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平成22年4月17日 校正すみ

第724海軍航空隊勤務始末記

         東條 重道

生徒時代の東條重道 執筆時の東條重道

724空開隊》

724海軍航空隊部隊訓練ノ開始ニ當リ伊東司令訓示

                                  昭和 20年 8月 1

 

我ガ第724海軍航空隊ハ特攻ニ徹セル橘花部隊ニシテ聯合艦隊直属 去ル7月1日二重橋前ニ於テ御礼言上奉拝ヲナセリ。

當隊ノ任務ハ本土上陸ヲ企圖セル敵輸送船團ヲ身ヲ以テ撃滅シ敵ヲシテ上陸ノ野望ヲ中道ニシテ放擲セシムルヲ第一トス。

而シテ本任務達成ニ必要ナル當隊ノ人的物的ノ要素如何 先ズ物的方面ヲ考フルニ我々ガ戦ハントスル唯一ノ武器ハ帝國技術ノ全能力ヲ結集シテ關係者ガ日夜寝食ヲ忘レテ完成シツツアル橘花ニシテ其ノ生命トスル速力ハ海面上ニ於テ敵戦闘機ヨリ50節ノ優速ニシテ敵ノ空地防禦火器ヲ概ネ考慮スルノ要ナキ優秀機ナリ。然ラバ人的方面如何 當事者ノ盡力ニ依リ特ニ優秀ナル職員ヲ配セラレタリ。但シ搭乗員ハ素質ハ抜群ナルモ技両ノ點ニ於テ其ノ大部分ガ経験充分ナル練達ノ士トハ云ヒ難シ。而モ燃料ト期間ノ關係上理想的ノ飛行訓練ハ実施不能ナル国情ニ在リ、加ウルニ新兵器ニ伴フ不具合個所ノ頻発、不慣レニ起因スル幾多ノ問題 優速機ニ附随スル操縦取扱ノ困難等ヲ思フ時前途ノ容易ナラザルモノアルヲ痛感セザルヲ得ズ。

〔中間部省略〕

當隊ハ約3ケ月ノ猛訓練ヲ終ラバ第一線ニ進出ス。而モ橘花ノ航續力其ノ他ノ関係上敵上陸豫想地域ノ最先端ニ篭城ス。飛行機隊發進後ハ打チ漏シタル敵上陸軍ニ對シ身ヲ以テ痛撃ヲ期ス。此ノ際必要トスル陸戦訓練武器等ハ當隊トシテ第二義以下ノモノナルヲ以テ一部ヲ除キ篭城後余力ヲ生ズルニ至ラザレバ考慮セズ。即チ第一段ハ搭乗員戦死、第二段ハ司令以下残リ全員戦死ト覚悟スベシ。我々ハ唯今更メテ第724海軍航空隊職員トシテ司令以下全員ノ身命ヲ陛下ニ捧ゲ奉ルコトヲ誓ウ。岩ニ立ツ桑ノ矢ノ例エアリ。親ノ仇、コノ虎ヲ打タズンバノ心境ニ至ラザレバ己ニ此ノ偉大ナル精神力アルヲ知ラズシテ過ギン。眞事ニ惜ムベシ。我等ハ今幸ニシテ3千年来ノ國難ニ遭遇シ惰夫ヲシモ立タシムル感激極リナキ配置ニアルヲ心底ヨリ感謝ス。

以上當隊ノ任務修練ノ目途ニツキ明示セルガ如ク実に絶大ナル任務ト栄譽トガ各員ニ掛ケラレアルヲ思ヒ、愈 身ヲ持スルコト嚴ニ心根ヲ陶冶シ技術ノ錬磨ニ精進センコトヲ期ス。

最後ニ當隊職員タルノ名譽ヲ私ト共ニ一同ヲ慶祝ス オ目出度ウ     (終)                                                               

(編集部   原文のまま)

