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平成22年4月23日 校正すみ

鳴呼!八月一五日

山田 穣

 まえがき

 第八十四号という長期間の「なにわ会ニュース」の編集発行をもって、われらが押本編集長は引退することになった。おそらく死ぬまでやってくれるだろうと、思っていたわれ等は、その突然のしらせに呆然とした。

おん歳八十になんなんとして、なにわ会ニュースの編集を引き受けてくれる後釜はいないであろう、と考えたのは、私だけではない。

 活字文化に満ち溢れている今の社会でも、「なにわ会ニュース」の編集だけは、クラスの一員にあらずんば勤まらない。そんな後釜がいるわけはない、と言うのが、われわれのコンセンサスであった。

 ともかく、押本編集長は、本業の艦爆の操縦ではどうであつたかは、畑違いの私には分からないが、余りにも優秀な編集長であっただけに、なにわ会ニュースは、二十一世紀の第一号(初刊以来八十四号)でジエンドと思わざるを得なかった。

 しかし、流石は艦爆乗りである。引き起こしの五ジーに堪えて、自爆命中の惨劇になる直前に、伊藤正敬兄に操縦捍を託することができた。

 押本直正兄有難う。本当に長期間の貴様の努力に感謝する。

 あとを引き受けてくれた伊藤正敬兄は、押本と違って水上艦乗りであるが、押本の操縦捍をどうして引き受けてくれたのか、その辺のところは分からない。どうかよろしく三代目編集長の大役をお願いしたい。この仕事は誰でも引き受けられる仕事ではない、と私は思う。

 さて、「伊藤正敬が押本の代わりにニュースの編集長を引き受けてくれた」との話が、誰からともなくわが耳に入ってきた。おそらく次回の靖國クラス会において報告があるのであろうと思っていたところに、伊藤兄から電話があった。

「知っているかと思うが、今度、押本と交替して、俺がなにわ会ニュースの編集を引き受けることになり、事務引き継ぎのために、押本宅に行った。随分大変な仕事であることが実感としてわかった。」

「その際、押本からの申し継ぎで、山田が最近特定先に配布した『米海軍解禁資料による菊水隊ウルシー攻撃に関する一考察』 (五基の回天は斯くして散った)の論文のダイジエスト版をなにわ会のニュースに取り上げたらどうだとの一部の意見があるそうだ。俺は、その内容は知らぬが、ダイジエスト版を貴様が書けば、ニュースにのせたいと思うが・・・・・・・・・

私は、伊藤編集長に対して次ぎのように回答をした。

「あの論文は、ウルシー環礁に関する菊水隊回天攻撃に関する巷間伝えられている戦史について、あくまでも日米海軍の第一次原資料を中心にして照合したとき、史料に基づく事実との間に、大きな間違いがあることを発見した。その間違った部分を訂正し、正しい回天の戦史を残すことによって、英霊に対する鎮魂と、また、私なりの所信を陳述することを目的としたレポートであって、わずか三十五部の限定出版であり、防衛庁戦史室と全国回天会に送付したもので、クラス会のニュースに掲載することを目的としたものではない。また、ダイジエスト版をつくることも難しい。しかし、紙面を提供してくれるならば、クラス会向けの記事を改めて書いてみる」と、言うには言ったが、年齢とともに書くということは楽なことではなくなった。精神的、肉体的負担も相当大きく、前掲のレポートは、大袈裟ではなく、わが心血を注いで、丸八ヶ月の時間を要したこともあり、最近、健康状態も優れず、お断りしようかと思ったのであるが、押本、伊藤の両編集長交代時期でもあり、私自身も、なにわ会ニュースに過去何回となく投稿させていただいたこともあり、お引き受けさせていただいた次第なのだ。しかし、このところ往時に比して頭もボケ、碌な文章も書けなくなったことは残念である。と言うわけで、引き受けたときは、菊水隊における回天のウルシー攻撃のあとを、違った角度から簡潔に書くつもりでひき受けたのであるが、素人は、同じよぅな内容の文章を再び書くことは出来ないものであることを知らされた。

