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平成22年4月23日 校正すみ

広島原爆投下を目撃して

百瀬 茂 

 昭和20年8月,私は海軍潜水学校の教官兼練習潜水艦ロ67号の先任将校として予備学生,練習生等の乗艦実習訓練を行っていた。広島に原爆が投下された20年8月6日は乗組員の健康診断のため,朝7時頃潜水学校の軍医長とともに,大竹の海岸沖に係留していたロ67潜に乗艦していた。0740頃空襲警報が発令され,直ちに潜航,着底して空襲情報に注意していたところ,0750頃,空襲警報が解除されたので,直ちに浮上した。その時、B29が2機飛んでいたが偵察だろう位に考えて別に気にとめなかった。0800頃より前甲板で乗組員の健康診断を開始した。当時は引き潮で艦首が広島の方を向いており,小生は軍医長と共に広島の方を向いた机について座っていた。8時過ぎ(後刻8時15分と分った)広島上空に今まで見たこともない凄く大きな火の玉が現われた。当時陸軍が新型爆弾の実験をやるという情報があったので,陸さん,実験を失敗したな位に瞬間思ったが,火の玉の直後に凄まじいきのこ雲が上空に立ち上り,それと共に爆風が雲を大きく波打たせ伝播するのが見え,これは凄いと思って見ていると頭上を生暖かい風が通り過ぎて驚いた。B29が落とした爆弾と思えず,陸軍が実験を失敗したのか位にしか考えなかったが,影響が大きいので,何か新型爆弾かも位にしか考えなかった。

 健康診断終了後,陸上の基地に戻った時、軍令部から機密電報で敵の新型爆弾と知った。その後,再び機密電報で新型爆弾は原子爆弾であることが分った。日本では仁科博士が原子爆弾の実験に失敗しており,米国が成功したのか。これは大変なことになったとの感があった

 

原爆投下後の広島

 当時大竹の婦女子が強制疎開の作業員として広島に行っており,午後臨時列車で帰ってくるとの情報を得て大竹駅に向った。暫く待つと列車が到着した。降りて来た婦女子を見て驚いた。殆どの人の頭の髪はザンバラで頭から血を流し,顔中血だらけ,服装もバラバラに破れ,歌舞伎のお岩さま以上に凄惨(せいさん)で見るのも恐ろしく気味悪く,人の見分けが出来ない位ひどい状態であった。迎えに出てきた身内の人も顔が分らず,皆名前を呼んでおり駅構内は騒然として,まるで地獄のようであった。これは凄いことになったと感じた。

 翌朝基地の海面を見ると引き潮で沢山の死体が流れているのが見えた。これは,原爆の炎を逃れ海に飛び込んだものと推測され,原爆の凄さを感じた。

 数日後、私は六艦隊司令部に転勤になり,大竹から列車で呉へ向った。途中広島駅で途中下車して原爆の後を視察した。後で考えると放射能が残っていたと思うが,そんなことは知らず,駅周辺を歩いて廻った。駅の足元から市全体が真っ黒こげで,真っ黒い電柱や建物の残骸が所々に見え,市全体が山裾まで見通せた。また,周辺の山も焦げて茶色になっており,これは凄く無残だ,数十万の命が奪われたのではないかと感じた。

 原子爆弾一発で大きい広島市が壊滅したわけで,原爆の凄さを身に沁()みて感じた。原爆の有無が今後の戦局に大きく影響するのではないかと感じた。

 以上記憶も薄らいた中で,62年前を思い出して書いてみた次第である。

(なにわ会ニュース98号45頁 平成20年3月から掲載)

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