平成22年4月23日 校正すみ
思い出
吉本 信夫
平成2年我が級は入校50周年を迎えた。半世紀が過ぎたわけである。齢も古稀に近く体力の衰えと共に、頓に物忘れが嵩じつつあることを覚える今日この頃である。今、50年前を顧みれれば随分と長年月を経たとの思いと、一方では始めて冬の東舞鶴駅頭に降り立った日のことが数日前の夢の様な気もする。
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誇りと希望に心をはずませ、「海軍生徒を命ず」との辞令を手にしてよりの3年弱は人生の一大転機であったが、今脳裏に強く残ることは、訓練に明け暮れた日々のことである。卒業111名が総て同様な経験を積んだわけであるが、それに対する想いは皆異なるであろう。この原稿を書いていると、当時のことが霧がかかった記憶の中より年月のフィルターを通してではあるが蘇ってくる。
二号の時、カッターの寒稽古で濃霧の湾内へコンパスを持たずに漕ぎ出して方向を失い、一号の判断に適切を欠いだ為中々帰れず、寒気酷しい中をあてどもなく漕ぎまわり、どうにか帰着した時は既に課業開始に可成り遅れ、当直監事より大目玉を喰らい、朝食抜きで教室行きとなったこと。10哩駈足競技でへバリながらも同分隊の一号を抜く時の快感。夏休暇前、栗田の舞鶴航空隊岸壁より若狭湾の海へ入り、由良川河口の三角波で汐水を呑み舞鶴湾奥迄の1日がかかりの気の遠くなる遠泳。楽しかった民宿しての神鍋山でのスキー訓練等々。又緊張したことは起床時総短艇、陸戦隊用意のラッパが鳴ることであった。
従って朝課業整列前の交替当直監事名が書き出される掲示板は、生徒生活における大きい関心事の一つであった。武装しての駈足訓練も春秋の陸戦演習出発前には度々行われ、市中の道路もよく走り往時の懐しい街並が頭に浮んでくる。
10月18日、級慰霊祭当日、舞鶴クラブより室井、小田両君と散策しっつ学校へ向った。今日の東舞鶴の街は、旧海軍道路脇に隅に軍需部の赤練瓦の荒れた倉庫が残っている外は、昔の面影を見出せない。日曜外出時、休暇への思いを込めて眺めていたプラタナスの並木は全く姿を消し、中舞鶴行の線路もなく、どこの街にもあるトラックの多い道路と化している。更に旧港務部沖の海面は広く埋立てられ、狭い湾内が一層狭くなっている。然しこの埋立地は未だ殆んど活用されていない。海上自衛隊の艦船は旧学校短艇岸壁より東の岸壁に横付け繋留されている。生徒当時、昼夜の別なく熔接光と騒音を発し活気に満ちていた工廠岸壁は今は静かである。嘗て棒倒し、ラグビーと攻撃精神を鍛えられた学校練兵場は殆んど民間で利用されている模様であり、その中でゲートボールに興じる老人を見れば時の流れを強く感じる。全く昔の面影を変えていないのは湾内鳥島、蛇島、戸島の3島である。慰霊最後魚雷艇へ便乗しての湾口近く迄の周回航走では、久方振りに舞鶴港の汐風を胸一杯に吸込み懐しい思いに浸ることが出来た。
午後の生徒館前慰霊塔での亡き級友を偲ぶ慰霊祭で、祭文を捧げ一同で校歌の斉唱を行った際は、共に学んだ往時を想起し唯感無量のため、声もかすれがちで落涙も止め得なかった。昭和18年9月、武運を祈る教官、後輩、家族の声に送られ、夫々栄光に輝く海上第一線に赴いたが、爾後2年弱の間は敗退に次ぐ敗退と戦運に恵まれず、決死救国の熱情も空しく戦い終って級友は半数となり、同じ水上艦の道に進んだ友も約6割が鬼籍に入っていた。攻勢転移を確信し空母を中心に輪型陣を組み堂々と進撃したあ号作戦、魔のパラワン島西海面での被害を乗り越え丸裸の艦隊で3日間、シブヤン海、サンべルナルディノ海峡を越えて戦った捷一号作戦、願いも空しく多くの味方艦艇が倒れ傷ついた。同時に、級友達も艦と運命を共にし、幽明を分けてしまつた。
その中で尚生き残るよう運命づけられた我が命、若くして逝った友の事を忘れずに自らの今後を全うせねばと思う。
(機関記念誌263頁)