 そこで、与えられた題名とは違うが、二人の長官の特攻に関する責任のとり方を中心にして、終戦関連の自決について意見を記述することにした。

 序言の最後に一言付け加える。

 気がつくと、半世紀前の戦争は、好んで孫子の世代に語り継ぐ努力を行うこともなく、やがて来年は、∧十歳になろうとしている。活字の威力は素晴らしい。なにわ会ニュースという特殊なメディアではあるが、将釆の世代が、二十世紀の半ばに起きた戦争について何事かを知ろうとするとき、参加世代の遺言として、何かの役にたてば幸せである。

このような想いもこめての拙文である。

 

山本長官と甲標的

 六十年前の太平洋戦争(大東亜戦争が正式名であるが海軍の戦争は太平洋戦争の方がピンと来る)緒戦の日、特潜五隻による攻撃が併用されたことは誰でも知るところである。異論の出ることを恐れずに言えば、私は、甲標的は特攻であったと思う。

 甲標的は、昭和九年に海軍に登場したが、その所以は、海軍の伝統的な「漸減作戦」の用兵上の戦術兵器として考えられたものである。しかし、山本は、日米海戦の将来を洞察し、伝統的漸減作戦を導入することの可能性に疑問をもち、伝統的漸減作戦に特潜を活用する機会はないであろうと考え、これを太平洋戦争の緒戦に使用することを承知したものである、と私は思う。 

私は、長い間、何ゆえ山本が特潜を南雲艦隊に加えたかに疑問をもっていた。大きな戦果は望むべくもないことは当初から自明である。

 数年前に発行された戦記本、機動部隊赤城の艦爆隊長阿部善次(六十四期)「艦爆隊長の戦訓」(光人社)によれば

「山本長官が、ハワイ攻撃を己の命をかけて強行したのは、開戦努頭に敵主力艦隊を猛撃、撃破して、米国海軍および米国民をして、救うべからざる程度にその士気を爼喪せしめることにあり、米国をして対日戦争を断念せしめることにあった」と書いているのをみて、長年の疑問が解決した思いがした。

さらに、阿部さんは言う。

 「この方針の実現のために、山本の考えた方法は、奇想天外な非常識な戦法として、ハワイの空襲であり、特潜甲標的の採用であった」と。

特に、甲標的の採用は、緒戦における最初の特攻といっても過言ではない。

 山本に限らず、一旦緩急あれば、死をもって大義に殉ずる「武士道とは死ぬことと見つけたり」とする精神、特攻と同じ価値観がさむらい文化の古い伝統美学として潜在的にではあったが、日本国民の価値観のどこかに肯定されていたものと思う。

 私は、そのことの善悪は別にして、そこに日本民族と特攻精神の相関を認めざるを得ない。しかし、より冷静にしかも端的に言えば、特攻の肯定の前に、捕虜と降伏の完全否定が特攻へのインセンティプとしてあったことも認めざるを得ない。

 結果として、山本戦略は失敗した。確かにそれは、戦術諭として大成功ではあったが、米国をして対日戦に立ち上がらせないことが目的であったことからすれば、戦略的には失敗であり、日本の大敗戦の原因をつくった。

 しかし、これは結果論でもあり、米国が対日戦に立ちあがらないことの保証は全くなかったであろうとは思う。

 それは本論の目的ではないので、これ以上の論及は避ける。しかし、戦力としては問題にならない甲標的という特殊戦法を、緒戦から採用したことを考えれば、山本のみならず、日本の軍部には「死ぬことと見つけたり」とする武士道としての特攻を肯定する心情は常時潜在化して存在していたものと私は確信している。そしてそれは常に、上層部の幻想的予想結果の期待過剰のうえにあったことも史実が示している。しかし同時に、私は、特攻攻撃に参加された先輩の戦功を高く評価し(わい)小化するものではないことも申し添える。また、山本は、ミッドウェイの大敗戦後、特潜一千隻の建造を計画し、この計画は、実行に移されたが、島田海相によって、山本の戦死後取り消された。しかし、帝国海軍のトップというより、日本国民の何処かに、一旦緩急あれば義勇公に奉じる特攻肯定の潜在的思想に依拠するものと考えざるを得ない。

