TOPへ  戦記目次

平成22年4月23日 校正すみ

思い出

吉田二三男

南九州の片田舎から胸弾ませて舞鶴に着き成田倶楽部で一息ついた。夜一人の海軍士官が来られ、私の顔を点検するかの如く見られ、顔を剃って明日の試験に臨むよう注意された。鹿児島の志布志中学校出身でバンカラの校風に親しんでいた私はわざと顔を剃らずにいたのであったが早速散髪に出かけた。これが一学年監事喜多見教官との最初の出会いで船乗りの条件の一つ、「スマート」という事を身を以て教えられた。

入校当時は喜多見教官の学年訓話がよくあった。

「我ガ皇国ハ天津神々国ヲ産ミ給ヒ、万世一系ノ現人神ニ在ス 天皇之ヲシロシメシ給フ絶対無窮ノ神国デアル。而モ臣民タルノ栄ヲ担フ我等ハ総べテ国土卜同様ニ天津神ニ依リ産レシ神々ノ子孫、天皇卜我等臣民ハ義ハ君臣ニシテ情ハ父子タル、切ッテモ切リ得ヌ無限ノ関係ニアル」と言う大前提の上に立って陛下の軍隊の一員として忠節一義に生きよとの教官の祈りとも言うべき熱願が込められていた。そして厳しい躾教育が始まった。

昭和16年の正月、一学年生徒は冬休みが無く、京都、奈良、伊勢方面の学年旅行があった。伊勢では一泊、内宮へ向かっての大祓の祝詞奏上や(みそぎ) (氷のように冷たい水だった)もした。

翌朝宿舎を出発する時の教官の訓示は「禊祓ノ精神ハ禊祓ヲシタ時ダケデナク、我々ハ四六時中之ヲ生活ノ中ニ体現シ常ニ誠心ヲ以テ真ノ自己ヲ見出シ、生々発展シテ止マザル神国ノ理想ヲ奉ジテ我等ノ本分ニ遇進スベキデアル」と云うのであった。

日時は忘れたが徹夜の一学年だけの短艇訓練があった。一学年だけの気楽な?訓練だったので自我が出て、とかく櫂が乱れ勝であった。然し疲れの極に達したところで始めて皆の気持が一になって、誰言うとはなしに櫂が揃い気持ちよく艇が進み出した。いくら漕いでも疲れを感じなくなっていた。

又、大江山への夜間行軍があった。宮津から大江山へ向ったが最初は皆元気に任せ、話し乍ら歩調も揃わず隊列も乱れ勝でバラバラ気分であった。しかし一晩中歩き通しで疲れての帰路、段々と皆の気持が纏まってきて、誰が号令したのでもなかったが隊列も整い、歩調も揃い威風堂々の行進になっているのであった。

眠気も疲れも完全に吹き飛んで、隊列を乱すまいと只一途に歩いた。でも宮津に着き内火艇に乗り込むや流石に疲れがドッと出て大半の者が寝むりこけた。喜多見教官は皆の心が一になる見事な行動をした事を喜ばれ「この気持を忘れるな」と褒めて下さった。

私が身上書の宗教欄にキリスト教と書いていたので教官は悩まれたようだった。それ故か教官室に呼ばれ日本の維神(かんながら)の道とキリストの神の違い等色々と話して下さった。

「我ガ国ノ神ハキリスト教ノ神卜違イ、実ニ祖先崇拝ニ根底ヲ発スル。神卜祖先トハ二ニシテ一、密接不可分ノ関係ニアル、更ニコノ神ナル観念ハ内進シテ自己ノ中ニ神ヲ認メ民族ノ一人一人が「ミコト」トシテ民族ノ共同祖先ニシテ神ナル天照大神、更ニ進ンデハ天津神トシテ天照大神ヲ現在ニ具現シ給フ万世一系ノ天皇ニ帰一シ奉リ天業扶翼ニ全身全霊ヲ捧ゲ奉ラントスルノ信念ニ達シタノデアル」

と言うような事を誠心こめて話されたのだが、当時の私はまだまだ思想的には未熟で何も判らず、ただ黙って聞いているだけであった。しかし戦場で死ぬ時は立派な死に方をしたいと死の工夫は怠らなかった。

