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平成22年4月17日 校正すみ

     上海二五六空勤務

         飯野 伴七

 昭和一九年七月未、神池戦闘機学生卒業、各自勤務配属先が発表された。二五六空勤務と聞き、はて何処にあるのかなと思った。当時ナンバー航空隊は概ね外地で活躍、勇名を馳せておったので多分南方だろう。それにしても数少ない外地行だと雀躍した。さて一体場所は何処ぞと推測したが学生の中ではわからなかった。教官に聞いて上海であることがわかり一層の張りきり方であった。                                                          

それに小生の戦闘機六名、艦偵 篠田(海自)艦攻 佐々木(海自)の二名を加え八名。

 

 八月三日東京発大村空に向い八月六日二五六空の連絡機ダグラス便で盛夏の日本を後にした。五島の島々は線に映え海はあくまで青く機窓はるかに真白な入道雲を見てこれが内地の見納めかと一瞬感傷に襲われた。

 三時間半の後には上海上空にあった。機が高度を落して旋回すると翼下に市街地が見え、高層ビル(二十階がある)が、一面に続く大平原を限っており、やがては馴染む街だろうが珍しさも手伝ってよく目に入れておこうという気持だった。

 着陸は機長任せ(七一期渡辺氏小生対番)長い滑走路から指揮所の前へ同行した下士官の飛行兵他を整列着任の挨拶をすると何と飛行長が金子少佐であった。目をぐりぐり、首を傾けてよく来たなと黒く陽焼けした顔に白い歯をほころばせた。江田島でお世話になり又ここでと幸先よいわいと思った。

司令石田大佐、隊長山崎大尉(六八期)分隊長柴田大尉(特務)飛行士厚地・石井(七一期)がおられた。飛行場は市街の北にあり、通称江湾といい、戊基地といった。

二〇〇〇米級の舗装滑走路で中央が盛り上ったかまぼこ型、一ヶ月の後に今度は市の南の竜華基地に移った。蒋介石が造ったとかいう一二〇〇米未舗装の粗末な方へ大移動した。戊基地は中攻隊等大型機の基地部隊となった。戊基地の立派な滑走路には着陸後廻されヒヤヒヤ、脚を折って面目を落した仁も出た。

竜華はその点竜華寺の五重塔が少々邪魔になったが気楽だった。竜華寺は我が国の法隆寺級のもので五重塔が邪魔なら取り壊すといってきたが離着陸してみてそのままでよろしいとした。今にして思えばよかったと思う。

隊の行動は支那方面艦隊の護衛、局地防衛が主で香港にも出張部隊があった。訓練に明け暮れた日々で積極的進出の意図は少なかった。外出も月に一、二度、門限は午後十時、外泊は許されなかった。水交社、それに指定のクラブでこの点内地よりも厳しかった。第一回は山崎州男(戦闘機)の父君に電話して車で市内見物、租界の一流中華料理店でご馳走になった。期友は有難いものだ。

 十月中旬台湾方面艦載機攻撃あり二五六空も支援の態勢を取った。前記石井大尉、宝納は整備員共ダグラスにて先行、このとき台北海岸でグラマソに遭遇、撃墜され戦死者を出し、宝納は負傷しながらも九死に一生を得ている。

当時零戦は二十数機で実戦に直ぐ役立つものは十数機。十月十三日(金)十六機進出したが悪天候(雨)で台湾海峡が渡れず引返し天候の回復を待つうち捷号作戦は中止になり進出は取止めとなった。

 十一月の末B29 十三機江南ドックを爆撃、これに向った我が方二機、小生初陣であったが三号爆弾攻撃、どうも手応えはなかった。

この頃零戦受取りに金子、山仲等内地に往復している。気候は大陸的気侯で冬の朝晩は寒さが厳しかった。

 二十年元旦 晴 寒冷、司令の訓話も悲壮が感じられた。

一月中旬、小生厚木に雷電受取りに帰国。

 一月十七日南支奥地よりP51二十機来襲、数機炎上。迎撃に出動した。

一月中旬山仲が死している。

 あまり調子のよい雷電ではなかったが、先を急ぎ受領したが途中だいぶ苦労することとなった。

 雷電の洋上空輸は上海行きが始めてで、九州―上海(四六〇浬三時間半)内地航技関係の人も感嘆しておった。魚雷のような四〇〇立増槽をぶら下げて行った。

 

三月以降五月に戦闘機の空襲二回、B29は数度、その度に一〜二名戦死者を出した。

その頃五月二日午前8時半金子忍中尉「当時)が戦死した。

 六月中旬に松山が内地転勤となり、期友も減り淋しくなった。六月末に南京方面視察、南京付近新設飛行場を見た。汽車は特等、回転椅子展望事、宿舎はピカデリー十三階の室。終戦後の米軍と逆な立場であった。

七月沖縄よりの艦上機来襲、飛行場、軍事施設が狙われたが規模、回数ともたいしたことはなかった。七月中旬長官の護衛で青島へ行った。その途次雲上飛行中真綿のような真白い柔らかい雲の中に円い虹を見て飛行機乗りの冥利を感じた。

八月初旬特攻隊の連絡の任を帯びてダグラスで九州へ飛んでいった山下正也が遂に帰らなかった。

 八月十一日租界に赤旗を掲げ、日本が降服したという噂が飛んだ。十二日、一つこの赤旗をけちらしてやろうと八時雷電を馳って離陸したが高度七〇〇米、高層ビルのある真中でスロットルレバー故障から微速で止り、黄浦江運河に不時着水、一時人事不省に陥ったが救出された。

 自隊の病室で加療中、八月十五日の終戦を聞いた。包帯をしたまま飛行場に駆けつけ司令の命を仰ぎ、特攻出撃や何やと騒いだが夕方にいたり長官達により静止の状況となり戊基地に集結、八月二十二日が飛行機の操縦納めとなった。

 その後は捕虜生活、さまざまな苦労と話題を残して約8力月後の四月十八日乗船、最初戦闘機六名だったのがただ一人、舞鶴港に上陸したのだった。

(なにわ会ニュース03号5頁 昭和39年10月から掲載)

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