昭和20年7月1日横須賀航空隊で誕生し、青森県三沢海軍航空基地で8月1日発した第一声である。司令伊東祐満大佐(海兵51期)の開隊訓示である。訓示の全文が私の自啓録に書き残されていたので紹介する次第。

戦争最末期編成された航空隊の悲壮な門出の決意である。(かみ)締めて欲しい。

 

724空勤務》

 艦爆操縦教官として宇佐空、百里空と勤務した私は20年7月4日出張先大分航空隊で724空転勤発令を知らされた。7月10日おっとり刀で赴任先横須賀航空隊に着任してみると5、6人の士官が墜道内の小部屋に机を並べてほそぼそと何かの仕事をしていた。

なーんだ、これなら慌てて来る事もなかったのに。 まだ見ぬ搭乗機「橘花」との対面を急いだのだが、模型すらなく手書きの想像図を見せられた。まだ1機も完成していないという。拍子抜けである。プロペラはなく、ジエットの推力で飛ぶのだという。「それどんなこと?」 全く聞いたことも無い幻機の概念にまずは驚き、詳しいことは誰も知らない。ただスピードが速いらしい。 アメチャンの戦闘機より50ノットは早いという。コリャーイイヤと先ずはひと安心。特攻で基地を発進しても目標の80マイル、40マイル手前で戦闘機の迎撃を受けて無念の憤死をしていた戦友と違い、50ノットの優速であれば待ち伏せを交わして敵艦に執り付くことが出来る、特攻の任務は果たし得ると思えば万々歳。これならいいやとホクソ笑む。当時特攻で戦死するのは搭乗員として当たり前、戦死する前にどうして敵艦に辿り着くかが問題だった。飛行長は多田篤次少佐(海兵60),搭乗員がぼつぼつ着任してくる。724空は極秘部隊という事でクラスと接することもせず、訪ねることも差し控えた。クラスの誰もが忙しそうで、基地の何処かで顔を会わせるだけで十分だと感じた。

7月中旬隊員練成機となる99艦爆3機を百里空から訓練基地三沢への空輸を命ぜられ、三沢基地に先発、訓練基地への搭乗員の第一陣となる。以後724空本部基地(予科練航空隊の跡の施設)に缶詰。本部基地から飛行場まで5キロくらい離れているのだが、途中の道路がデコボコ道でトラックの屋根に頭をぶつける始末。私の発案で7月中は愛機を離れて基地の道路補修の総指揮で寧日ない毎日。搭乗員はぼつぼつ着隊してくる。

 

《訓練基地三沢》

先ずは訓練基地から思いつくままに書いてゆく。

昭和17年1月、この地で開隊された「三沢海軍航空隊」はこの母基地に集まることも無く、南方作戦に駆り立てられてラバウル方面に展開した。飛行機部隊は陸上攻撃機部隊で間もなく第705航空隊と改名されラバウルに進出したまま三沢の母基地に帰ることは無かった。山本司令長官を乗せてラバウルから南方基地に向った陸攻機部隊だったと聞く。間もなく航空兵力は全滅、随伴した支援部隊はテニヤンで玉砕、20年7月の私が降り立った基地には初代三沢海軍航空隊の影はなかった。当時は横須賀航空隊の審査部が駐在し連山、木製99艦爆などの新機種を審査していたようである。

飛行場にはサイパン切り込み隊の剣部隊が訓練中とのことで飛行場の遥か彼方に陣取っていた。われわれ724空の指揮所は南側に陣取ることになった。

当時海軍航空部隊は空地分離されていた。20年7月の三沢基地は少数の指揮機能隊と飛行場、基地支援部隊からなる乙航空隊編成で「三沢海軍航空隊」と我々が呼んでいたが正式な名称は知らない。乙航空隊に始めてお世話になった。

此処から5キロほど離れた処に三沢海軍飛行予科練習航空隊が置かれており、4月に予科練の教育は中止され、練習生は水上特攻要員として各地に分散された。14期予科練習生100名程度、16期予科練習生200名程度が三沢に待機中で724空に所属されていたようである。この練習航空隊の隊舎に724空が入所したわけである。

