平成22年4月21日 校正すみ
最後の巡洋艦・矢矧
池田 武邦
日本海軍最後の巡洋艦「矢矧」のことについて、可能な限り正確な記録を留め、後世に残さなければならないと思いつつ、半世紀以上の年月が経ってしまった。
しかし、1990年オランダ・アムステルダムでの司馬遼太郎氏との思いがけない出会いが契機となって、氏の適切な助言を得、最高の著者池田清氏の手により「矢矧」は出版される運びとなった。
矢矧と私
1943年11月、私が「矢矧」艤装員として少尉候補生で着任して間もなく、「矢矧」は第10戦隊旗艦として艦隊に配備された。1944年6月、マリアナ沖海戦、10月レイテ沖海戦に参加、私は航海士として両海戦を戦闘配置である艦橋でつぶさに体験した。
その後、両海戦で多くの艦艇を失った海軍は、大胆な艦隊編成替えを余儀なくされ、「矢矧」は第2水雷戦隊旗艦に配備された。既に中尉になっていた私は、レイテ海戦後砲術関係の経験も積みたいという希望が受け入れられ、発令所長に任命された。戦闘配置は艦橋直下の艦底に近い、マンホールを何回も潜って到達する厳重に防御された方位盤室に変わった。今日で言えば、砲術関係のコンピュータールームである。この配置は直撃弾からは防御されているが、艦が万一沈没するような時、脱出することは殆ど不可能に近い。
しかし、翌1945年2月、人事異動によって第4分隊長兼測的長を拝命、戦闘配置は再び艦橋に戻った。測的長とはレーダー・探照灯等によって敵の動向を測的する責任者である。
4月6日、戦艦「大和」、第2水雷戦隊の駆逐艦8隻と共に沖縄海上特攻作戦に出撃した時も、翌7日1405、「矢矧」がその生涯を閉じるまで、私は戦隊司令官、参謀、艦長、航海長等、艦の首脳部等と共に終始艦橋にあった。
戦闘中、敵味方の動向の全貌が比較的良く把握でき、情報が最も集中する艦の頭脳ともいえる艦橋は一方で常に敵の標的とされる場所でもある。「矢矧」が参加したすべての海戦をこの艦橋で戦った士官は古田吉之少佐、航海長川添亮一少佐と私の三人だけであった。そのために、戦後「矢矧」の記録を纏める役を三人のうち最も若い私がやるように生存者の方達から期待され、私自身もその気になって、仕事の合間に入手できる関係資料を集めたり、生存者の手記を纏めたりなどの行動を起こした。しかし、それは、片手間に出来る作業ではなく、また精神的にも多くの親しい友の死を語ることは、私にとってあまりにも重いことであった。半世紀以上の年月が経ってしまったことはすべて私の責任である。
刊行の経緯
1990年秋、「街道を往く」の取材旅行のためにオランダを視察しておられた司馬遼太郎氏と偶然同じホテルでお会いした。ほぼ同年輩の2人は、その後ある会食の席で話題が戦時中の事となり、司馬氏は陸軍の戦車隊で、私は海軍で「矢矧」に乗り組んでいた事などが話され、文化論に発展したことがあった。
それから暫く経った或る日、新潮45の編集長が突然新宿の私のオフィスに訪ねてきた。用件は当時連載中の戦艦「大和」が来年春には終わるので、次に巡洋艦「矢矧」を連載したいので、私に執筆して欲しいという依頼であった。聞くとそれはすべて司馬遼太郎氏の推薦であった。大変有難い話ではあったが、私自身既に永年試みて果たし得なかった重みが身に沁みていたので、執筆の件はお断りした。
しかし編集長はその後も何回か来社され、直接筆をとらないでもよいから聞き書きとかゴーストライターのような方法もあると提案して下さった。私にとって「矢矧」の記録は、そのような方法ではとても満足できるものになるとは思えなかった。編集長は再度司馬氏に相談され、結論として司馬氏は池田清氏を推挙して下さったということである。
池田清氏は私より海兵1期後の73期で海軍時代、重巡「摩耶」に乗り組み「矢矧」と共にレイテ沖海戦に出撃、途上撃沈、救助されて乗艦した「武蔵」もシブアン海で撃沈された経験もされ、「重巡摩耶」の著者でもある。『第2次世界大戦は20世紀史と現代世界を理解する鍵である。』として、その歴史的事実を直視する歴史研究者池田清氏こそ「矢矧」の執筆者に最もふさわしい。私は編集長の提案を即座に了承し、私の手元の資料をすべて氏にお渡しし、安心して一切をお任せした。資料の中にはレイテ沖海戦で戦死したクラスメート故伊藤比良雄大尉のご遺族にその時の模様をお報せするために、その直後に認めた私の海戦記も含まれている。
かつて池田清氏の「摩耶」執筆の意義について、司馬遼太郎氏は次のように言われたという。『日本海軍は日本人の一つの文化遺産であり、「摩耶」を書くことによって貴方の日本海軍論、ひいては日本文化論を語るのは貴方の義務です。』と。
その後新潮45の連載記事「戦艦大和」は今日(1998年9月)なお続いており、「矢矧」は未だ掲載の機会を得ないまま編集長も交代された。「矢矧」生存者もご遺族も皆老齢化し、何時までも放置するわけにはゆかないと案じていた所、新人物往来社編集長が出版の労をとって下さることになった。
