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平成22年4月18日 校正すみ

塚田浩君の遺稿 『厚木雷電隊』

西口 

塚田 浩 西口 譲

『大空の国の宝となるために磨け武人大和魂

3年の江田島終えて武人の大空進む喜び如何に

昭和18年9月 海軍兵学校卒業に際し、決戦下三星霜の江田島を終了、大空の海軍士官として活躍し得る武人本懐、これに過ぐるものなし。

  

本務全力、健康明朗、情味豊富、倒れて後己まず、太平洋波高し。』

 

右は先般病没した塚田浩君の遺稿の一部である。遺稿といっても、これらは江田島時代、それも卒業期に記したものと推定され、巻紙に達筆を奮ったものである。

暑い夏、永かった一日とかの8月15日も早25周年を迎えた。生々しかった記憶もともすれば薄れ勝ちになる今日此の頃であるが、塚田君は更に戦時中の印象を色々と書き綴っている。大半は例の仙花紙とでもいうらしい、紙質の非常に悪い信濃毎日新聞の原稿用紙に、鉛筆叉はペンで走り書きしたもので、諸条件を総合して考えるに終戦直後の作品に間違いなさそうである。それ丈、戦時中の印象も生々しいし、事態の急変に伴なう苦悩をまざまざと浮び上らせているものもある。以下原文のまま紹介する。

 

雷電戦闘機

小生等が1年半、命を懸けて乗った戦闘機は実にこの雷電戦闘機である。そもそも雷電は昭和14年試作の飛行機で昭和19年やっと実用になった程難点の多い飛行機であった。その名前はどっしりとした横綱を思わすものの、余りどっしりし過ぎるの感なきにしもあらず。然も当時雷電なる飛行機は帝国海軍最大の殺人機の異名を取っていたもので、一見物凄さを感ずる程であり、一屯爆弾のようにずんぐりとしていた。

小生等が最初に之を見たのは霞ケ浦終了当時、一日横空見学を行なった際である。零戦のみを見つけた小生等は、こんな物が果して飛べるだろうかと疑問に思った位である。これが飛行しているのを見たのは、神ノ池時代教官教員4名が厚木に雷電の講習に行きキンキンいわせて神ノ池飛行場に持ち帰った時である。

この珍しい飛行機を取囲み、小生等の雷電に対する誤れる考え? が生じたのである。当時の教官教員にいわすと、こんな飛行機は問題にならぬ文字通りの殺人機である。操縦性は極めて悪くすぐストールに入る。グライド速力95節(ノット)というから我々は驚いた。これでは俺達の腕ではとても駄目だと。それから4機の雷電は雨とほこりにまみれ、誰も乗ろうとはしなかった。時々学生が物珍しげに空戦フラップをジャージャーいわせておった位である。

神ノ池終了当時甲乙戦決定あり、小生等甲戦と決定した喜び・・・これでまず雷電は免れたと。然し可哀想に乙戦連中のしょげ方は・・・。教官慰めて曰く、乙戦といっても雷電に決った事はないから、安心しろと。ところが、配属が決定してみると小生等8名は厚木である。さあいけない。もう駄目とがっかりしたね。

そして7月30日(注・昭和19年)厚木の隊長宅の前で、上陸準備中の山田九七郎隊長の訓示「君達は雷電に乗ってもらう」と。

その時に何もかも観念した。そして8月1日から猛訓練が始まった。

雷電に来るには余程の技量の自信と腹が出来ておらねばならない。零戦でやってきて雷電に移る当時、飛行時間130時間程度であったから、とても自信などある筈がない。まして先入観あるに於いておや。

それでも我々は張切った。一日も早く乗れるようにと。そして1週間後には曲りなりにも乗り出したのである。

第1回目の気持。何ともいえず恐ろしい。本当に腹の底から気持ちが悪い。特にこの気持ちは長く乗ってもそれだけ軽くなるものではないし、そのまま十年一日の如くである。その代り、全精神力を使い果して帰ってきた時の喜びとスリルは、雷電塔乗員ならずしては味わえぬものであろう。