ここで724空の訓練が開始される直前、クラスの岩村舒夫君の遺骨の通夜をしたことに触れておきたい。20年7月26日第2千歳基地で、着陸直前エンジンが停止し、飛行場エンドに激突殉職した岩村君の遺骨を、宮崎の遺族の元へ送るためクラスの安藤君(後の押本君)が護送して三沢に一泊し、私と2人で通夜した。基地では一室に祭壇を作り花、供物を供え通夜の席を設け英霊に対する立派な対応であつた。

岩村君は私にとって海軍時代の最大の友であった。4号で机、寝台を並べた1年、霞空、百里の飛行学生も同じコースで1年、部隊に出てからも沖縄特攻後の艦爆学生教育統合で百里基地に集合、再会を喜び、定着地点1メートル、2メートルを競った仲だ。上陸も常に一緒だった。

つい1か月前に私が724空に、彼が霞ヶ浦空と分かれたばかり。思いもよらず彼の遺骨に会おうとは、私は泣いた。

安藤と朝まで語り合い遺骨を託して、724空の開隊式に駆けつけた。

 

《部隊の訓練》

 司令の開隊訓示後99艦爆(後席操縦装置付)で訓練開始。集まった搭乗員は150名余り。海兵出身は71期1名、72期1名(小生)、73期4名、68期の飛行隊長が発令されたが着任途中で殉職したためか、71期の大平大尉(現在鯨岡姓)が隊長、小生分隊長の発令。その他予備中尉の分隊士4名、少尉搭乗員3名,飛曹長1名合計14名が基幹員と呼ばれ、以外は練成員と呼んで99艦爆の離着陸訓練から始めた。

練成員は飛行時間100時間以下、99艦爆での離着陸ですら危ない者多数。彼等をジェット機橘花に500キロ爆弾を抱いて体当たり出来るまでに訓練するにはどうすればいいのか、全く見通しが立たない。2010月には敵侵攻部隊迎撃の第1線基地(三浦半島に建設中)に展開出来るようにする事が当面の任務である。

先ずは99艦爆で離陸出来ることが第一歩。体当たりする訓練が先か、水平飛行して洋上を飛ぶことが先か等々、これでは戦争にならない。「訓練不足で技量未熟だが飛行練習生課程は卒業させた」との噂は聞いていたが、これでは当人も、受け入れた部隊も気の毒だと痛感した。司令に「百里空には99艦爆で飛べる練習生が待機していますから」と進言した。

99艦爆の操縦諸元(離陸速力、上昇速力、水平速力等々の基本データー)を配布することから始めた。橘花に移り得る者を多くするのが望ましいが、それは一握りの者しかいない。200時間以上の飛行経験者は操縦教官的にとらえて指導に当らせた。100時間以下の隊員は訓練しても橘花には到底無理とは判っていても、訓練の機会を与えないと訓練をさせてくれと詰め寄ってくる始末。私は相変わらず99艦爆の教官と同じ飛行訓練(後席操縦桿と「口」からの声の指導)を余儀なくされた。とんだ特攻部隊だと戸惑った。

余談になるが、当時幾つかの航空部隊が関東以西に展開していたが、搭乗員の技量が最も問題であった。航空燃料の不足から技量の低い者の訓練が出来ず,部隊の戦力が著しく低下したので隊員の練成訓練を担当する航空隊を置いて集合訓練を実施したようであるが、それらの航空隊も間もなく53航戦の作戦部隊となり隊員の練成が頓挫したようである。

新しく編成された航空隊に、然も全員特攻の724空に技量未熟の搭乗員しか配属されなかったのはやむを得ない事であつただろう。それにしても実用機の離陸すら出来兼ねる搭乗員を抱えて3ヶ月で橘花による体当たりができる技量にせよとは余りにも無茶な要求ではないかと困惑した。