53期生徒に2名の吃りがいた。私と中川である。喜多見教官は心配して、何とか治してやろうと度々特訓して下さったが成果は余り上らなかった。昭和45年頃PTAで兵学校73期の田中弥太郎君と知り合い、中川の吃りが引き金となったと思われる殉職の模様を聞かされ絶句した。「同病相憐れむ」さぞ無念であったろうと思う。

 

卒業後私は軍艦伊勢乗組であったがトラック島へ陸兵輸送作戦に出る前、喜多見教官が候補生一同を激励すべく訪ねて来られた。その時各自へ教官編集の名著「祝祭日解説並ニ神社概説」を頂いた。日本人である以上これ位は知っていなくてはとキリスト信者ではあるが今でも時々ひっぱり出して参考にしている。

最近コレスの小島末喜君に見せたら近頃の神官でもこんなには知らぬと驚いていた。

追浜空で整備学生時代喜多見教官が横須賀に来られたとの一報あり、早速整備学生一同とパインで一席が設けられ痛飲歓談大いに場が盛り上った。機関学校時代の固苦しい教官でなく赤裸々な人間喜多見芳夫に接し、今迄以上の親しみを感じた。

 

四号生徒時代、私は7分隊であった。青木、吉盛、井上、椎野、寺岡、富田と私の7人が7分隊の四号生徒で苦楽を共にした。丁度50年前のことで記憶も定かでないが思い出の一、二を書き綴って見よう。

 

青木生徒は頭脳極めて優秀、真面目な男であった。先任生徒として私共を良く引っ張って行ってくれた。彼とは整備学生でも一緒であったが級のトップとして実に立派な存在であった。

 

吉盛生徒は鹿児島一中出身である。私が志中出身ということですぐ仲良しになった。彼は背が一番高い方で私は一番低い方だったがよく行動を共にしていた。彼の柔道は海機に入ってからだったので、最初は私の技にかかっていたが、持ち前の熱心さと体力で数ヶ月後には私を追い越してしまった。

柔道と言えば入校当時、一学年だけの武道の時間、椎野と乱取りをした。何となく気合いが入らず冗談みたいになってダラグラした取り組みをしていた所を喜多見教官に見つかり、一喝、私は教官の相手をさせられてしまった。名誉挽回とばかり無茶苦茶にブッかっていった。暫くして「何だ真面目にすれば強いではないか」と放免して貰えた。

 

寺岡生徒は学習院から中山と来た学習院のホープであったが、「貴様本当に学習院出か」と冷かされる位、飾り気のない豪放磊落(らいらく)、実に大人物であった。よく「吉田、貴様はー」と笑い飛ばされた。後年彼の回想録が出版され、当時の私共の事が逐一母上に報告されていた事を見て、すっかり忘れていた娑婆気たっりの昔の私の姿を見せられて赤面した。

 

井上生徒は近江膳所(ぜぜ)の出身、良家の生れらしく、立居振舞が洗錬されていた。又野球の選手をしていたとかで野球の話をよく聞いた。縦長の素晴らしい字を書いて悪筆の私は羨しくて何とか真似しようとしたものだった。

日曜日クラブに行くと家から私など見たことも無いような高級菓子が送られて来ていて相伴に預かったものだ。運動神経も抜群で椎野と二人 四号生徒で分隊対抗ラグビー大会に出て大活躍した。

富田生徒は大人しい控え目な生徒であったように思う。私共7人は皆愉快でユーモアに富む面々で何時も笑いが絶えなかった。私共7人は何をするにも一緒であった。入校直後一ケ月、陸戦と短艇の7分隊担当の教員と妙に馬があった。休み時間になるとお互い冗談を言い合った。

その内、何となく正月、教員宅を訪問しょうと言う約束が出来、16年の正月を教員家の家庭お節料理で祝う事になり大いに英気を養った。ところが後でこの事が発覚、一号生徒や教官にとっては問題になったらしいが、私共には「教員宅に行くものでない。行くのなら俺ん処に来い」と言う注意だけですみ、早速喜多見教官や古館分隊監事宅に招待され奥様の御手料理の御馳走に預ったのである。

 

三号生徒時代は坂梨生徒と1分隊で一緒であった。温習室では向い合って坐っていた。眠くなると紙つぶに手紙 (冗談)を書いて投げ合った記憶がある。

 

二号生徒時代は岡本、森と16分隊で暮した。森生徒とは何となく馬が合い物理実験など大てい組んでいた。良い結果が出ないと先に曲線を引いておいて適当な数値を作ったりした。