 余談であるが、阿部さんのインタービユーに関連して話題を脱線して見たい。

 今年は、真珠湾攻撃六十周年記念の年である。去る二月から三月にかけて、ある要件で、真珠湾攻撃に参加した先輩搭乗貝の調査時での生存者を調査した。現存者は、戦闘機では空母赤城戦闘機隊長志賀淑雄大尉(六十二期、階級は攻撃時)、空母蒼乗組戦闘機搭乗員藤田怡与蔵中尉(六十六期)、艦攻では空母飛龍艦攻隊長松村平太大尉(六十三期)、艦爆では空母赤城艦爆隊長阿部善次大尉(六十四期)の四名のみとなっており、阿部さんを除いて、ご病身の方が多い。まさに貴重品的な存在で、ご長寿を祈るものである。当時の下士官、兵の方々の中には少数ではあるが生存者もおられる。調査結果に間違いがあればお許し下さい。(閑話休題)

 

航空機特攻と大西瀧治郎

今次太平洋戦争において、特攻を質と量において明確に実現化させたのは、神風特別攻撃隊であり、第一航空艦隊司令長官としてフィリッピンに着任した大西瀧治郎であった。 大西は、昭和十九年十月、クラークフィールドの二〇一航空隊を訪ね、零戦爆装の体当り攻撃実行の司令長官決意を表明、関行男大尉(七十期)を隊長とする敷島隊が編成された。これが最初である。

これに先立つ台湾沖航空戦において、私は、伊五十三潜乗組で呉に在泊修理中、あの台湾沖航空戦に側面から観戦する機会に遭遇、自由に大量の電報を傍受受信した。

わが航空部隊は、台湾東沖に出現した米国機動部隊に対して、全力を上げて攻撃をかけたのである。その戦果電報は、米国機動部隊の過半数を撃沈したのではないか、と思われるほどの大戦果であった。これで、今までの負け戦は終わりで、後は、敗退する米軍を追いかけて壊滅させることができると、心から思ったのは、私だけではない。

ところが、航空隊の技倆拙劣で、大戦果は全くの架空のものであったことは、程なく判明した。大本営発表という言葉は、この戦争では、「出鱈目」「大嘘」の代名詞として扱われていたが、台湾沖航空戦の戦果は、大本営の意図とは別に、第一線における航空部隊の戦闘とその戦果収集の上でのミスであったと言う。少なくとも、私は、大本営が戦果を発表する以前に、戦闘に参加した航空機の発電を見て大戦果と誤認していたのである。

「この航空搭乗員の練度をもって戦争を継続するには、体当り戦法しかない」と大西は決意せざるを得なかったのであろう。真実は、その時すでに、戦争継続は不可能であったのである。

もとより、一部の指揮官クラスでは、大西長官にまともに反対する人達もいた。関行男(七十期、艦爆操縦)もその一人であった。しかし、大西の信念と誠意が関行男を承知させたのであると思う。経緯については時事通信社刊「ドキュメント神風(上)」デニス・ウォーナー夫妻共著、妹尾作太郎訳書に詳しい。

ともかく、航空機特攻は、形式的には大西長官の決意に基づくものではあったが、それを受け入れる基盤と美学は、前述のように、日本文化の何処かに根付いたものがあった。

また、神風特攻の成果は、総合的に考えて航空機の命中度を上げたことは事実であった。それは、単にハードな面での戦果の増大にとどまらず、米国に与えた精神的影響は、戦後の日本の復興に計り知れない正の資産を残したと言っても過言ではない。

また、特筆すべきことは、敗戦確定と同時に、大西が、特攻発案とその実行上の責任を取ったことであった。彼の自決は、日本の伝統にしたがって「介錯無用」、半日苦しんで息を引き取ったと言う。将に古武士である。(実際は、従兵に発見され、軍医の手当てを受けたのであるが完全に目的を達した。)このような自決のあり方は、平和ボケの今日絶対にみることは出来ない。

遺書があった。

「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧都下の英霊とその遺族に謝せんとす。」

  「辞世 之でよし百万年の昼寝かな」

周知のことながら、陸軍大臣南惟幾においても全く同じであるが、紙面の都合で省略する。

 

最初にして最後の長官特攻

関大尉の敷島隊に始まる神風特攻以後、それ以外の航空戦は、すべて特攻となったと言って過言ではない。それは、大西と同クラス(四十期)の宇垣纏第五航空艦隊司令長官によって、九州各地区から沖縄へと終戦まで続いた。傍から見れば、将に断末魔の足掻きに相似ている。