 

《終戦》

その頃には橘花の構造、性能、装備がぼつぼつ判ってきた。三沢基地の他に木更津にある橘花の整備支援部隊が橘花の初飛行の支援をしていること、間もなく初飛行が行われることが噂された。

橘花はレシプロエンジンではなく、高速回転するターボエンジンから噴射するジエット噴流で機体を推し進める飛行機で極めて優秀な飛行機である。ゼロ戦と同じ位の大きさで、エンジンは2基、30ミリ機銃2基が装備されるとのことも伝わってきた。

機材は立派でも今の隊員では作戦機にはなれないが、どうしようというのが当時の最大の悩みであつた。

どうしようもない苦悶に悩んでいた8月15日昼下がり飛行場に司令が見え集合が令された。

『本日奇怪なラジオ放送があつた。その放送について聞き出そうとする者、放送の内容について喋った者は司令の一存でもって銃殺に処する』正午に放送された終戦の御詔勅のことである。なんだろうと思いながらも15日、16日は飛行訓練を続けた。17日朝総員集合がかかり、初めて終戦を知らされた。 日本の内地にいながらこの体たらく。

これでも判るように三沢での724空は別世界の勤務だった。特攻に出かける搭乗機『橘花』の影も見られず,戦法も論じられず練習航空隊教官の配置と同じである。特攻機部隊という深刻さは醸し出されず、練習航空隊並みの搭乗割り当てを心配する気風が主なもので、特攻の真剣さは基幹員にさえ見られなかった。敗戦を知らされても特段の動揺は見られなかつた。

自分の祖国が敗戦でどうなるのか,自分達兵隊はどうされるのか予想もしなかった事が俄かに現実となり、考えても判らない事に直面して私は部下に『何も分からん、じっと我慢していろ』『勝手な行動はするな』と自分にいうと共に、部下に(さと)すだけが精一杯だった。

隊員は詔勅発布から2日間の息抜きがあった為か間もなく平静に戻った。厚木からの徹底抗戦のビラまき機も飛来、色々な憶測がなされる。だが伊東司令は泰然とされていた。隊員は司令の指示通り平静に行動した。全機完全整備して米軍への引渡し準備を完了、食料、ガソリン、物資を近隣役場へ引渡し、順次隊員の復員を進め、整然と解隊された。

解隊復員は搭乗員から始められ(特攻隊員は危険、先に返せ、東京通過は避けよとの指示あり)占領軍に基地を引き渡す迄約30名が残留し、基地、機材を監視した。

拙著「橘花と724空」に寄せた「予科練14期柿沼正行君の思い出の記」の一部を転記する。

20年9月26

米軍先遣隊ジープに乗って接収に来隊する。

自動小銃を振り回して各兵舎を廻る。庁舎から立哨を止め直ぐ庁舎に戻る様連絡を受け庁舎に行ったが、既に撤退したようで人影もなし。隊長は必ず庁舎に戻ることを信じ身に付けていた94式拳銃を隊長の机の抽出に納め、裏門に帰り身の回り品を整理し隊外に出る。

線路伝いに古間木まで歩き水交社に行き724空の人達の安否を聞くと、隊長以下全員水交社で待っていてくれた。

全員揃ったところで隊長が捧持した724空の軍艦旗に油をかけラッパ手の吹奏の中一同挙手の礼を捧げた。』

以上が724空始末記。これで終わりなら、なにわ会誌に書くほどの記事でもない。だが橘花については余り知られていないので橘花とはどんな飛行機だったか? 戦後橘花はどうなったか? 何が残ったか? 少しく書いて見たい。

橘 花

 

《橘花の開発》

橘花はジェットエンジンを装備した日本最初のジェット機であつた。しかもそのジェットエンジンは日本人が開発したものである事に(かつ)目したい。

ジェット機は戦後航空機の主流となり航空エンジンといえばジェットが当たり前になる。戦前日本でこのエンジンを開発実用化した人がいる。我々の大先輩 種子島時休大佐(機関学校32期)である