しかし雷電は、よく、実によく事故を起した、あらゆる事故を。そしてクラス最初の犠牲者として、武田君が直上方訓練中発動機不調になり、厚木の彼方に不時着し逝った。毎週毎週海軍葬があった。若人は、雷電を乗りこなせずして次々と死んでいった。

次は山根君がテストに出て数十分後、保土谷の土中に15米程潜って殉職した。訓練を行なえば、必ずあちこちと事故機が出た。その代り、雷電にも良い所は沢山あった。寧ろ、小生等は雷電が最も好きでもあり又愛した。

高々度における働きは目覚ましいものがあった。そのスピードと勇姿、見馴れてくるとスマートに見えてきた。20粍4丁に1,000発の銃弾を積んで、ごうごうと発進する雷電の勇姿は、今思い出してみても愉快になる。

 

 

日本人と富士とは昔から切っても切れぬ関係にあること、論を待たぬのであるが、特に厚木にあっては、我々塔乗員は富士に明け富士に暮れたともいえよう。高度1万米以上に上昇して富士を眺めた感じ、八合目から白雪を頂いた神々しさ、何といっても山の王者である。

鈴鹿から楽しい夢を雷電に乗せて厚木に帰る時、一番心配になるのは富士山である。そしてこの富士を見出してはほっとする。富士を越すと箱根、それから相模川、次いで厚木飛行場となる。

しかし作戦で一度飛立てば、富士は我々に厳しい存在となる。特に敵は富士を目標とし、必ず西風を利用して富士の方から入る。それ故、われ等は常に富士山を基点として敵を発見するのである。叉天候の悪い日、2,000米位にまで雲があり一面の雲界で下界が全然見えぬ時、富士が唯一の目標となって、無事厚木に帰れたのである。

しかし、富士もすっかり見えない程の雲界の場合は、富士山位恐いものはない。こんな時は、高度を下げながらも、いつ富士にぶっかってあの白雪を赤い血で染めるかと、冷汗の流し放しになる。

富士と相模湾の一望の景色、高度10,000から遥かに見渡す南アルプス、遠くにかすむ奥州の連山、関東地方を眼下に眺めた景色は何時までも心に残って離れない。叉何時の日にかあの醍醐味を味わうことが出来るのだろうか。幼時に習った地図も実によく実物に似ているものだなあと感心したりする。

休日の上陸の時眺める富士もまた和やかで良いものである。藤沢駅、大船駅より見る富士の高嶺も格別である。

いまや飛行機による富士との関係は終りを告げた。しかし、富士の姿はいつまでも頭から離れない。富士山よ、永遠に清くあれ。

 

横浜上空遊撃戦

永らく脾肉の嘆を嘆いていたわれ等雷電隊に出動の命が下った。当日は遊撃機数極めて少なく、発進後の集合も意の如くならず各小隊毎に分散。小生の小隊は4機発進したのに小生と黒田との2機のみとなり、約1時間半開東上空を敵を求めて飛行した。

敵は本土に近づきながらもその後確たる情報なく、燃料もそろそろという時に電話あり、「敵機富士山を東進、基地上空〃・・」それ来た。その時高度6,000直ちに横浜方面に向う。B29の第1機団12機と覚しき一群を厚木と横浜の中間で発見、敵の高度6,500

前下方攻撃に移るべく態勢をとる。黒田も敵発見の様子。下腹に力を入れて接敵、B29編隊に近づくこと2,000、発射。

ひょいと見ると敵編隊の左翼に4機戦闘機らしい機影を発見。しかもその後方にはB29編隊と小形機編隊が数団になっており、高度を順次高めつつ雲霞のように横浜に向っているではないか。

敵戦闘機群ありと判断した時は、既にわが2機に対し攻撃を開始しつつあり、多勢に無勢、しかも敵が優位(注・最初の位置が高い側にあること。位置のエネルギーが大きく、優勢に戦闘を開始できる)ときているから始末が悪い。三十六計逃げるに如かずと、錐もみに入れて急退避を行なう。

