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平成22年4月23日 校正すみ

卒業後2年間の戦闘行動

百瀬 茂

 小生は飛行機へは行かず、水上艦艇特に駆逐艦か潜水艦を希望した。昭和1811月下旬天皇陛下拝謁を無事終了し、横須賀から空母翔鶴で連合艦隊基地トラックへ出航した。発令は希望通り第2水雷戦隊司令部付であった。初めて経験する怒涛との戦い、無事トラックに入港、大和を初め大艦隊に驚いた。2水戦は全部出動中のため、暫く大和に乗組み訓練を受けることとなった。大和は想像以上に巨大な戦艦で、話では聞いていたが実際に乗組みその巨大さに驚いた。訓練で印象に残ったのは衛兵副司令で朝の軍艦旗掲揚を指揮したことである。なんとも言えない感激であった。また、毎朝の海軍体操の時、第一砲塔上からマイクで指導号令するのだが、マイクを使ったら下の下士官から声が割れて分からないと言われ、マイクなしで指導したらよく分かったと言われた。後で朝食時、甲板士官から「今までマイク無しで体操を指導した候補生は貴様が初めてだ。」と言われ、驚いたり嬉しかったりした経験があった。数週間後、2水戦の旗艦巡洋艦能代が入港して来たので能代に着任した。海軍の寵児水雷戦隊に入る我等青年士官候補生の喜び、之に過ぐるものなし。指揮下の駆逐艦を南東太平洋方面に派遣し、残りを率いて連日の猛訓練、我々は連日各部署にて訓練を受け、駆逐艦への準備をしていた。旗艦生活旬日にして満潮が入港し、また、出撃準備をしていたところへ司令官、上官に挨拶し、子隊(ねたい)へ一番乗りに着任した。艦長以下精鋭なる部下に迎えられ乗組み候補生としての真の艦隊勤務が始まった。

 

 めまぐるしい出動命令電報の到来、猛訓練、他艦隊諸艦と比して最も闘志あり、士気猛烈に旺盛に感じた。乗り組んだ翌日「トラック」島北方海域に敵潜を求めて出撃、怒涛と敵潜を相手に戦闘すること数日、完全に制圧して入港、初めての怒涛との苦しみに如何に耐えたるか。12月下旬を期して行われた南東諸島の兵力増強の為、満潮はカビエン島へ挺身輸送に出撃、敵の機動部隊の危険をおかして一路南下、感激の赤道を越えた。炎熱の太陽は美しいが、光が強く灼熱の地獄であった。ラバウルに続くカビエンは最前線の姿も生々しく空爆でやられた商船の赤腹も点々と目立つ。カビエン入港後、急速揚搭開始中、巡洋艦熊野より下士官1名海中に転落、本艦より小官指揮して短艇を派遣し直ちに救助感謝された。桟橋接岸中上陸し、燃料補給施設を視察、燃料補給後カビエンを後に、一路トラックへ、敵の接触機は離れず、遠距離に敵機動部隊出現、我を攻撃せんとす。我等輸送に成功せり。帰路第2回輸送部隊と逢った時敵機動部隊と遭遇したか情報なし。

 

 昭和19年の春を赤道直下で迎えた。新春を迎え、米英撃滅の決意を新たに一路北へ。1日夕刻トラックへ入港。明くる2日正月気分を味わう間もなく夕刻梯船団(内地よりの輸送船団)を迎える出動命令受領、19年の正月を一日したのみで3日未明トラック北方海面へ、怒涛と戦い、敵潜を制し、サイパン島に到着するも、船団に遭遇せず。サイパンに仮泊後、或いは船団敵潜の攻撃を受け航路を変更せるに非ずやと急速出港、同船団と遭遇す。これを導きトラック入港。無事任務完了。船団を迎えて休養の暇もなく、直ちに大和の内地への直衛の任に就く。緑の夏の島を後に一路北へ、日本本土へ、呉へ、厳冬を迎えた日本近海の荒れ方は言語に絶せり。服装は次第に厚くなり、内地近海に達する頃は厳冬、所有する衣服を全部着用、それでも気候の急変により皆風邪気味となった。