終戦後復員して父より森が宮崎の赤江飛行場に来ている間中、時々訪問してくれていたと嬉しそうに話してくれた。

岡本生徒は次席として本当に文武両道に秀いでた好青年であった。何事にも真面目であった。

一号時代は岸、西川、吉田、森山、山下武、佐野の6名が第8分隊であった。分隊監事は海兵出身の山本大尉であったので機校出身の教官と違う空気を一寸ではあるが味あわして貰った。

私は生れつき体が余り丈夫ではなく運動神経も良い方ではなかったので体技、戦技のメダルとは縁のない存在だと思っていた。ところが、岸、西川、森山、山下武、佐野の一号生徒や二号、三号に良い選手が居て頑張りラグビーでとうとう優勝してしまった。

中でも生徒長だった西川は目の上を切りつつも頑張り続けてくれた。お陰で私も海機在校中ただ一箇のメダルを胸に下げたのであった。

 

しかし一号時代最大の思い出は生徒館前の練兵場での事件である。陸戦訓練時私の分隊は大講堂の方から生徒館の方へ攻撃して行き、突撃寸前と言うので着剣した。そして生徒館の方から来た他分隊と交錯した。

その時私の分隊の三号M生徒の銃剣が向うのY生徒の腹部を刺してしまったのだ。狭い練兵場で多人数の相当疲れていた者同志が着剣したまま交錯し、一寸の注意の空白が引き起した大事故であった。

Y生徒の方は早速入院、海軍病院始まって以来という位の大手術を必要とした。一方M生徒の方もびっくり仰天、茫然自失、事の重大さに慄いて自殺し兼ねない様子であった。M生徒より相談を受けたが私にも別に妙案があるわけでなし本当に困った。

彼の責任を追求し罰することより自殺を思い止まらす事の方を優先させた。総員召集の意見も出たが起ってしまった事を云々するより、これから先どうするかと言うことの方が重大に思えた。

岸、西川、森山、山下、佐野も一応諒承し中でも岸や西川が奔走し召集は押えてくれた。一部の面々から大事故を起し乍らも召集もしきらぬと批難されたけれど卒業までこの事件は何事もないまま過ぎた。結末はどうなったかは、私は知らない。同窓会名簿にM生徒の名が見えないのが気にはなっている。

 

一方一号時代の楽しい思い出の一に神鍋山スキー訓練がある。時局も急を告げつつあった18年の冬、良くも行われたものだと今は思う。南国育ちの私がスキーをしたのは機関学校時代だけである。それでも一応スキーを語れるのは海機だったからで有り難い限りである。

 

昭和19年6月30日、追浜での整備学生卒業時、直ちに戦地勤務についたのは153空附の私とシンガポールへ発った合志の2名だけで、後は内地の部隊への配置だった。

153空はセレベス島のケングリー基地にあるだろうとの事でマカッサル経由ケングリーに向った。ケングリー基地に着いて見たら飛行場は空っぽである。49期の崎山大尉と51期の柳本大尉の2先輩が居られるのみで、大半は第二ダパオの方へ転進したとの事であった。そして次の便で第二ダパオの方へ移送して貰った。

第二ダパオでの私の仕事は防空壕構築用の椰子材の切り出しであって、敵機に気付かれぬよう適当に間伐するのであった。夜は夜間戦闘機月光の迎撃作戦の見学に良く行った。

153空は基地隊であったので実際の作戦は夜間戦闘901飛行隊と偵察102飛行隊が行なっていたので私は見学以外特に仕事が無かったのである。那須兵曹の敵機体当りの報告を指揮所で聞き、着陸後の月光も見た。

9月10日、猛空襲の後米軍上陸の誤報が流れた。第1航空艦隊司令長官であった寺岡謹平中将自ら第2飛行場の本部に移って来られた。私共はその面前で急遽陸戦隊の編成を行ったが、武器は小銃すら半分の兵に渡すことの出来ない頼りない編成で悲壮であった。

そしてこの日より153空の呂来島への転進が決定され、9月12日には陸路カガヤン迄行きそれからは舟でということになり、小林中尉52期)率いる3ケ小隊が編成され出発北進した。後で、セブ島で小林中尉にはお会いした。