機関少尉として軍艦陸奥のスチームタービン駆動の為、21ものボイラーが必要なのに驚いた。ガスタービンで動力が発生出来ないかと関心を持った。昭和2年のことである。昭和3年航空発動機の技術関係に進むように命令された。

海軍大学選科学生として東大航空学科で3年、パリ駐在、航空技術廠勤務と進んだがガスタービンについての関心は薄れることはなかった。発動機の排気タービン過給機の研究を兼務させられジェットエンジンサイクルに関心を持ち続け、その見解を強めていった。

昭和16年太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)で噴流推進法研究主任を拝命し、カンピーニ型ジェットエンジンを桜花につけ戦場に送る。19年7月ジェットエンジン ネ-10ターボジェットを開発したが実用には至らなかった。

19年7月ドイツから巌谷技術中佐がイー29潜水艦でドイツBMW-003Aジェットエンジン断面図のキャビネット版写真一枚を持ち帰った。(設計図はドイツ海軍の贈与Uボートで輸送されたが途中撃沈された)この写真を見てネー10エンジンの不具合点を直感した由。ネー10の改造を行ったが中々進展しなかった。資材不足で困窮した。

1910月ネー10の改造を打ち切り、BMW-003Aを参考にして再出発を決意。設計は20年4月完了、早速試作機生産開始。改編されて新たに発足した空技廠噴進部(神奈川県秦野のタバコ工場に所在)でエンジン耐久試験を視察した特攻隊司令予定の伊東大佐、軍令部参謀が『この飛行機は30分飛ぶだけだから現状4時間も飛べれば十分と』完成を宣言したと云う。

当初橘花の機体はジェット戦闘機として開発が進められていた。中島飛行機製作所が開発、他の特攻機と違い30ミリ機銃装備、着陸可能機であつた。多量生産可能のように工程を極力短縮、他の製作機の部品を多く採用していた。ネ-20が完成した頃には特攻機として発注されたのである。

4月にはエンジンをネー20に変更、試作機の機数は25機へ倍増され、7月完成を要求された。

20年6月ネー20 2基が群馬県太田の中島機体工場(養蚕小屋)に送られ橘花に装備され試運転の後、木更津航空隊に送られた。

待ち構えた724空整備派遣隊が整備に取り組んだ。7月21日1号機地上滑走試験、8月6日事前飛行試験(軽荷重)に飛び立ち、僅か12分間ではあるが日本最初のジェット機が飛行に成功した。列線に帰ったテストパイロット高岡少佐は涙を拭こうともしない種子島大佐を見たと。

第2回目のテスト飛行が8月11日多数の関係者の見守る中400キロ推力の離陸促進ロケット2基を使っての離陸であった。この離陸は失敗して飛行場をはみ出し、橘花は海岸に座り込み中破、パイロットは無事、テスト飛行は失敗した。次のテストは広い飛行場で実施することになり、厚木基地へ移動中に終戦となり橘花の生命は終わった。

 離陸の失敗は離陸促進ロケットの装備位置の不適正によるもので、改修が予定されていたがテストを急いだ為に、改修を待たず実施したために起きたパイロットの判断ミスによるものであつた。

《橘花の要目》

形  式 低翼単葉、双発,3輪式 燃料 正規 725L
燃料 過荷 1450L
乗  員 1名 爆撃兵装 500k爆弾1
全  幅 10.000m 速度
全  長 9,250m 高度  0m 336kt
折り畳み翼幅 5,280m 高度 6000m 367kt
原動機 ネー20×2 高度10000m 374kt
地上推力 各475kg 上昇力 6000mマデ 12分16秒
回転数 11000rpm 同 10000mマデ 29分18秒
rato推力 各400kg 実用上昇限度 10700m
離陸促進用 航続力
自重 2.300 s 6000m全力 370マイル
正規重量燃料725l 3,950 s 10000m全力 480マイル
過荷重燃料1450l 4,312 s 離陸距離
主翼翼面積 13.2u 離陸ロケット使用 504m
補助翼面積 1082 同      なし 1363m