そして、宇垣は、開戦時の聯合艦隊参謀長以来の己の海軍生活、特に五航艦長官としての宇垣の特攻命令に散った多くの部下に思いをいたし、最後は自分も特攻で死ぬことに常々想いをいたしていた。宇垣は、いよいよ最後の決断をするときを迎えた。

有名な宇垣の「戦()録」の最後、八月十五日の欄に曰く。

「外国放送は帝国の無条件降伏と正午陛下の直接放送あるを報じたり。ここにおいて当基地所在の彗星特攻五機に至急準備を命じ、本職直卒の下、沖絶艦船に特攻突入を期す。(中略)

参謀長に続いて城島十二航戦司令官(宇垣と同期)、予に再考を求めたるも、後任者は本夕到著すること明らかにして、爾後の収拾に何らの支障なし。未だ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の跡を追い、特攻の精神に生きんとするにおいて考慮の余地なし」

「顧みれば大命を拝してここに六ヶ月直接の麾下および指揮下各部隊の決戦努力についての今更呶呶(どど)を要せず。指揮官として誠に感謝のほかなし。又陸軍航空部隊の協同も全きを得たるをよろこぶ」′

「事ここに至る原因については種々あり。自らの責また軽しとせざるも、大観すればこれ国力の相違なり。独り軍人のみならず、帝国臣民たるもの今後起るべき万難に抗し、益々大和魂を振起し、皇国の再建に最善を尽くし、将来必ずやこの報復を完うせんことを望む。予又、楠公精神を以って、永久に尽くすところあるを期す」

「一六〇〇幕僚集合。別杯を待ちあり。これにて本戦藻録閉づ」とある。

さて、第七〇一航空隊艦爆隊長中津留澤雄大尉(七〇期)に対して、宮崎先任参謀から口頭で沖縄特攻の命令が伝えられた。その間の関係者の心の葛藤は簡単なものではない。それは省略しよう。

「七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを直卒す。第五航空艦隊司令長官 宇垣纏」

口頭命令後 起案された命令書である。

宇垣が指揮所に到着したとき、そこに待ち受けていたのは、七〇一空の稼働可能機十一機全機がエンジンを始動させて待っていた。

ここでも、宇垣は、命令した五機の特攻出撃に対して、十一機全機が用意されていることに対して「命令と違うではないか」と、一瞬目を曇らせた、と言う。

山岡荘八の「太平洋戦争」講談社刊によると、中津留は、「顔を真っ赤にして怒鳴るような声で答えた。『長官が直接特攻をかけられるというのにたった五機でだすという方がありますヵ。私の隊は全機でお供致します!』一瞬、黄金仮面を綽名された中将の顔は硬ばった。まさに統帥の根源は人格であったのだ。」

中津留は、宇垣の五機出撃を受けて、出撃五機の選定に掛ったが、全機十一機出撃のやむを得ない事情を宇垣に説明、自分の力では止められないと訴えた結果である。

「宜しい。命令を変更する。艦爆十一機をもって、ただいまより、沖縄の敵艦隊を攻撃する」

ということになり、十一機の出撃が許可されたが、一番機には、機長中津留大尉、偵察員遠藤飛曹長が定員であり、宇垣長官の席がない。頑として席を譲らない遠藤に対してやむを得ず、二番機に三人が乗ることになった。

こうして出撃した十一機は、エンジン故障で途中三機が不時着したが、八機は沖縄に散った・中津留大尉を含めて十六名、宇垣を入れれば最後の特攻参加者は十七名であった。宇垣の特攻は、先に散った部下に対して、長官として部下に謝する死に場所を求めたもので、それこそ最初にして最後の長官特攻であった。このことは、潜水艦と発行機と畑は違うが、私の耳に余り日数を置かずに届いた。それを聞いた時、私はさすがに宇垣長官は、立派な最後を選択されたと思った。

しかし、さすが宇垣という思いは、戦後がいささか遠くなるに及び、私のみでなく海軍の生残りのなかで変わってきた。

 

昨日の出来事は昨日の目で

歴史を論ずる者にとって必携の金言である。日本の一番長い日。あれだけ騒がれた承詔必謹と言う言葉は、久し振りで大きな感慨をもって思い出した。

しかし字引、辞典に掲載されていないこの言葉は、何と、聖徳太子十七條の憲法に書かれていることを、学のない私はこの拙文を書きながら、初めて知った。インターネットの検索で一発である。