「矢矧」と共に戦い、運命を共にした多くの戦友の霊に対して、ようやく今、私の肩の荷を降ろした思いである。
極秘の生涯
『歴史の面白さは、表面に現れる絢爛たる場面よりも、その陰に隠された襞の部分を発掘するところにある。』と言った、優れた日本研究者、E・Hノーマンのいう襞こそ、「大和」に殉じた「矢矧」以下の駆逐艦達と著者・池田清氏はいう。確かに「矢矧」は日本海軍が産んだ「最後の新鋭巡洋艦」であるにも拘らず、一般日本国民には殆どその名を知られていない。正に陰に隠された存在といっても過言ではあるまい。
それには明確な理由がある。「矢矧」を含め、1941年開戦以降に進水した軍艦はすべて機密保持のために一般国民には全く極秘にされ、隠される運命にあったのである。
極秘にされた様子を語るエピソードがある。「矢矧」は戦争のさなか、1942年10月に進水、翌1943年12月29日竣工、引渡され、艦隊に配備された。従って平時と異なり機密保持上一般国民の目には一切触れないよう細心の配慮の下、関係者の間のみで極秘のうちに誕生している。
戦後暫くして、その進水式に立ち会ったという知人から当時お祝いに配られたという酒盃を分けて戴いた。その盃には「矢矧」という文字は一切記されていない代わり、矢と萩の花とがあしらわれた絵が画かれており、暗黙のうちに艦名を伝える配慮がなされていた。
「矢矧」が沖縄海上特攻作戦で波状攻撃してくる敵艦載機と死闘の末、乗組員446柱と共に海底深く沈み、その生涯を閉じて18分後、「大和」も弾火薬庫の爆発によって沈没、文字通り日本海軍の連合艦隊はここに全滅した。
この「矢矧」の最期もまた、誕生の時以上に残酷な程極秘にされた。
重油が厚く浮く冷たい4月の海面に漂うこと約5時間、私は「矢矧」の他の生存者と共に駆逐艦「冬月」に救助ざれた。「冬月」の航海長、クラスメートの中田隆保中尉は昼間の戦闘で両手首貫通銃創を負い、その時既にベッドに横たわっていた。私も直撃弾の爆風によって顔面に火傷を負っていたが、救助された他の生存者も殆ど負傷しており、無傷の者は極めて少なかった。無事救出された者達は、互いに傷ついた身を艦内の狭い通路に乗組員の邪魔にならないように片隅に横たえ、昼の激戦のことを話し合った。その友が翌朝目覚めて見ると隣で既に冷たい「むくろ」になっていた。佐世保港に帰投する間にこうして「冬月」艦上で息を引き取った者は上甲板左舷の狭い倉庫に積み重ねられた。
佐世保港沖に碇泊した後、それらの遺体は死後硬直した手足を無理やり折るようにして曲げられ釘樽に収容され陸揚げされた。機密保持のため物資輸送に擬せられたのである。
「矢矧」という名も祖国日本のために艦上で戦い戦死した「矢矧」乗組の英霊であるということも一切秘密にされたまま「矢矧」の一生は終わった。
若い生命
著者、池田清氏の73期及びそのコレスのクラスを含め、戦争中或いは開戦直前に卒業した他のクラスも、皆20歳から30歳代前半までの若さで、その過半数が戦死している。
海軍兵学校の卒業生の場合を例にとり、戦没者数の比率が5割を越えたクラスを表に示すと別表第1の通りである。
73期は50%を超えていないが参考に記載した。
又、73期の1年当たりの戦没率は72期に次いで高い。
これは海軍関係諸学校の卒業生に限らず、国家総動員法によって戦地に赴いた一般大学出身の士官も、下士官、兵も同様に夥しい数の若い生命を戦場に散らしている。海軍予備学生・生徒各科の戦没者数で公表されている表は別表第2のとおりである。
「矢矧」の場合も一般大学出身の士官は第3期・第4期予備学生出身及び第1期予備生徒出身計11名中戦死4柱、何れも20歳台前途有為の若者達である。
置き去りにされた死者
戦後、日本が平和を取り戻し、経済復興もようやく軌道に乗り始めた1960年代に入った或る日、小学校2年生になる息子が帰ってきた。たまたま、出張から帰り家にくつろいでいた私を見つけて、いきなり「お父さんは何故戦争になんか征ったの。」と詰問してきた。学校の先生から戦争は悪いことと教えられ、戦時中に軍人だった父親は悪いことに加担した人間という風に幼い子供心に植えつけられたようである。これは敗戦後の日本社会にある風潮の一側面を如実に語っている。
自らを育んだ祖国、日本という共同体の為に自らの生命を捧げる決意のもとに戦場で散った戦死者は、もはや何も語らない。彼らの死は一体何であったのか。戦後永く私の心にわだかまり続けている問いかけである。
戦後半世紀以上を経て、そのわだかまりの正体が少しつつ私には見えてきたように思える。それは又「矢矧」出版の意義とも深く関わっている。
著者、池田清氏は歴史研究者として次のように述べている。
「過去の歴史的事件や人物を論評する場合、論評する自分の立場を厳しく再批判する精神の緊張と抑制がなければ、過去は単なる勧善懲悪の田舎芝居でしかなくなろう。」と。
