平成22年4月23日 校正すみ
私の交友抄
濱田 秋朗
62年6月を以って38年10カ月の間お世話になった山陰合同銀行を退職した私は、この7月から米子国際ホテルに勤めている。
過日、ある人から「いよいよ第2の人生ですね。調子は如何ですか」と話しかけられた。確かに一般的には、これは第2の人生ということになるのであろうが、私にとっては合銀時代の前に、もう1つの人生が生々しく存在した。
それは、戦中の海軍に在籍した5年余りである。決して長い期間ではないが、今もって強烈な思いが残り、しかも、この間の休験が戦後40余年にわたって、私の考え方や生き方にさまざまな影を落としているように思われる。それだけに、期間は短いにしても、私にとっては、それが第1の人生であり、銀行が2番目の人生、そして今は第3の人生に足を踏み入れたばかりという思いである。
先日、朝日新聞から「私の交遊抄」に投稿するように、とのお話があった時、私は当惑した。
第2の人生、すなわち銀行生活を通じての多くの先輩、同輩や取引関係を通じて、ご交誼(こうぎ)を頂いた方々に関して、今の時点で取り上げるのは適当でないように思われるからである。そこで、第1の人生、すなわち海軍時代までを中心に、私の辿って来た道と、その間の交遊関係の一部を記して責を果たすこととしたい。
私は大正11年、島根県大東町(当時阿用村)で生まれた。東阿用尋常高等小学校から、県立三刀屋中学校(現三刀屋高校)に進み、毎日自転車で約1時間の道を通学した。当時阿用村から三刀屋に通学していたのは、同級生の荒木芳次、景山昌明(現藤原)君と私の3人だけであった。もちろん舗装道はなく、砂利道の1時間はかなりの重労働であった。
小学校の恩師で、今なお元気なのは岡田正造先生(横田町)。毎年いただく年賀状には、いつも新春の句が達筆で書かれ、ご健在を知る次第である。
中学の寒稽古は、早朝暗いうちから全員参加で行われ、遠距離通学の者は、その期間だけ学校の近くに下宿した。私は剣道部に所属し、三刀屋町内の親戚に泊めてもらっていたが、その親戚に、私が養子に入ることが親たちの間で決まり、2年の3学期ごろから三刀屋に住むようになった。(このため、私は昭和24年に濱田姓に復するまで星野姓であった)
三刀屋中学で、ご教導いただいた恩師で今なお当地でお元気な方は山本龍一(多岐村)、星野章蔵(旧姓市原、
私が海軍兵学校に入校したのは、昭和15年12月1日であった。太平洋戦争開戦の1年前で、日本を取り巻く国際緊張は、その極に達しつつあった時期である。三刀屋中学校の当時の校長、間崎勝義先生(故人)の強いお勤めで、4年生の夏休みに松江中学で行われた入校試験を受けた結果、たまたま合格した。これで私が秘かに考えていた進路とは異なる道を歩むことになった。
強いきずな
かくして海軍に身を置くことになったが、その間にご指導をいただいた方、親しくしていただいた方々を中心に、私のたどった経過を追いながら記してみたい。
前述の通り、日本が米英などと戦端を開いたのは、兵学校入校の1年後の昭和16年12月8日。2学年に進んで、毎日の勉学、訓練がようやく本格的になった時期であった。
開戦の日、兵学校長の草鹿任一中将が全校生徒に訓示された。その趣旨は次の通りである。
「諸子は、もとより武人として若き血潮が沸きたつのを覚えるであろう。校長もそうである。しかし、あくまでも落ち着いて課業に精進せよ。頭が空(から)ではいかに気張っても戦に勝てぬ。また一方、いかなる事態が起こっても冷静に対処できる気構えを失うな。この際、不必要な緊張と共に油断を戒める」。静かに諭すような話しぶりは、今も眼前に浮かぶようである。
その後の戦況の推移は、いちいち述べないが、主な出来事を挙げれば、開戦4カ月後の昭和17年4月に米軍機による東京初空襲があり、同6月にはミッドウェイ海戦で日本が大敗を喫して、トラの子の空母4隻を失い、開戦半年余にして、この大戦は大きな転機を迎えた。しかし、勉学中の我々には詳しい状況を知らされず、ひたすら厳しい訓育に明け暮れていた。
