵学校の経験があれば勤まるから、誰か引き受けて呉れないかと、頭を下げて頼まれた。暫く誰も返事をしない。そこで自ら引き受けねばと考え、思い切って手を上げて乗艦を承諾した。

A 早速舞鶴軍港に停泊中の酒匂に着任し、それなりの任務をこなしつつ最後のご奉公をさせてもらった。佐世保とグァムで米軍油槽船から給油をうけてバラオ諸島南方の孤島に向けて急行し、十月二十五日到着した。

B そこには陸軍守備部隊約九百名が、餓死寸前で正に骨と皮の状態で救助を待っていた。米軍からの厳しい命令で定員の充員を急ぎ、素人の乗艦でも良いからと、何とか定員を揃えて急行してきた訳が判った。

C 復員者を乗せて十一月二日浦賀に帰港、第一回の緊急復員輸送を無事終了した。

(なにわ会ニュース第78号29頁  平成10年3月)

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