終戦時の試作機25機の完成度

2〜5号機  脚、付属品の一部を除き完成

6〜7号機  複座練習機へ改造中

8〜15号機  機体完成エンジン待ち 内5機は30ミリ機銃装備 複座偵察機へ改造予定1625号機  胴体完成 翼組み立て中

724空基地の跡地に立った米軍通信基地外郭

(象の檻)



《橘花の戦後》

終戦と共に橘花はどのような運命を辿ったか。

8月17日、時の軍需大臣中島知久平(中島飛行機の創設者)の命により、図面、写真、技術資料はすべて焼却された。米軍は兵器を接収し、必要資料と145機に及ぶ飛行機を持ち帰った。

その中に2機の橘花も含まれていた。昭和60年頃はワシントンの郊外スミソニアン国立宇宙博物館とシルバービル国立博物館に「KIKKA」と名付けて展示していると云う。

ネー20はどうなったか。昭和36年航空機検査官だった舟津良行氏がジェットエンジン整備研修のためロサンゼルスにあるノースロープ工業研究所に留学中、先生から教えられてネー20を発見した。この話を聞いて石川島播磨汎用機械社長が奔走、昭和48年航空自衛隊入間基地で行われる航空ショーに出展のため《永久無償貸与、返還請求なし》ということで、28年振りで日本に返された。

その後製造元の石川島播磨重工業田無工場に展示されている由、一度運転してみたらと分解整備した。各部全く異常なく運転可能の状態であつたが,万々一にも破損させてはとの配慮から運転は取り止めたと云う。

《三沢基地の戦後》

飛行場のある三沢基地は米軍に接収され米空軍基地となった。航空自衛隊が引き継ぎ第3航空団として北の守りを固め、米軍と共用している。航空自衛隊北部航空方面隊司令部が置かれて正に日本の北の空の守りに就いている。

予科練の隊舎で、724空が引き継ぎ、米軍に引き渡した三沢基地は、米軍が通信施設を建設、巨大な通信基地に生まれ変わった。今や(象の檻)と呼ばれる北の戦略基地で米軍の日本一の重要軍事基地となっている。付近には米軍軍人のキャンプが軒を連ね、マンションが林立し、アメリカ村となっている。

小川原湖の一部がアメリカ人専用の海水浴場であり、賑わっている。昔の面影はない。勿論724空隊舎跡は立ち寄ることなぞ想像もできない。

《三沢海軍航空隊の碑建立》

平成7年9月28日三沢市「市民の森」に『三沢海軍航空隊の碑』を建立し除幕、関係者200名が参集して完成を祝い,三沢市に寄託した。建設資金の残余150万円は三沢市に寄贈した。市では将来航空公園を建設するため『三沢市大空ひろば整備基金』に組み入れた由。

三沢市の絶大なご好意により市民の森公園の一等地に、三沢に所在した海軍航空隊の記念碑を建立出来た事は関係者として喜ばしいことであった。さらに将来の保存管理を約束頂けたことは真に予想もしなかった事であった。現地の海友会が子々孫々に亙って守るとの確約が出来て出発した事業であったので真に有難い事であった。

事の始まりは練習航空隊からの経理主任であつた塚口喜志男氏(724空主計科員で組織する「空主会」の主催者)が懐かしの724空跡地を訪ね、三沢市役所に記念碑の建立の可能性を探り、14期予科練東京支部長杉本勇氏に相談して2人連れ立って私に相談にきた。3者が何回かの相談でどの部隊に呼びかけるべきかだけが問題になった。