宇垣の最後の長官特攻は、敗戦の責任をとった立派な決断である、と、当時の私は思っていた。一緒に戦った多くの人達の大部分は同じ思いであったと思う。

「宇垣は、立派な最後であった」と。

戦後の七年は、旧軍に関する文書などの発表は禁止されていた。講和条約が締結され、日本の復興が朝鮮特需を中心にして顕著になってきたところである。

「大西のように、特攻で都下を戦死させた罪の責任を取り、一人、割腹自決をしたのはさすがもののふである。それに比較して、宇垣は、その責任を取るならば、なぜ一人で自決しなかったのか。申津留さんの親父は、宇垣長官の特攻に対して、悲しみの毎日を送っている。

『何故息子のほか十数名を道づれにしたのか?』と。

この親の気持ちは、中津留さんに限らず、長官特攻で沖縄へ突入した八機の搭乗員の遺族全員のものであろう。私は、この話の裏をとって書いているわけではない。しかし、風の便りで、そのようなことが私の耳に入ると、昔の仲間の間でも、宇垣評が大部変わってきた。

「宇垣のとった行動は間違いであった。一人で、大西のように身を決するべきであった。あれでは、特攻の責任を取ったことにはならぬ」と。そして、何となく空気が変わってからこの方、宇垣悪人説が定評になっている。 私も、理屈のうえではまさしくそうだと思う。しかし、昭和二十年八月の出来事を現代史の問題として取り上げるとき、その論ずべき根拠は、そのときの、その時代の価値観をメルクマールにすべきである。さらに言えば、その当時の物差しと、時代の変わった今日の物差しを使いわけねばならない。そうでないと、歴史観は硬直する。

私は当時にして、宇垣の長官特攻を論ずるならば、批判の分かれるところであるが、私はやむを得なかったことと評価する。中津留をはじめ十六人の特攻員もその時その瞬間は、死に場所を得たとして、歓喜として進んで長官特攻に髄伴し、沖縄の空に散ったものであると確信できる。

問題はご遺族の考え方である。

ご遺族のことを考えるとき、戦争は出来ない。宇垣が長官特攻によって、最後の特攻を沖縄にかけようと決断したとき、宇垣の心の中には、戦争はまだ終わっていなかった。こし遺族のことは宇垣の年頭にはなかったであろう。

再度言う。宇垣が長官特攻を決断せず、長官として承詔必謹に徹し、その後において、指揮所において単身で自決を決行し、戦死した特攻の勇士に謝罪すれば、彼の名は、永遠に後世の歴史において称えられたであろうが、十六名(離陸時は二十二名)の部下を道づれに最後の特攻をしかけたことは、この事実を昨日の目で見たとき、それは称えられるであろうが、今日の目で見た場名答は逆となろう。難しい問題である。

しかし、半世紀を超える時代の変遷を経て、加えて、歴史の見る目を「今日」から「昨日」に置き換えて見るとき、私は、宇垣の長官特攻に理解的である。その最大の理由は、昨日の目と同時に、半世紀の時の流れである。

「承詔必謹」。軍部の一部におけるクーデター計画を鎮めるために、承詔必謹が叫ばれたが、陸軍中央のクーデターを抑えたのは、前掲の阿南の自決であった。阿南の自決なかりせば、森近衛第一師団長を射殺した軍務課員畑中健二少佐(陸士四十六期)を中心とするクーデター派の勢いは抑えられず、クーデターは実行に入った可能性は非常に高い。

「承詔必謹」という古い天皇制の倫理と、そのような古い用語では到底抑えることの出来ないポツダム宣言受諾上の「団体維持」の二つが相剋して、連合国の回答における、

「天皇は、連合軍司令官にサブジェクト ツウする」という一文の解釈を問題にしての 大クーデターであった。

昨日の物差しでは、天皇制維持は、日本民族の絶対的価値であった。今でこそ、天皇制とか国体というものにほとんどが無菌状態ではあるが、当時は、われわれにとって絶対的大元帥陛下であり、死をもって守るに値した国体であった。

 