 無事大和の直衛を済ませると休む間もなく、商船愛国丸を護衛して横須賀へ。敵潜を避け瀬戸内海を航行することとなった。波静かな海の庭園、瀬戸内を高速航行の素晴らしさ、美しき島、また、岬点々と。鳴門を過ぎて太平洋へ、西風を背に無事横須賀へ入港。

 1月下旬、高速船団(靖国丸、赤木丸、愛国丸)を直衛しトラックへ向かう。内地基地空軍の協力を得て南下、小笠原列島の西側を、富士を背に一路トラックへ。トラックの北200浬の地点、真夜中の12時頃敵潜我が船団を雷撃。直ちに爆雷攻撃するも敵潜を逃がす。我にも被害なし。針路を変えて南下。0400靖国丸敵潜の攻撃を受け瞬時に轟沈。我もまた直ちに爆雷攻撃、敵潜を制圧する。然れども帝国潜水艦の命の綱ともいうべき魚雷数百、兵数千、海底に消えさる。時にトラックの北100浬。他2隻を護衛しトラック入港、任務を終了するも、靖国丸を失ったのを自責す。

此の頃マーシャル方面の戦況我に利あらず、また、敵機動部隊攻勢に出つつある。

 その時、ケゼリンよりの飛行艇がトラック東方のミント礁に不時着との報が入り、之の救出命令を受領、直ちに出動、敵潜水艦を排しつつ救出に努めるも見当たらず、残念ながら帰投。あるいは鮫か敵潜にやられたか不明。トラックに帰投す。

 この頃敵機動部隊我が前線基地トラックを襲わんとす。我策するところあって基地を変更す。

 2月初旬武蔵を直衛し横須賀へ。何度も往復した馴れた航路を荒潮と戦いつつ緑のトラックに決別し、無事横須賀に入港、任務を果たす。

 2月下旬急速に戦備を整えた武蔵を白露と共に直営し、新基地パラオに向かう。新しい航路により南へ。この頃大きな台風に遭遇、駆逐艦は進退に窮する。一両日の苦闘の後、之を通過、武蔵をパラオに無事入港させることが出来た。

 ここパラオは南洋庁の所在地で、また格別に美しい基地と言うべし。直角に曲がった水路を艦長に許されて操艦し見事桟橋に達着し、我ながら嬉しかった。パラオ港内には連合艦隊の精鋭が揃い、武蔵の護衛の任務を果たしホットした。

 パラオは南洋庁の所在地だけあって島は美しく、建物は散在し、トラック島とは趣を異にした。

 間もなくバリックパパンの重軽油油槽船隊の間接護衛として第5戦隊と共に出撃、敵潜を排しつつボルネオの油の基地バリックパパンへ入港、途中波静かなセレベス海、夜航海の星の美しさは格別であった。バリックパパンの精油地帯を視察、東洋一の精油所の名に背かず素晴らしい組織と言うべきであろう。

 バリックパパンの空爆の跡を視察したり、土人の純朴さはまた親しみのあるものであった。バリックパパンを油槽船より一足先に出港した我と5戦隊はタラカンに向かう。途中高力運転、最高34節を出す。痛快極まりなし。油田地帯タラカンに入港。

3月15日に海軍少尉に任官し、士官室の先輩から水交社で任官祝いをして頂いた。小官は任官を記念して警備隊から馬を借り1時間程乗馬をして浩然の気を養った。

 タラカンを出港して直ちに油槽船団の後を追う。途中セレベス海の東端にて赤木丸の漂流者を救う。30数日間の漂流にて体力殆どなし。途中敵潜を発見、追撃するも逸す。船団の一船を雷撃せるものなり。幸いにして商船は被害僅少にして無事パラオに入港、任務完了。この日パラオ近海にて駆潜艇敵潜を撃沈して捕虜をつれて帰投。士気高揚す。

 3月下旬敵機動部隊来襲、被害を局限し、他日を期し基地転進。武蔵、出港後間もなく敵潜の攻撃を受けるも戦闘航海に支障なく内地に向う。本艦は最後までパラオに残り奮戦する予定であったが、急遽武蔵を直衛することとなり急速出港、武蔵を直衛して内地に向かう。武蔵は前部に大破孔を生じたるも何等損傷を受けざるが如く頼もしく進撃。敵潜を排しつつ無事呉に入港、ドックで見た武蔵前部の損傷の大きさに驚いた。