兵学校の訓育の基本組織は分隊編成である。分隊は最上級生徒(一号)から最下級生徒(四号、ときに三号)に至るまでの人員を平均して構成された40人ほどの自治単位であり、自習室、寝室を共にしながら、各分隊の一号生徒の伍長(ごちょう=最先任者)を中心に分隊員の日常勉学、生活を誘導する。さらに分隊は分隊監事と呼ばれる教官に指導された。
私ども第72期650人が一学年の時は69期(一号生徒)、70期、71期の指導を受けた。一号生徒のしっけ教育は猛烈を極め、歌の文句に「生徒館に鬼が住む」とうたわれたその通りであった。しかも69期は私達入校の3カ月後に卒業し、70期が一号となり、引き続き最下級の72期は改めて鍛え直された。
戦後暫くたってから「分隊会」が全国的にもたれ、昔を懐かしみ、将来を語り合うようになった。何時までも強い絆(きずな)で結ばれ、お互いに心から信頼し、助け合っているのは、このような仕組みの中で切磋琢磨の賜物であろう。
私が4号の時の第48分隊では、生き残りが一号2人、二号1人、三号4人、私のクラスが5人と、大半の戦死で寂しくなったが、伍長の岩下邦雄氏は東京で貿易商社を経営され、すこぶるお元気である。去年、北海道の水産加工会社が境港に工場を新設した際、相談役として数回当地に来訪され、久しぶりに会うことが出来た。真面目で怖い一号だったが、今は物腰の柔らかい紳士である。
また、この分隊の分隊監事・新田善三郎氏(65期、故人)は軍令部参謀で終戦を迎えられ、その後、東京の第1ホテルに入り、後に専務として活躍され、日本の戦後のホテル経営の陰の指導者と言われた。私はこの度図らずもホテル経営に関係することになったが、ご存命のうちにお目にかっておけばよかったと、悔やんでいる次第である。新田さんは惜しくも6年前に他界された。今は著書で勉強するしかない。
漂流13日
在校中の兵学校長、入校時が新見政一中将。今年、満100歳を迎えられ、なお、お元気の様子である。後任の草鹿任一校長(故人)は、ざっくばらんな武人で孤立無援のラバウルの最高指揮官としての、ご苦労は有名である。井上成美校長には卒業までの約11カ月間、ご指導いただいた。「最後の海軍大将」などの刊行物、最近では阿川弘之の「井上成美」などで、よく知られていると思うが、海軍きっての知性と言われ、米内光政、山本五十六提督らと共に日米開戦に反対し、兵学校長から海軍次官に転ずるや、米内海相のもとで、終戦工作に献身された方である。折に触れて校長訓示と称する講話があったが、戦争の話には触れず、数学、英語などの普通学をしっかり勉強せよと、繰り返し説かれた。どちらかと言えば、異例のタイプの提督であった。
72期生の卒業式は昭和18年9月15日。繰り上げの卒業で、実質2年9カ月半の在学であった。ヨーロッパでは三国同盟の一角であるイタリアが無条件降伏した直後であり、太平洋の戦場も敗色濃い状況の中に、少尉候補生として巣立ったわけである。しかし、皆われこそはお役に立たんと、意気盛んに表桟橋(正門)から軍艦に乗り組んだ。
卒業時の人数は625人で、半数は飛行機、半数は艦船へと分かれて、それぞれ実地訓練に向かった。私は艦船組で戦艦「山城」に乗り組み、トラック島往復の作戦に従事しながら、2カ月間の実習を終えた後、巡洋艦「球磨」乗り組みを命ぜられ、当時シンガポールに入港中の同艦に、同期数人と共に着任、張り切ってそれぞれのポストについた。私は航海士である。
当時、マレー、ジャワ方面はまだ比較的平穏な地域であったが、19年1月、「球磨」はマレー半島西側のペナン島沖で演習中に、英潜水艦の魚雷攻撃を受けて数分で沈没した。
