平成22年4月17日 校正すみ
初陣から60年(平成16年末の記)
阿久根 正
八十路の坂はきついが、人生の残務整理を念頭に、2人で余生を頑張っています。
今年は、先の大戦の初陣から60年目に当たり感慨深いものがある。
特に、初陣を共にした、内山敬三郎君がバリックパパン基地上空の邀撃戦の第2回目に散華するという初陣間近の痛恨事に、早くもクラスメイトを亡くして、頭の中が真白になった事実を胸中にしながら、かねて内山君のご遺族にご報告をと念じつつも、機会を得ずに馬齢を重ねてきたが、図らずも、クラスの堀君のご縁により6月下旬の吉日に、ご令兄の内山正熊氏ご家族と一堂に会する機会を得ることとなり、関係者がご健在なうちに果し得た喜びと安堵感は有難く、何物にも代え難いものがあった。
このことは早速バリックパパンの邀撃戦を共にした村瀬君に連絡して喜んで貰った次第。村瀬君は数年前に國神社で内山正熊氏にお会いしており、出来たら一緒にと思ったが、当日は都合がつかず残念がっていた。
そもそも内山君の最期は、昭和19年10月3日であり、9月30日を初回として前後5回に及ぶ、重爆撃機B-24によるバリックパパン空襲の第2回目の邀撃戦であった。
この頃、南西方面の戦況の推移は、主戦場の比島方面において米側の攻勢は日毎に強まり、9月21日はハルゼー中将指揮の第3機動部隊の艦上機群によるマニラ地区とクラーク基地への攻撃は連続4次に及び、延べ400機の銃爆撃で日本側は保有の飛行機の6割を、またガソリンドラム缶4,000本を失い、マニラ港の軍需物資はその7割を焼失し港内の多数の艦船も爆沈されている。翌22日もマニラとルソン島の各航空基地に対する米艦上機群の猛烈な銃爆撃は続き、この2日間のマニラの大空襲で日本側は大損害を被り、その主戦場での戦いは殆ど終わりを告げている。
ところで、先にペナンから9月17日にバリックパパン基地に着陸した331空の零戦30機は田中章隊長指揮の下に現地381空の飛行長黒澤丈夫少佐(海兵63期)の指揮下に入った。
ここで当時の各隊の任務、編成について概要を述べておく。
381空はバリックの油田、製油所の防空を任務として、バリック基地に零戦40機、雷電9機及び夜間戦闘機「月光」9機を、セレベス島ケンダリー基地に零戦32機を保有する大航空部隊であった。
主要部隊の編成は次のとおりである。
●はこの戦闘における戦死者
381空、331空の総指揮官 | 飛行長 | 黒澤 丈夫少佐 | 海兵63期 | |
---|---|---|---|---|
381空 | 戦闘602飛行隊(零戦、雷電) | 飛行隊長 | 尾崎 貞雄大尉 ● | 予学7期 |
同(後任) | 林 啓次郎大尉 | 海兵70期 | ||
分隊長 | 服部敬七郎中尉 | 海機52期 | ||
同 | 永仮 良行中尉 | 海兵71期 | ||
同 | 木下 一周中尉 | 予学10期 | ||
分隊士 | 内山敬三郎中尉 ● | 海兵72期 | ||
同 | 戸塚 弘中尉 | 同 | ||
同 | 上嶋 逞志中尉 | 同 | ||
戦903飛行隊(夜戦「月光」 | 飛行隊長 | 村松日出夫大尉 | 海兵69期 | |
分隊長 | 脇 国太郎大尉 | 偵練 | ||
分隊長 | 酒井 道夫中尉 | 予学12期 | ||
331空 | 戦闘309飛行隊(零戦) | 飛行隊長 | 田中 章大尉 ● | 予学8期 |
同(後任) | 長谷川喜助大尉 | 海兵70期 | ||
分隊長 | 太田黒義男中尉 | 海兵71期 | ||
同 | 岡本 春蔵中尉 | 同 | ||
分隊士 | 村瀬 信義中尉 | 海兵72期 | ||
同 | 阿久根 正中尉 | 同 | ||
同 | 内藤 千春少尉 | 操練25期 |
以下、『邀撃戦』の概要を述べて内山敬三郎兄への供養の一端と致したい。