黒田のことが心配になり後方を見ると、座席の中で何かやっていたようであるが段々離れてゆき、見る間に敵4機は黒田に喰い下り、2撃後黒田機は真っ赤な火を吹き出した。しまった、やられたと思う間に白い落下傘らしいものが飛び出したのを認め、一縷の望みを残しながら、燃料切れで厚木は危険な為、熊谷飛行場に一旦不時着後、夕方厚木基地に帰投した。

この日わが方被害甚だしくあちこちに墜落、落下傘降下をしていた。小生も最初は連絡がとれず、基地に帰って始めて隊長に報告できたような状況である。黒田の絶望を申し述べた。そこへ、分隊長寺村大尉目黒駅付近に不時着、病院に収容中との入電あり、小生直に軍医中尉1名を連れ目黒に向う。

 

厚木から鹿屋へ

厚木を基地として奮戦していた20年の春、突然雷電隊士官は飛行長室に集れとのこと。スワ何かあるな!と馳せ参じてみると、厚木雷電隊は九州南部に転進、全力を挙げて南九州の迎撃を行なうとの命令であった。

当時沖縄決戦ようやく激烈を極め、彼我空軍力相半ばして、今一息の所で戦勢がどう転回するか判らない状況にあった。然るに、マリアナ基地よりするB29攻撃の主力が南九州に向けられ、南九州のわが戦闘機隊特攻隊の基地を攻撃しつつあり。この時に当り、わが雷電隊を以って敵航空兵力を一挙に粉粋しようという作戦で、関東防空を棄てても良いからとの決意の下に行なわれたものである。

我々は直に準備に取掛り、全兵力20機を編成、この時行くと決定した者の喜びに満ちた顔と、行かれないと決められた部下の淋しそうな顔は、今以って忘れることは出来ない。

その晩遅くまで色々と、チャートの準備その他身廻整頓、生きて再び厚木には帰れまいとジーンと胸につかえる何物かを感じつつ、翌朝5時起床。死出の旅路に昇るべく、身を清め真っ白な下着に着替えて飛行場に行く。徹夜で整備した整備員が忙しそうに立廻っている。

搭乗員整列、諸注意、司令より奮闘を祈る旨の訓示あり、第1陣の出発は小生の指揮する3ケ中隊。司令に挨拶し愛機に乗る。エンジンの調子は快調。

その日の壮挙を見送る全員は既に見送りの位置についている。当日天候不良、視界相当悪し。チョークを払って第一番に出発。名残惜しき厚木の基地よさらば、二度と帰れぬと思えば感慨無量である。出発点につき離陸、滑走路の両側に並んだ人々が風のように後に去る。

鮮やかな編隊を組んで厚木を一周、関東地方よさらば、かすむ箱根を越えて清水、浜松、名古屋と飛ぶ。一番心配なのは鈴鹿山脈である。屏風を立てたように先は真っ暗である。名古屋を右に見て、その中に突入、高度2,000。行けども、行けども山又山。もう大阪湾が見えても良いはずだが。

そのうち湖が見えてきた。アアしまった、琵琶湖に出てしまったのだ。それから慌てて南に変針、京都を眼下に大阪に向う。大阪の真近になった。痛々しい街の姿を見て伊丹の飛行場を探す。12時前に伊丹に着陸、クラスの者に会う。心強い。332空の雷電隊は鳴尾の飛行場から出動するのだと。

到着直後、飛行長、飛行隊長九六陸攻にて到着。昼食後出発すべく試運転を行なう。全力時、発動機不調。整備に思いがけず手間をとり、午後4時半近く伊丹発、一路鹿屋に向う。

四国を左に見、瀬戸内海の霞む姿を眼下に悠々飛行。気になるのは時間だけ、日暮れぬ内に着きたいと焦る。松山の手前で2番機が高度を下げたので心配したが、叉上昇して来たのでホッとした。後で聞くと、燃料コックの切換に手間取ったとのこと。彼は後日鹿児島湾に消え去って二度と戻って来なかった。優秀な男だっただけに、今もって残念である。

