TOPへ     戦記目次

平成22年4月23日 校正すみ

海軍道路

山下 武男

平成2年1018日の朝は、この地方に間もなく訪れる暗い冬空が信じられないような素晴らしい秋晴れであった。

53期の入校50周年記念行事として企画された舞鶴における戦没者、戦後物故者の慰霊祭に参列のため、全国から集合した同期生は、昨夜はここ海上自衛隊舞鶴クラブに宿泊して、久し振りで痛飲したクラス会のアルコール分も今朝は快く消散して、まことに気持よい朝であった。式典の集合予定時刻の12時までには十分な時間があるので森山を誘って式場である総監部まで生徒時代によく歩いた懐かしい旧海軍道路を歩いて行くことにした。

東舞鶴の街を通り抜けるとT字路に突き当たる。左に行けば北吸のトンネル、右折すれば道はすぐ左へ大きく曲って中舞鶴の駅あたりまで約2km程の間は、港務部、軍需部、海軍病院、機関学校、工廠、鎮守府等旧海軍の主要な施設が立並び、歩いているのは、ほとんど制服姿の海軍軍人か工廠の工員、車は錨マークの軍用車両が忙しく行き交ういわゆる海軍道路であった。

昔軍需部であったあたりには現在近代的な舞鶴市庁舎のビルが建っているが、付近にはまだ古い木造平屋建てのかつての海軍官舎の面影を留めている家がかなり目につく。

さて、私にとって海軍道路の印象を強くしていたのは道に沿って建ち並ぶ赤レンガ造りの軍需部倉庫群であった。この倉庫は今も昔のままの姿で残っており、民間の会社が使用しているらしくレンガの壁面に「舞鶴倉庫」と書かれた白ペンキが目に鮮やかである。おそらく明治時代の建造物であろう。当時としてもかなり古く、初夏の頃渋い赤レンガの色が道路沿いのプラタナス並木の緑とよく調和して、どっしりと落着いた雰囲気があたかも海軍の歴史の証人のように感じられて好ましかった。

プラタナスの並木と云えば、今は見当らないが当時はたしか道の両側に植えられており、秋口に短く刈り込まれた枝に、冬は雪帽子を乗せ、春先には一斉に新芽を吹き出して、外出のたびごとに新緑を増して行くのを確かめながら「これが緑陰をなす頃には夏休暇」と早くも休暇の希望に胸をふくらませたものである。

道路の左側山際には、鉄道線路が通っていたが、現在は撤去されて歩道になり、その分だけ道路の幅も広くなり中央分離帯なども設けられてすっかり近代的道路に変身している。

この辺まで来ると左側の山の斜面には昔通りの地方隊スキー場の跡が見てとれる。又小銃射撃競技で、駈足で往復した射撃場に通じる道も、赤い屋根の民家の近くを抜けてそれらしい山道が奥へと延びている。射場があったあたりは今どうなっているであろうか。

軍需部倉庫群が過ぎるとやがて右側に湾内の風景が開けて来る。練習船由良川丸、浮桟橋に続いて短艇ダビット、湾の奥には不動戦艦吾妻、そして対岸には工廠のスレート屋根の工場群や巨大クレーンが並び、ドックには折から建造中の新鋭駆逐艦の勇姿も望見されて、チカチカと眼を射る電気溶接の閃光、機関銃のように耳を打つエアハンマーの騒音、これに港内艇や作業船のドラの音などが交錯して、港内は戦時下の軍港らしい活気が満ち溢れていた。戦後民間の造船工場となった工廠のあたりも今は造船不況の故か静まりかえって、かつてのような活気が全く感じられないのは淋しい限りである。 由良川丸が係留されていたあたりから先は、現在海上自衛隊の基地となり、岸壁に護衛艦数隻が横付けされている。行儀よく並んだ灰色の艦橋や黒い煙突が道路側から見え、ここだけは軍港風景そのままであるが、構内にはあの見慣れた白い事業服は見えず、モダンな紺色のツナギ服に野球帽姿の自衛隊員が忙しそうに働いていた。

基地を仕切っている道路沿いのコンクリート塀には全面にサーフィン、セーリング、ダイビングといった若者好みのマリンスポーツや熱帯魚などがファンタスティックに美しく画かれており、通りがかりの者の眼を楽しませて呉れる。いかめしく灰色一色だった旧海軍では見られなかった風景である。

中舞鶴駅のあったあたりには、「中舞鶴駅跡」の小さな標識が立っており、わずかに往時ここに駅舎があったことを知らせているだけだが、ここには我々には忘れ得ぬ思い出がある。

昭和1512月1日入校の第53期生徒には、その年の冬季休暇は許可されなかった。それに代えて正月に学年監事引率の1泊2日の伊勢参宮旅行が計画実施され、途中父母等との面会も認められた。止宿先の神宮皇学館のみそぎ場での水垢離や広い板の間に薄い夜具1枚の就寝やら、兎に角寒かった思い出のみを残してこの旅行も無事終り、我々は中舞鶴駅に下車した。駅前で分隊毎に整列、人員点呼後、帰校のため行進を開始した。この時喜多見親父の蛮声一番「シャバのみやげを持っている者は全部溝へ捨てろ」の命令で、折角伊勢まで面会に来た両親が持たせて呉れた赤福餅の包みを、万感の思いと共に皆一斉に線路沿いの側溝へ投げ捨てた。

大きな溝には水が少なく、バシャバシャという餅包みが投げ込まれる音は今も鮮やかに耳に残っている。現在なら河川への異物不法投棄で問題になりそうだが、入校後一か月の四号であった我々にはそんなことより、これから先の機関学校の本格的な生徒生活の厳しさを思い知らされたようで、皆シュンとしてしまったものであった。忘れ得ない思い出を残す側溝は、その後 線路の撤去と共に、暗渠に改装されているので、よく見ないとわからないが、その上は拡幅された道路の一部となっている。

それにしても、昭和1512月1日入校以後、同18年9月15日卒業までの間、一体我々はこの海軍道路を何回往復したであろうか。

夏3回、冬2回の休暇期間を除く毎日曜日、祝祭日に演習や駈足競技等の年中行事を加えて概算すると、約140回ということになる。

生徒の外出時には当直監事や一号から「大いに浩然の気を養って来い」とのお達しが通例であったから、申訳程度に五条海岸あたりを散歩したり、たまには松尾寺位まで遠出したこともあるにはあるが、140回に及ぶ海軍道路の往復は今考えるとほとんど学校と成田クラブ間の直行、直帰であって、二号、一号と学年は進んでもその状況はあまり変わらなかったように思う。

往路はクラブでの自由気侭な一日を思って気持も自らはずんで足取りは一目散という感じであったが、帰りは夕食後の軍歌演習や月曜日から始まる寒稽古のことなど重い気分で帰校を急いだものであった。

さまざまな感慨に浸りながら歩くうち、早くも式場の総監部前まで来てしまった。

かつて若々しい海軍生徒の姿でこの海軍道路を閣歩した同期生も、今参々伍々この式場に集まって来る姿はいずれも白髪光頭の老体となり、改めて50年近い歳月の隔たりを感じる。

このたび思い出の記を書く段になり、記憶は断片的かつ不鮮明で、さて何を書こうかと迷ったが私にとって印象が強く、比較的記憶も鮮明な海軍道路に沿って拙文をまとめて見た次第である。

(機関記念誌218頁)

TOPへ     戦記目次