昭和19年9月30日(初回)
午前8時頃、基地に警戒警報が発令され、「搭乗員整列」が下令された。指揮所前に整列した381空と331空の全搭乗員に対し、黒澤飛行長から敵情の概要説明があり、「東方のセレベス島上空から爆撃機の大編隊が当方に向かっているから可動の全機をもってこれを邀撃せよ」と下令された。
バリックパパンへの来襲についてはマカッサル海峡を隔てた東方千キロのメナド分遣隊、同じく南西700キロのケンダリー基地からそれぞれの敵来襲の事情を無線で適時に通報があるので基地では余裕を持って邀撃に対応出来た。
戦闘機隊は次々に発進して高度約4,000メートル、東方約150キロ付近で迎え撃つことになる。集団は約70機、米陸軍航空部隊のコンソリデーテッドB‐24重爆撃機の大編隊である。B‐24の要目諸元は1,200馬力のエンジン4基、全幅33.5米、全長20.5米、総重量29・5トン、最高時速467キロ、航続距離5,960キロ、機銃12.7ミリ10挺、爆弾4トン、乗員10人の重爆撃機である。
零戦は対大型機の戦法として、時と場合によるが、上方に十分な高度差をとり、反航して近接、斜め下方に見ながら反転して背面で急降下し、機銃を先頭から流し撃ちしながら後尾を垂直にすり抜ける。所謂「後直上方攻撃」の反覆である。次々に連続して攻撃をかける戦法は理に叶い、戦果を高めていたと思う。
突込む方から見ると、編隊が大きくなるほどに一機あたり10挺の機銃は数百挺になり、下から反撃する弾幕は千畳敷の花火の中に突込むに似て猛烈であり、我が翼や胴体に弾痕を被ることも度々であった。この反覆攻撃の結果、損傷に堪りかねたかB‐24の編隊はボルネオ島を目前に迫りながらバリックの製油所爆撃を断念すると、搭載の爆弾を海中に投棄して東方ニューギニア方面へ旋回して帰っていった。
当日の戦果はB‐24を7機撃墜、7機撃破と報告されているが、バリック邀撃戦の最初の被害として雷電1機が未帰還となり、381空の石井栄二飛曹が戦死している。
10月3日(第2回目)
初回から2日後の10月3日朝8時頃、基地に警報が発令され、「搭乗員整列」が下令された。例によってセレベス島の対空見張り所から通報を受け、黒澤飛行長の下命により、381空と331空の零戦約60機をもってB‐24の編隊を邀撃することとなる。零戦の編隊は高度4,000米、ボルネオ大陸を背に東方へ進み約160キロの海上で水平線上の彼方に豆粒ほどのB-24群を視認する。双方は全速力で反航しているので瞬く間に接近し、巨大なB-24は、今や眼下に迫り機数は39機が数えられた。零戦隊は編隊を解いて、次々にB‐24の編隊に対して第一撃をかけることになるが、当日は衝撃的な2件が相次いで発生した。
その一件は「3番3号爆弾」の威力である。3号爆弾は当時海軍の「軍極秘」とされる新開発の秘密兵器であった。敵編隊の真上で空中爆発させ、その弾幕をもって編隊を包み込もうとするものである。零戦から投下された3号爆弾はB‐24編隊の真上で空中爆発し、無数の焼夷散弾は先頭の5、6機を大きく包み込んで、間もなく一斉に激しく火を吹き出した。それからだが、地上指揮所からの観察によると、鮮烈な黄色の炎を吹き出しながら暫くは編隊を組んだままボルネオ大陸に向かって飛んでいる。目指すはバリックの製油所である。ところが、遂に燃え尽きるまで変針せず火の回りが早く猛火の中から脱出が不可能となったのか、落下傘降下も認められない。
最後は薄煙を残しながら次々に海中に落下していった。最後まで突き進んでいく先頭集団(特に1番機)の「我に続け」といわんばかりの操縦ぶりは、これぞアメリカ魂かと感動させるものがあったという。