戦後、敗戦国日本の社会はGHQ(連合国最高司令官総司令部)による厳しい情報管理下におかれていた。新聞をはじめ、あらゆる出版物は占領下で検閲を受け、その許可がなければ出版は許されなかった。学校教育も例外ではなかった。小学校の教科書はGHQの意向を汲んだ文部省の指示によって不都合な箇所はすべて墨で消されて使用された。
日本から民主主義をおびやかす危険なナショナリズムや軍国主義思想を一掃するために、それ等を助長することに利用されたと思われる日本の伝統的しきたりや文化的思想の多くが彼らの一方的判断で、公の行事から追放され抹殺の対象にされた。
国家総動員法という法律のもと、総力戦で戦った戦争の歴史的事実、実体というものを直視するという、内面的苦悩を伴う作業を経ずして、日本国民は戦後、国として驚く程の従順さをもってGHQのこれら民主主義、自由平等をうたった占領政策を受け入れたのである。
その後、1952年9月8日、サンフランシスコに於いて、日本を含む52カ国が出席して対日講和条約の調印が行われ、日本は占領政策から開放され、国際社会への復帰を果たした。しかし、その時点でも、大部分の日本国民はその日の生活に追われ、新しい国づくりのために過去の歴史を直視するということはなおざりにしたまま、明日の経済を追い求めることに走ってしまった。国も、文化人もジャーナリストも一部の例外を除いて苦悩の伴う重要な作業は避けて通ってしまった。
日本国という共同体は、その共同体のために犠牲となって死んだ人々に対して、心から向き合い、深く弔うという、過去の歴史ではあらゆる民族がごく自然に行ってきた人としての作法を、ないがしろにしたまま今日に到った。そして、このような死を弔う心を失った共同体は同時に、この戦争によって中国をはじめ、アジア各国に対し途方もない戦禍を及ぼし、その人々の心を傷つけてきたという事実を直視することを避け、自らの経済的繁栄をのみ求めていると見られても止むを得ない今日の姿を生み出している。
戦後、私が抱き続けてきた心のわだかまりの根も、この日本という共同体の敗戦後の姿にある。総力戦の末、力尽きて敗戦という、かつて何千年の間経験したことのない歴史的事実に直面し、極度の混乱の中で一時的に本来の姿を見失うことがあったとしても、それは止むを得ないかもしれない。しかし、それから半世紀以上、ずっと平和を享受し、経済も波はあったにせよ、戦争時代とは比較にならない程今日の社会は安定している。それにも拘わらず、自らの帰属する共同体がどのように、何故に総力を挙げて戦い、そして敗れたのかという歴史的事実を直視する苦悩を今なお避け続け、あたかも他人事の如く死者を置き去りにしたままである。
このような状態が続く限り、来るべき新しい世紀に対して、自らの文化に誇りをもった道を創造することも、又国際社会で真の信頼を得ることも不可能であろう。
日本の文化を想い、それと深く関わるアジアの文化を大切にした司馬遼太郎氏が、敢えて今日「矢矧」のことを書くように薦めて下さった真意も、そこにあったのではないかと私は考えている。
本書は陸・海・空を問わず、「矢矧」と時を同じくして戦い、その生命を戦場に散じた総ての英霊を心から弔う鎮魂の書である。
著者・池田清氏に深甚なる謝意を表すると共に、故・司馬遼太郎氏に心から感謝の意を捧げる。 合掌
73 | 計 | 72 | 71 | 70 | 69 | 68 | 67 | 66 | 65 | 64 | 63 | 62 | 61 | 期 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
898 | 3450 | 625 | 581 | 433 | 343 | 288 | 248 | 220 | 187 | 160 | 124 | 125 | 116 | 卒業生数 |
283 | 2021 | 335 | 329 | 287 | 223 | 191 | 155 | 119 | 106 | 81 | 70 | 66 | 60 | 戦没者数 |
31.5 | 58.6 | 53.6 | 56.6 | 66.3 | 64.7 | 66.3 | 62.5 | 54.1 | 56.7 | 50.6 | 56.5 | 52.8 | 51.7 | 戦没者比率 |
別表第二 予備学生(生徒)戦没者比率
計 | 主計11期見習尉官 | 兵1期予備生徒 | 兵4期予備学生 | 飛行1期予備生徒 | 飛行14期予備学生 | 区分 |
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10527 | 559 | 1029 | 3408 | 2208 | 3323 | 卒行数 |
990 | 55 | 89 | 270 | 165 | 411 | 戦没者数 |
9.4 | 9.8 | 8.6 | 7.9 | 7.4 | 12.3 | 戦没者比率 |
(なにわ会ニュース80号10頁 平成11年3月掲載)