終戦の詔勅を拝聴して

終戦の詔勅を拝聴し−−雑音のため実際ラジオで直接拝聴できた者は少ないが−−その瞬間、どのように思ったかである。

陛下の御放送は、おそらく、最後の本土防衛について、全力を挙げよ、と国民に呼びかけられるものと思っていた。一部の要路の人々を除いて、陛下の御放送が終戦に関する、陛下自らの御放送であることを承知していたものは、第一線部隊では皆無であったと思う。当時の潜水艦部隊では、決号作戦の発動は必死と覚悟していた。

私の乗艦伊五十三潜は、沖縄―レイテ間の哨戒任務から八月十三日に呉に帰投、翌十四日から、食糧を満載しはじめた。前日までの任務は、回天戦を主とする通商破壊戦であったため、回天四基を発進させたが、残りの回天二基は大津島で陸揚げし、魚雷の消費はなかった。

決号作戦は、全軍あげて特攻となり、国民もすべて巻き込んでの最後の対米抵抗肉弾作戦であり、この作戦で、米軍の嫌戦気分を増幅させ、少しでも有利な停戦条約までもって行こう、とする軍部中央の考え方であつたと思う。

 私どもは、この戦争現場で二年間の悪戦体験をしてきたが、米国に負けると考えたことは一度もない。しかし、勝てると考えていた者も一人もいなかった。論理は矛盾であるが事実である。

 戦後はやった「武田武士」の歌詞のように、「人は石垣、人は域」、煎線も銃後もない国民一体でのゲリラ的抵抗により、米軍をして戦争続行を諦めさせる、という戦法があるかないかは別にして、この方法しかない、と自分自身に言い聞かせていた。

 その中にあって、潜水艦の役目は、魚雷を撃ち尽くしたときは、発射管に爆装して体当たりをするのであると、七月の上旬の時点で聞かされていた。何れにしろ、呉を出撃すれば、帰る港もない。行き先どうなるか全く分からない戦争であつた。

特攻を用兵の外道と言うが、決号作戦は、もし実行されれば、それは特攻以下の外道であり、戦いの定義には入らないであろう。

 立憲君主制の明治憲法下における、昭和天皇の最大のご功績は、ポツダム宣言の受諾の決断と決号作戦の実行を未然に防いだことであると思う。そして、日本民族は救われた。

「百年兵を養うは、この一時にあり」と、同じ言い方をすれば、「千年の天皇制は、この一決断にあり」である。

 よく問われることがある。

「終戦の詔勅を聞いたとき、貴方はどのように思ったか」

八月十五日。空は高く、炎熱の太陽が照っていた。呉に在泊の潜水艦には、あらかじめ、六艦隊司令部から命令があり、潜水艦後甲板には五分前に整列が終わった。潜水艦の受信機は一般のラジオとは違う。優秀な受信機であるが、実際は、長波の玉音放送が始まっても、雑音ばかりで全く聞こえなかった。

後で判ったとき、最初に瞬間的に思ったことは、「これで助かった」という誰にも言えないわが胸のうちが五パーセントはあつたかもしれないと思っている。正確には覚えていない。

回天隊平生基地のクラス搭乗員橋口寛は、戦死扱いになっているが、事実は、八月十八日、先に戦死した搭乗員各位に申し訳がないと、死に場所を失したことを謝し自決をしたのである。また、特潜のクラス畠中和天も期日を同じくして、自決をした。本当に百パーセント純粋無垢なもののふの精神ならば、橋口、畠中のとった行動が称えられるべき行為であった、と思うが、そこまで物差しの純度を上げると世の中は成り立たなくなろう。と言うのは卑怯者の戯言と聞き流されたい。

 千鳥ケ淵戦没者墓苑の奉仕理事長額田垣氏編集の「世紀の自決」(芙蓉書房)によると、元帥から一等兵にいたる総計五百八十八名の人々が終戦を期斯に自決の挙に及んでいるといぅ。壮なるかな武士道・怯なるかな吾人。われらの遠く及ぶところにあらずである。

 二十一世紀を迎えたが、これに至る道程は短いようで長く、長いようで短い。感慨をもって九十六年目の海軍記念日を心のなかに迎えることが出来た。

(平成十三年五月二十七日完)

(なにわ会ニュース85号36頁 平成13年9月から掲載)

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