初代三沢海軍航空隊は705空と改称され、19年に解散されてしまっていた。終戦時には残務整理員が居たに過ぎない。戦後は飛行機隊生き残りが705空会として組織化しているに過ぎない。戦時中空き基地に幾つかの部隊が訓練基地として使用してはいるが一部の派遣隊であったり、中継基地としたまでで連絡の仕様もない、判る範囲で呼び掛けることにした。

碑の建設地は三沢市の協力が得られる、空海の自衛隊の協力は得られる、三沢周辺の海軍関係団体の協力は十分、碑の後々の維持も確約してくれた。「大丈夫やろう」ということで「三沢に記念碑をつくる会」を発足させた。

14期、16期の甲種飛行予科練習生は三沢で唯一の海軍生活を体験した事を何時までも若かりし頃の貴重な体験と懐かしみ、誇りにしている者が多く、多数の賛同者を得られると期待出来た。練習生の賛同を期待して500万円の予算で可能だろうと平成7年1月に醵金を開始。

724空関係者の募金以外は14期予科練の杉本君が中心となり三沢市との折衝,石屋さん、現地の海軍関係団体、16期予科練、14期以前の予科練期への折衝など大いに活動して募金、折衝、行事計画等大いに活躍してくれた。

懸案の記念碑の題字の揮毫(きごう)は鈴木三沢市長に達筆を揮って頂いた。募金は甲飛出身者310名、元航空隊在籍者200名その他市職員、地元海軍関係賛同者が予想以上の多数に及び、目標の倍額を超えて碑を大きくするなど戸惑った。平成7年6月記念碑完成入魂式、9月28日除幕式を《三沢海軍航空隊の碑》前で三沢市長、海上自衛隊2空群司令、航空自衛隊3空団司令、青森地連部長、地元海軍関係団体代表を招いて記念碑を披露した。除幕は航空自衛隊の女性隊員にお願いし花を添えた。

記念碑は三沢市の「市民の森」の管理事務所「やすらぎ荘」の側の小高い丘にある。後援者の醵金を頼ることなく、三沢に勤務した隊員のみによる海軍記念碑を建設出来た事に意義を感じる。

正確な数値ではないが、幅2.3メートル、高さ1メートル、奥行き1.5メートルの台座の上に据え台を置き、横2メートル、高さ75センチ厚さ25センチの堂々たるものである。碑の前に立つと背丈の2倍の高さに見える。航空隊の記念碑として恥ずかしくないものである。こんな立派なものが出来るとは予想しなかったほどの出来栄えである。碑、据え台はインド黒御影石で研ぎ澄まされている。台座は白御影石で2段、全研磨で正面に建設の主旨として

「・・・第2の故郷とも言える思い出多いここ三沢の地に、在りし日の海軍航空隊を偲び、栄光を(たた)え、この軌跡を後世に伝え、併せて永遠の世界平和を記念し「三沢海軍航空隊之碑」を建立する。」と記した。

碑の後面に三沢航空隊の沿革を彫り、後世の人たちに三沢市の国防に果たした役割を顕示した。

終わりに》

724空は、戦死者なく、殉職3名のみで慰霊のこともなかったので戦後結束することもなかった。私が判っている飛行科隊員の住所録を作る程度であった。このような記念碑を作ることは念頭にはなかった。

相談されるままに「三沢に記念碑をつくる会」の発起人に名を連ね、その一人となり、更に記念碑に亡き司令、飛行長の名を刻められた事は望外の幸せとなった。

この碑は1415歳の少年が予科練習生として先の大戦に身を投じ、報われることもなく、仇だ花に終わったことを恨みにもせず、海軍に身を投じたことを誇りに、戦後を活き抜いたことの(あかし)と思う。改めて海軍の偉大さに畏敬するものである。

自慢話と捉えられそうで会誌への投稿を渋っていたが、会誌の投稿は追悼文が多くなったようなので、書くことにした。ご叱正をお願いします。

青森県に行かれた時は立ち寄られる事を期待します。      (終)

(なにわ会ニュース9413頁 平成19年3月掲載)

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