艦橋で勤務中の私は何することもなく、海にはうり出された。機関科の同期生石井勝信(群馬)は、機械室で戦死した。卒業後4カ月目のことである。昭和19年3月、内地に帰ると、今度は巡洋艦「名取」の航海士を命ぜられた。舞鶴で乗艦して、再び南方へ進出である。7月にサイパン玉砕、米軍は次いでパラオ経由フィリピンへ来攻するであろうとの想定で「名取」は、僚艦と共にマニラからパラオへ武器、弾薬のピストン輸送を行った。
4回目の往路比島とパラオの中間地点で8月18日夜半、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
激しい時化(しけ)の中で4時間余りの必死の防水作業もかなわず、朝7時過ぎ、ついに沈没した。艦長久保田智大佐は礼装に着替えたのち総員退去を命じ、艦橋に残った小林英一航海長、松永市郎通信長と私に戦訓の報告を命じたあと「どんなことをしても生きて帰り、仇を討ってくれ」と言って艦内に入り、自決された。仕事には厳しいが、日頃とても優しい好々爺に見えた。長男の勇氏(71期)が、同じく戦場にあったこともあってか、同年配の私などに特に心をかけて頂いたように思う。
このあと生存者は浮いたカッター(ボート)3隻に分乗して、13日目に比島ミンダナオ島北端スリガオに漂着した。無事で帰れる見通しは極めて難しい状況であったが、このような時にこそ若い者が元気を出さねばと懸命に頑張った。この時の模様を本にしたのが松永氏の「先任将校」(3年前出版)で、漂流中、先任将校の小林航海長(65期)が指揮官として厳しい状況の中で、いかに適切に対処されたかを、次席将校の松永通信長(68期)がつづられた貴重な記録である。
同期生散る
昭和19年9月、内地に帰還。今度は駆逐艦「榧」の航海長を命ぜられた。舞鶴で儀装の完了を待って、瀬戸内に移動、所要の訓練を終えるや新鋭「榧」は南へ方に進出した。私にとっては3度目の南方戦線である。
マニラに入港したのは、レイテ島がほとんど絶望的になった12月上旬であった。レイテ支援作戦が繰り返し行なわれていたが、もう無理ということで「榧」の参戦は出港の朝になって取りやめとなった。仏印に移動して命を待つうち、米軍が比島2番目の上陸地ミンドロ島へ大量の兵力、物資を揚陸し始めた。
そこで、この地点に殴り込み作戦が発令され、巡洋艦「足柄」「大淀」と駆逐艦2隊で、夜間攻撃を掛けることになった。
「榧」は3隻で編成する2番隊の1番艦として、艦長岩渕悟郎少佐(61期)の指揮で、編隊右翼の先頭を突き進んだ。米軍の飛行機と魚雷艇の激しい抵抗に、しばしば隊列が乱れそうになるのを立て直しつつ、司令官木村昌福少将の指揮のもと、敵上陸地点深く進入し、魚雷、大砲を打ち込んだ。
この戦闘で旗艦となって最先頭を進んだ駆逐艦「霞」の航海長は、鳥取出身の伊吹寿雄氏(71期)であった。私と同期の伊吹明夫(後述)の兄君であるが、惜しくも3年前に他界された。
一晩の戦闘で相手に相当の損害を与えたが、わが方は駆逐艦「清霜」が沈没した。木村司令官の自らの危険を顧みない果敢な活動で大半が救助されたが、その中に同期の巻 石蔵がいる。今は青森県八戸市の4期日の助役である。
わが「榧」も繰り返し受けた銃爆撃により、第1缶室が火災を起こし、スピードが20ノットしか出なくなったほか、後部マストは敵機の衝突で倒壊、無線アンテナ全損、艦体200カ所に穴が開くなどの損害を受け、死傷者も30人に及んだ。過去2回の沈没で、多少の経験を積んだつもりの私であったが、こんな激しく忙しい戦闘は初めてであった。
艦橋で艦長の横に立ち、補佐役をしながら操艦などの指揮を執るのであるが、夢中で何をしたのか覚えていない。ただ、艦長の堂々とした指揮ぶりだけはよく記憶している。ベテランの駆逐艦乗り、誠に豪快な方、今もお元気である。
翌朝、戦場を離脱して一息ついた時、後ろで操舵をしていた古参の操舵長から「航海長は初陣にしては落ち着いて頼もしく見えました」と、妙なほめ方をされて冷や汗をかいたものであった。