B‐24の編隊は先頭の6機が墜落して、ポッカリと空間が広がった。零戦隊は、更に次々と攻撃を加えるので、遂に爆撃を断念したか、後続の約30機はバリックの製油所を指呼の間にしながら搭載の130トンもの爆弾を次々に海中投棄すると、大きく旋回してニューギニアの方へ向かって全速で飛び去っていった。初回に続いて製油所の爆撃は未遂に終わらせることができた。
当日の戦果はB‐24を7機撃墜、4機撃破と報告され、我が方の被害は未帰還が零戦2機であり、私が衝撃を受けた2件目はこの事であった。戦死者の2名は381空の内山敬三郎中尉(海兵72期)と331空の滝内飛長(丙飛15期)であったのである。邀撃戦から引き揚げて基地に戻り、飛行長に帰還を報告すると、「内山中尉が戦死した。」と知らされた。唖然として頭の中は真っ白というか・・・3号爆弾によりB‐24が次々に火を吹いて落ちるうちに、零戦一機が編隊のB‐24に突っかけ、米機を道連れに落ちたということであった。猪突するような男ではないと思いながら、追突を決意するに至った所以は何であったかは知る由もない。ふと、佐世保の水交社で聞かせて貰った内山君の弾奏するピアノのマーチ曲を思い出していた。
バリックパパン基地においては、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将からの感謝状が授与された。2回にわたり来襲してきたBー24爆撃隊に対し、381空と331空が協同してこれを邀撃し、勇戦して撃退し、戦果を上げたことを賞するものであり、感謝状は飛行場の指揮所前に整列した全搭乗員に対し飛行長の黒澤少佐から代読された。
2回にわたりB-24爆撃隊を撃退しバリック製油所を爆破から守り抜いたという自信から搭乗員達の士気は盛んであった。
10月10日(第3回目)
東方からの敵編隊の来襲情報を受けて、零戦と雷電計45機が離陸したのは午前8時頃であり、東方マカッサル海峡に向けて上昇していった。
高度4,000米で東進すると、地平線上に浮び上がったのは左右にびっしりと並んだ豆粒のようで夥しい数のB-24である。反航するB-24の集団は100機を超える大編隊であった。
米軍としては、今度こそバリック製油所を爆撃し、石油精製施設と林立する原油タンクを破壊せんとする意気込みが見てとれた。
米軍は第5航空群と第13航空群のB-24 約100機を、ピアク島とヌンフォール島から発進させてバリックに向かわせていた。更に、後で判明して我が方が苦戦を強いられることになったのは、先に日本軍から奪回したモロタイ島基地から発進した米陸軍のロッキードP-38の30機と、リパブリックサンダーボルトP-47の10機の計40機を護衛戦闘機としてB-24の爆撃隊に随伴させたことである。
さきの初回と2回目はいずれもB-24爆撃機のみの編隊であったので、ボルネオ島の海岸線に達する前に我が戦闘機隊に邀撃され、14機ものB-24がマカッサル海峡に撃墜されて、バリックの製油所の爆撃を断念しており、今度こそはと戦闘機を引き連れて大編隊でやってきたのである。
これに対する総勢45機の我が戦闘機隊は前例どおりの邀撃体制に占位してB-24大編隊に攻撃をかけようとしていたが、その時まで米軍の戦闘機隊の随伴を察知出来ていなかったのである。
「相手を攻撃する前に特に後上方の見張りを厳にせよ」との鉄則をなぜ疎かにしたのか、ということでもある。
前例に慣れてというか、有り得べき戦闘機の随伴を軽視したことは迂闊であったとしかいいようがない。邀撃を逆に待ち受けられる体勢になり、零戦隊は後上方から降ってきたP-38とP-47の米戦闘機隊に先手で銃撃されることとなり、我が編隊の一番機を初め数機が撃墜され、かなりの被弾があった。
それでも我が邀撃の主目的は製油所の爆撃阻止にあるので、我が戦闘機隊は米戦闘機隊の妨害を排除しながらB-24に対する邀撃を繰り返し敢行したが衆寡敵せず、製油所は遂に爆撃されることとなり、黒煙は空高く上がった。製油所の爆撃を許したことは残念であるが、当日の邀撃戦の趨勢は止むを得ないものがあったと思う。