 呉滞在中、桜が咲き始めた。江田島に渡り兵学校を訪ね後進を導く。

 410日付にて満潮は第2水雷戦隊より第10戦隊に編入の為、小官退艦、一時2水戦の白露に便乗することとなる。白露に便乗せるも、同期(出宮少尉)戦死し欠員のため、小官その穴を埋めることとされた。

 4月上旬ニューギニア方面への陸軍の精鋭大部隊の護送のため出撃、下関海峡を出て朝鮮の南方海面にて船団と会合、一路上海の入口四礁山へ、此処にて上海方面の精鋭陸軍を合し大型輸送船十有五隻、支那沿岸より台湾よりに移り一部隊を台湾に残してルソン島沿岸へ、ルソン島にかかる頃、敵潜出没、制圧に努力すれども残念なるかな、一船を失う(甲府師団の精鋭)。その他無事マニラ入港。バタン半島を左に見、コレヒドール島を望み、ルソンの首都マニラへ入港。マニラに上陸散策、市民は一般に好感を有して居らず、道徳すたれ、不潔極まる生活者多数、意気地なき国民性を示しあり。市街は外国の感大なり。旧城内を通り帰艦。陸軍部隊はマニラに大半上陸。

 4月下旬数隻の船団を護送、ニューギニアへ。マニラ出港後スルー海にて敵潜に遭遇、之を制圧して静かスルー海を南下、ニューギニアのマノクワリに進出予定を変更してハルマヘラに向う。セレベス海の横断を企図して航海中、敵潜数隻に遭遇、3隻の輸送船を失う。然れども兵員殆ど全員救助せるは不幸中の幸いと言うべし。途中前進基地に仮泊、陣容を整えて一路ハルマヘラへ、途中幾度か敵潜と戦いつつも無事入港、任務完了。

 白露、五月雨、藤波で艦隊基地タウイタウイへ入港。燃料補給の為3隻で対潜掃討を実施しつつバリックパパンへ向かう。不幸にして敵潜に遭遇することを得ず。2度目のバリックパパンは度々の空爆により少々変っていた。

 燃料補給後、油槽船団を直衛、艦隊基地タウイタウイへ向う。本艦が先導して出港、間もなく油槽船1隻を磁気機雷により失う。本艦が数分前に通過せる所だったが、本艦は艦底が浅かったのか、武運があったのか。途中敵潜を排して無事タウイタウイへ入港。

 タウイタウイ泊地へ近接するに従い第一機動艦隊の精鋭、世界最大を誇る空母、戦艦の新鋭を交えて百隻に近い大艦隊、間近に迫りたる洋上決戦を期し、今度こそ敵米艦隊を撃滅せんと士気大いに高まった。

 5月19日2水戦の27駆逐隊司令駆逐艦春雨乗組を命ぜられ、白露を退艦する。白露便乗のまま1ヵ月有余の作戦行動を無事終了して春雨に。対潜掃討に出撃する所をつかまえて着任、そのまま出撃、敵潜を掃討。ここは艦隊泊地だけあってその対潜掃討の計画の大きなことよ。10数隻にて連合爆雷投射の物凄さ。リンガよりの訓練に自信に漲(みなぎ)り士気いやが上に高揚した。

5月中旬渾作戦が発令され、2水戦第27駆逐隊春雨以下6隻の駆逐艦はビアク島への決死隊に選ばれ、機動部隊の登舷礼式に送られ、第5戦隊及び戦艦扶桑と艦隊基地を出撃する。渾作戦の経過については、「なにわ会ニュース」第89号に詳細掲載したので省略。

 渾作戦は春雨が轟沈以外無事であったが、渾作戦は失敗に終り誠に無念であった。間近に迫った艦隊決戦の為救助された艦長以下兵士はアンボン島に残される羽目になった。アンボン島では海兵出身の将校は小官を残して全員日本に帰国してしまった。そこで、約40日間士気高揚の為、毎日兵員の訓練の外、基地へ行き兵員を内地へ連れ帰るため大型の上陸用舟艇を一隻譲り受け残った下士官兵を乗せて支那の沿岸つたいに日本まで航行する計画を海図と共に作成し、全員無事に日本へ連れて帰る計画を立てた。ところが、海軍省から「至急帰国せよ」との電報が入り、兵員全員に事情を説明し、特務少尉がいたので彼に帰国の仕方を十分説明し、納得してもらった。後日呉で下士官の一人に偶然に会い、全員百瀬少尉殿の計画通り内地に帰ることが出来たと聞き本当に良かったと思った。

