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平成22年4月23日 校正すみ

兄の遺品

増田 澄

 

 戦後50年、今、新たな事実が判明しました。それは、平成七年七月下旬、酷暑の午後の電話から始まりました。電話の主は岡崎市在住の小倉喜八郎氏からでした。もちろん未知の人でした。神風特攻隊の増田脩の遺族にお会いしたいということです。理由はアメリカ海軍護衛空母、「マニラベイ」昭和二十年初頭マニラ沖を北上中、神風特攻を受け、その特攻隊員の遺品に本人の写真、両親の写真及び私の兄の名刺等があり、「マニラ・ベィ」の艦長さんの息子さん夫婦が来日されお返ししたいとの事でした。私が今まで知り得た兄 脩の情報とは少し話が違うかなと思いながら、翌日早速、私の自宅まで御足労をおかけし、お話しを伺いましたのが次の通りです。

 小倉氏の知人、伊地知南氏(鹿児島県国分市在住)から小倉氏へ依頼のお便りあり。その要点は左記の通り。

 米国、マサチュセッツ州出身のウィルソン・パートレット氏は護衛空母「マニラ・ベイ」の艦長であった。昭和二十年一月上旬、米船団のルソン上陸作戦に参加、マニラ沖を北上中、同艦に三機の「カミカゼ」が襲った。一機は海上に撃ち落し、二機目は撃ったものの船べりに沈んだ。然し、三機目が艦橋を直撃し、艦は大損害を受けたものの沈没はまぬがれた。零戦はもちろんバラバラ、塔乗員の身体も原形をとどめぬものであった。大騒ぎの中、塔乗員のものと思われる布製の財布?が無傷で回収出来たのは奇跡的と言えよう。米軍にとって日本の特攻隊など全く理解に苦しむ行為であり、遺留品は回収し調査することとなった。パートレット艦長は財布を軍上層部に提出する前に中身を写真に収め、自分で保管した。現物は軍に渡り、資料室に眠っているのか処分されたのかわからない。財布には、本人と思われる写真二枚、両親と思われる年輩の男女の写真、遺書と思われる文字の書かれた日の丸の旗(註・・国旗に書かれた寄せ書と思われる。)、飛行機の磁気修正表、公務員運賃割引証(記名、年月日なし。発行担任官横須賀海軍経理部霞ケ浦支部長、船山忠の記名あり。)そして第201空海軍航空隊海軍少尉増田脩の名刺?が入っていた。(注・・兄備は昭和十九年十一月二二十日付で第201海軍航空隊付となり、十二月一日付で任海軍中尉となっています。)

 ウィルソン・パートレット氏は職業軍人として八十余年の生涯を終え、十数年前にお亡くなりになり日本を訪れるチャンスもなく遺品は息子のランドルフ氏に残された。ランドルフ氏はマサチュセッツのある大学の歴史の教授であり、その息子のレイモンド氏はコロラド大学を卒業後日本の文部省が全国に展開しているE・A・T(イングリシユ・アシスタント・ティチァテー)として鹿児島県国分市に二年の勤務についた。然し、レイモンド氏は祖父の遺品を携さえて来たが言葉の問題もあり、調査する術もなく、そのままになっていた所、英国留学から帰国した伊地知南氏の娘さんと知り合い、それではとこの遺品の調査と相成った次第です。

 上記の通り遺品で氏名がわかっているのは名刺の増田脩だけですので、この名を頼りに鹿屋で増田脩の住所が分り、伊地知氏から小倉氏が旧住所をたよりに現住所である私共へ連絡があった次第です。

 然し、本人と思われる写真も、両親と思われる写真も私に見覚えのない人であり、別人でした。ここで、この遺品はどの隊員のものか、はたと行きづまってしまいました。私共にある資料で小倉氏と共にいろいろと思案した挙句、「マニラ・ベイ」を直撃した神風特攻機は矢張り一月五日出撃と公表された第18金剛隊、第19金剛隊及び陸軍特攻隊の中の、一人であろうと結論づけ、小倉氏が伊地知氏とその方向で調べ直しをするということで当日はお帰りになりました。

 それから十日後、小倉氏より日の丸の旗から僅かに「隆」という名が読みとれましたので、調べた所第18金剛隊の丸山隆中尉の御遺族と連絡がとれ、本人・両親の写真と確認されましたという電話連絡を頂き、一件落着の運びとなりました。

 因みに海軍中尉丸山隆氏は海兵72期の出身であり、兄脩は13期予備学生で比島201空着任時に面識なく、十一月二十日から十二月一日の間に丸山中尉も201空所属ですのでマバラカット基地?でお会いした折に名刺を交換したものと思われます。

 戦後五十年を経て新たな事実が浮び上り、遺品が故郷の遺族のもとに還り、感無量のもがあるかと存じますが亦々悲しき事実だけ残るだけに人間同志の殺し合い(戦争)はこの世の中にあってはならないもの、永久に平和な地球であってほしいものと痛切に感じます。その為、私達個々の意思で絶対に戦争はしないぞという努力を〃

 特攻隊員の遺品は、このような意思に向けて私達へのメッセージであると思われます。

 尚、この記録は小倉喜八郎氏、伊地知南氏の御諒解を得て発表させて頂きました。両氏の御骨折りに感謝致します。

後 記

 私の次兄増田脩は昭和十八年十月、名古屋高エ(現名工大)を繰り上げ卒業し、第13期予備学生として土浦海軍航空隊へ入隊しました。約一年間の訓練の後、比島へ飛び昭和十九年十二月二十九日、神風特攻隊第15金剛隊長としてミンドロ島沖にて二十二歳の著さで散華しました。

 今茲に神風特攻の是非、善悪を論じようとは思いませんが、只当時軍国主義真只中の日本にて当時の若者が国の為、家族の為、純粋な気持で死んでいった事は間違いない事実です。この事だけは戦後五十年の繁栄の中にいる我々も銘記すべき事と存じます。

(平成七年八月十五日 終戦記念日に記す)

(なにわ会ニュース84号12頁 昭和13年3月から掲載)

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