サイゴンと高雄で応急修理を行なった後、昭和20年初め、やっと舞鶴に帰港した。3カ月余ぶり、傷だらけの母港入港であった。直ちに突貫修理をして出港、瀬戸内海で戦艦「大和」を中心とした艦隊に合流。「大和」を護衛して、しつこい空襲と戦いながら、次の作戦に備えていた。
開戦以来3年余りで多くの艦船を失い、残った唯一の精鋭部隊である。やがて4月に入って「大和」「矢矧」と、駆逐艦8隻が水上特攻として沖縄に進出することになった。
私どもの隊は別の任務のため、内地に残ることとなり、4月6日、豊後水道まで特攻部隊を見送った。残念なことに翌7日、鹿児島南西海域で米航空隊の猛攻を受け、「大和」をはじめ大半が沈没し、または大損害を受けた
これは周知のことである。「大和」で司令長官伊藤整一中将、艦長有賀幸作少将ほかの方が運命を共にされた。伊藤長官の長男で、私と同期の伊藤 叡は戦闘機乗りで温厚な男であったが、父君の壮烈な戦死の20日後、沖縄で激戦の末に戦死し、後を追った。
この後、「榧」ほか3隻の駆逐艦は広島県呉市で人間魚雷搭載のために改装し、瀬戸内海で訓練を続けるうちに、終戦を迎えた。
ネービー会
このような経過の中で、卒業時に625人であった同期生の半数以上325人が戦死し、生存者は290人となった。戦死者のうち特攻戦死者は53人、その内訳は飛行機39人、人間魚雷回天11人、水上特攻3人である。同期生(クラスと呼んでいる)は単に同じ釜の飯を食い、机を並べて勉強したというだけでなく、厳しい躾教育の中で、苦労を分かち合ってきた仲間で「俺、貴様」で心の通う間柄である。特に戦死したクラスは皆素晴らしい快男子ばかりであった。
しかし、運命のなせるわざで、生き残った者は敗戦と決まった時、いかにすべきか迷った。終戦後、暫くしてクラス会が新しくスタートし、戦死したクラスの分も新しい日本の為頑張ろうと誓い合い、今日に至っている。
さて、山陰地方に関係あるクラスをあげると、まず、戦死者では
鳥取二中の上原庸佑(河原町)がサイパンで、
木原 建(智頭町)が台湾上空の空戦で、
鳥取市賀露出身(湘南中)の猪口智は、父君で戦艦「武蔵」の艦長猪口敏平少将が、レイテ海戦で艦と運命を共にされた10日後に、同じく比島の空戦で戦死している。
また、浜田中学の都野隆司(江津市)が空母「瑞鶴」で、レイテ海戦で戦死、
松江中学の山根 光(松江市)は激しい空戦訓練中に死亡した。
生存者は鳥取一中の伊中四郎(空自から石川島播磨顧問)、
山根眞樹生(新日鉄副社長)、
伊吹明夫(伊吹商店)、
倉吉中学の矢田次夫(海自から三菱重工顧問)、
田中歳春(帝人)で、
矢田は自衛隊では最高位の統合幕僚会議議長として立派な業績を残した。
米子中学は足立之義(海自から高千穂大学)で健在である。
このほか戦後の死没者は鳥取の清水憲太郎と森本達郎の二人。
各クラスとも毎年クラス会を様々な形で開催しているが、縦の関係も非常に緊密である。
当地方でも鳥取ネービー会、鳥根合同クラス会(三水会)がある。
鳥取では浜本義郎氏(65期)を代表幹事とする鳥取ネービー会が約80人の会員をもって昨春発足した。常任監事役の同期伊吹明夫と、75期小田切忠夫氏(元鳥取県水産試験場長、現野村証券)には献身的なお世話をいただいている。また、海機、海経を含めお世話になっている方は、67期の中村克己(鳥取・元海自)、74期宇山昭尚(耳鼻科医)、大原晃(元
島根合同クラス会の一部をあげると、74期奥野昌平(島根中央信金理事長)、75期宮崎 勉(元島根県出納長)、76期の熊谷国彦(青木建設所長)、77期の野津弘直(松江相互銀行)、78期の岩成 卓(建設設計)、仁宮芳生(カナツ技建)の諸氏。何かとお世話になっている。
以上、交遊抄というより、戦争記録のようになってしまい忸怩たる思いである。しかし、地球上から戦争がなくなることを、切に願って筆をおくことにしたい。
(62年11月 朝日新聞山陰版掲載)
(なにわ会ニュース58号17頁 昭和63年3月掲載)