 話はアンボンに戻るが、航空参謀の計らいで、7月12日アンボン発の飛行機便で内地に帰った。直ちに横須賀鎮守府に挨拶に行き、小生の転勤先を調べたところ、練習潜水艦イ156砲術長ということで少々驚いたが、6月の米国との艦隊決戦で敗退し、乗る艦も少ないので仕方ないと考え、水交社で軍装を整え、直ちに大竹の潜水学校のイ156潜に着任。着任1週間後、急に砲撃訓練と言うことで出動し、実際砲撃を指揮したが、実際は下士官の砲長がやったようなもので、5発中3発命中ということになった。

 翌月第13期潜水学校学生として入校、学習訓練を経て半年後卒業、皆現地へ赴任して行くのに、小官は潜水学校の教官兼練習潜水艦ロ67潜の先任将校として潜水学校に残留、乗組員の訓練の外、予備学生、潜水艦未経験兵等の訓練も中々忙しいものであった。

 

 2月19日敵機動部隊日本近海に接近の為、老年の兵を下船させ、ボロ潜水艦で、突入覚悟、イ156潜と共に出撃、一時豊後水道の入口の宇和島湾に仮泊、敵機動部隊の動静を注視していたところ、米機動部隊は日本に近づかず太平洋の彼方に去ってしまったので潜水学校に帰投した。

 呉軍港に修理の為入港中、20年3月19日、敵機動部隊の攻撃を受け、戦死9名、重傷30数名を出すという大損害を被り乗組員大異動。新しく訓練を実施。

 6月1日任海軍大尉。その後、瀬戸内阿多田島周辺で訓練中、敵機の投下した機雷に2番艦触雷沈没、全員戦死。

 6月下旬大修理の為、呉のドックに入る。6月22日米機動部隊の空襲を受け、乗組員は小官と砲長兵1名を残し、全員呉港の防空壕に避難させ、幸い人員に被害は無かったものの蓄電池他機械全部破壊され、本艦潜水艦としての機能を失う。船体のみ曳航して乗組員と共に潜水学校に帰投した。潜水艦としての廃艦に儀式は後に行うこととし、乗組員の訓練を実施していた。

 7月に入り、7月20日付にてイ505号潜水艦の水雷長の発令があり、この艦はドイツから捕獲せるものにして現在スラバヤに在り、南へ行く便がある迄別途発令の艦長と共に呉の司令部にてドイツ潜水艦の研究をしながら待機することとなった。小官はロ67潜廃艦の儀式もあり、それ迄潜水学校に残った。

 8月に入り、8月6日乗組員の健康診断の日に広島原子爆弾の爆発を見た。(関連記事はなにわ会ニュース98号に掲載の為省略)

 その後、ロ67潜の廃艦の儀式も無事終了、乗組員も夫々の任地へ赴任し、小官も呉の司令部に一応着任した。

8月15日に終戦の大詔降下。 然れども、吾人これを信じることを得ず。港内各潜水艦は出撃の準備、小官も各方面に運動、参謀の許可を得て第10特攻戦隊司令部付ということにして回天の搭乗員を志し、16日第10特攻戦隊司令部に着任。同期の橋口寛君に徹夜で教えを受け、もともと潜水艦を知っていたので後は出撃する時にスペアの回天に乗組み橋口君の後についていくことにした。翌早朝全員集合があり、司令官から今回の終戦は天皇陛下直々のご命令であり、これに背くことは不忠であり、後世の歴史には国賊扱いされると言われ、回天特攻を断念して司令部に帰った。帰る時、橋口君の様子がおかしいから充分回りの人達が良く注意するよう良く頼んだが、後で彼は本望を遂げ自決したと聞き、非常に残念であった。司令部に帰った後、周辺の同期と承詔必謹と決め、戦後の日本再建を誓い合って別れ、小生の海軍生活の幕を閉じた次第である。

 (なにわ会ニュース100号46頁 平成21年3月掲載)

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