当日の戦果は撃墜を含め59機撃破と報告されたが、我が方の戦死者も9名を数えた。
381空 隊長 尾崎 貞雄大尉(予学7期)
他 4名
331空 戦闘309飛行隊
隊長 田中 章大尉(予学8期)
他 3名
合計 9名
10月13日(第4回目)
定期便は中2日おいて、また大挙して来襲している。午前8時頃の警報発令に伴い、零戦と雷電の計40機が迎撃に発進している。
マカッサル海峡を東方へ高度4,000米、160キロあたりで遭遇したB-24群は100機を超えて数えきれない。米軍の物量の大きさに驚くばかりである。
前回の米戦闘機の不意討ちを戦訓として見張りを厳にし、高度を5,000米に上昇する。
護衛戦闘機のP-38とP-47各30機、計60機と我が方40機はマカッサル海峡の上空で壮烈な同位空戦に入った。
双方は入り乱れて撃ち合い、勝負は短時間でついた。かなりの損傷を受けた米戦闘機隊は急降下して東方へ去っていった。然しながらB-24の編隊は、その間にバリックの製油所を爆撃している。
我が戦闘機隊は爆撃を終えて引き揚げるB-24を追って次々と直上方攻撃をかけ、かなりの損害を加えたが、爆撃された製油所の重油タンクは、燃焼する黒煙が3,000メートルの高度に達し数日間燃え続けた。
この日の戦果は撃墜を含めて、B-24が21機、P-38が20機およびP-47が15機の計56機を迎撃、撃破と報告されている。一方我が方の戦死者は331空、戦闘309飛行隊の西村 洋(一飛曹)他2名で計3名を数えた。
10月14日(第5回目)
この日も午前中にB-24の100機以上と護衛戦闘機50機以上の来襲があったが、記録が定かでないので日本側の戦死者のみを記しておく。
381空 戦闘602飛行隊
大山 国雄一飛曹(乙飛15期)
澤原 博士二飛曹(丙飛10期)
331空 戦闘309飛行隊
笹本 常雄飛長(特乙飛1期)
長野 道夫飛長(特乙飛1期)
米軍のバリックパパン製油所に対する空襲(爆)は以上の5回をもって終わっている。米軍は相当の犠牲を払いながら一応の目的を達成してこの後、大規模の編隊爆撃は行われていない。
この後、10月19日には「捷一号作戦」が発動(前日18日)されて、381空と331空の各隊は残存の零戦24機をもって、黒澤少佐が総指揮官として比島に転出することとなる。
追記 10月3日に散華した内山中尉は、数日後に基地に接する椰子林の空き地で丁重に荼毘に付された。クラスの村瀬と阿久根は共に列立して弔い、丁重に最後の別れを告げた。
この度のご遺族との会合に当たっては、内山正熊様ご夫妻初めクラスの堀君の他、水野行夫夫人母娘の皆様に重ねてお世話になり、これでやっと戦争が終わったような安堵感に包まれた。本当に有難く深く感謝申し上げる次第である。 合掌
編集部 注
この記事の中に出てくる381空、331空の総指揮官 飛行長黒澤丈夫少佐(海兵63期)は第2回「零戦の会」開催記録にあるとおり、日航機墜落事故の時の現場、上野村村長であって有名な方である。
「なにわ会名簿」(平成15年度発行)と「なにわ会戦没者名簿」(平成8年発行)には、内山敬三郎君の戦死年月日が昭和19年10月18日となっているが、これは、内山君の母上の申し出(ニュース4号15頁参照)により訂正したもので、改めて兄上 正熊氏に確認したところ、10月3日と理解しておられた。母が勘違いして連絡したのであろうということであった。
よって、名簿の戦死日を10月3日に訂正する。
なお、90号で連絡とれず、削除としたが、鎌倉居住が判明したので削除を取り消し、新住所に訂正する。
(なにわ会ニュース92号70頁 平成17年3月掲載)