13日からは飛行便の許す限り、司令始め主だった者や付添の下士官が続々とマニラの方へ転進し始めた。17日私も比島中部のセブ基地まで移動しここで待機を命ぜられ終戦まで居ることとなる。

セブ基地は201空の根拠地でまだ活気があった。153空はその片すみを借り、ダパオからルソン島への転進のための中継基地であった。主計兵と通信兵は201空の指揮下にあって行動を共にしていた。特務中、少尉2名と私の3人が士官で自然と私が指揮官という形になった。空襲は毎日、毎夜の如くあった。

1020日、レイテに敵が上陸するやセブ基地は特攻基地となった。又夜間魚雷艇狩の月光の基地となり蓑部(みのべ)少佐率いる月光隊が活躍を始めた。昼は特攻機の応援、見送り、夜は月光の出撃と153空の将兵は良く頑張った。不思議と疲れも憶えず只管任務についた。特攻機の掩護機で来た岸、安藤とも会えたのはこの頃である。

さしものレイテ作戦も下火になり戦火は呂来島の方へ移って行った。航空隊の編成替えがあり北葬空、中井空、南井空の三つに統合され、私共セブ基地の153空は中井空となったが当時保有機は零戦1、2機にすぎず、最早航空隊独自の作戦は出来ず、米軍上陸へ備えての陣地構築が最大の仕事となり、陸上戦闘の訓練にとりかかった。

20年3月26日、遂に敵はセブ島に上陸して来た。激しい陸戦が始まった。我が軍の勇戦奮斗も甲斐なく4月14日には16日を以て転進するとの決定がなされた。

何か月もかかって構築した陣地さえ持ち切れなかったのに、これから先、陣地を出て一体どのような戦を挑むと言うのか全く勝算は無かった。事実全くその通り、あての無い悲惨な逃避行が続き、戦いに倒れ、飢餓に倒れる者続出したが、捕虜の汚名だけは着たくない、米軍の日本本土上陸を一日でもよい、延ばす事が出来れば本望だと耐え忍んだのであった。

 

8月15日終戦の時、私共は陸海両軍共疲れ切っていた。体力も消耗していた。8月22日、セブ島北部のインファンタで投降式、収容所へ移された。収容所は天幕張りではあったがよく整備され、ハミガキ、・剃刀に至るまで支給、食糧も十分与えられ、1週間もすると、疲れやせ衰えていた体も元通り元気になるのであった。

飛行場の何倍とも知れぬ広場に勢揃いした何千という米軍の車輌、戦車、自走砲、ヘリコプター観測機、軍需物資の多きに驚いた。国力の差をいやという程見せ付けられた。こんな国とよくも戦ったものだと思う反面、我にこれだけの武器あらば、決して負けなかったものをとの自負も残っていた。

捕虜収容所もセブからタクロバン、そしてマニラ郊外の第4収容所と転々と移った。私は自分の指揮の拙さから失った多くの将兵の事を思うと、生き残った後ろめたさと、責任の重大さを感じ、今更どうにもならぬ罪の意識に慄いた。比島人に対する残虐行為が指弾され多くの戦友が刑場の露と消えて行った。「それなのに俺は」と自分が情けなかった。

収容所内で持たれた仏教の会、旧教の会、新教の会と救いを求めて歩き廻った。その結果最後に落着いたのは、子供の頃父に連れられて行ったキリストへの道であった。

自分が生き残ったのはキリストがそれを欲し給うたのだ、これから先はキリストの為に生きて見ようと決心したのであった。それ以来今日までキリストへの思いを変えたことは無い。

何回も重病を繰り返し、死ぬような病の床も何回か経験した。今もって透析生活を続けている。私を見舞い励ましてくれた何人もの友が私より先に彼岸へ行ってしまった。私が何者であれば生かして下さるのですかという思いが強い。「神の思いと人の思いは違う。汝が死ぬのはまだ早い。まだ汝のなすべき事あり」 との声に迫られて、何も無い私ではあるが、小さいグループの中だけではあるが、キリストを(あかし)けている。

 私が死にかかる度に、多くの者が「尚生き続けて欲しい」と私の為に祈り、励まし、手を尽くして生かして呉れるのだ。その大いなる神の御愛にはただ感謝あるのみ、言う言葉を知らぬ。鳴呼

(機関記念誌262頁)
TOPへ      戦記目次