それから九州に飛び、佐伯を右に見て宮崎に向う。いつ敵が出るか心配だ。睡気を催す。何とかこの分では無事鹿屋まで行けそうだ。列機はがっちりと頼母しい編隊を組んでいる。宮崎を左に見て、桜島を眺め今一息。

目指す飛行場を探す。志布志湾と鹿児島湾の間に三つ飛行場がある。一番鹿児島湾に近いのが鹿屋だ。2本滑走路の外側に無事着陸、ホッとする。長い、長い誘導路を通って指揮所前に飛行機を持って行く。先着の者の顔が見える。飛行機は予科練の人達によって直ちにいずれかに運び去られてしまった。それから長い間待たされて、宿舎に移された。飛行場は爆撃で目茶無茶にされていた。ここで我々は1か月余、困難な遊撃戦を行なったのである。

 

命と事故

飛行機乗りが常に生命の危険に曝されているのは、当然のことであって、幸いに生きながらえてはいるものの、窮地に立ってどうしようもなく、今度こそ駄目だと何度思ったことであろう。しかし紙一重の差でいつも危地を脱し得て現在あるのは実に不思議な位だ。最も印象に残っていることを思い出してみよう。

ある日の午後の事であった。当時人員の消粍甚しく、試飛行を引き受けるのは殆んど小生一人というような時である。

当日雲量7〜8、1,000米位に軽いミストがあり、視界やや不良。試飛行のため厚木を南の風で発進、2回目のこととて当初の不良箇所は大体良好、高々度飛行の後、厚木北方約10キロ、高度2500で特殊飛行を行なった。宙返り後スローロール左1回、次で右1回の時爆音不調、振動全然なく、急速にエンジンの回転が低下したと思ったら、忽ち完全に停止してしまった。

直ちに不時着を決意、相当落着いていた積もりではあったが、後になって考えてみると、可なり慌てていたらしい。まず機首を下げ、失速にならぬよう不時着地を探す。しかし適当な場所が見当らず、特に視界不良のためはっきりせず。

高度と地形から察するに飛行場に不時着出来るやも知れずと推測し、飛行場らしき方向に降下、高度1,000位の時、薄雲を突き破って飛行場を見出した時は高度高きに失し、オーバーを修正すべく横すべりを連続行なったものの機速が大きすぎて沈まず。

それではと脚収納のまま飛行場に滑り込もうと決意したものの、飛行場に入って水平飛行になってからも容易に接地せず、3分の2位の所で一度接地はしたものの、そのままでは飛行場端に激突するのが明白の為、一度左に機首を向け、飛行場に斜に降りようとしたが、そこには「銀河」がおり、整備員が作業中のためそのまま突っ込む訳にもゆかず再びスティックを引き、高度100米まで上昇。

さて、と前方を見渡せば、森や谷ばかり。あわれ南無三と考える一方、イヤまだまだ。小さい畠を見つけ、失速にならない程度に旋回20度位で突撃、100米程畠の中を滑って止った。がらがらっときて2、3度ぐるぐる引き廻されたようなショックを感じた。

おもむろに顔に手をやって血がついているか確かめてみた。しかし涙と泥だけで、別に怪我はしていないらしい。朦朧とした気持に鞭打って風房を開き外に出る。機体は見事、まっ二つに折れていた。あれだけの強いショック。それで身体が何ともないのは、実に肩バンドのお蔭である。

若しバンドがなかったら当然計器板に頭を突込んでいただろう。乗る時つけたりつけなかったりするが、戦闘中以外は必ずつけるべきであると痛感した。

そうこうしている所へ、その辺の住民が集ってきて、良かった、良かったを連発するので少しも怪我をしなかったのが申訳ない位であった。

どちらかといえば、事故はあまり起さなかった方だが、エンジン完全停止はこれが初めての経験だし、本当に助かったのだなあと、何度も何度も思い返してみた。

片山はじめ、他の連中、それに隊長以下、飛行場におった連中は、1機が物凄い勢いで降りて来たと思ったらベラを微動だにせず、飛行場をオーバーして彼方の森の中に、土煙りを上げて落ちたのだから大騒ぎ。

それ救急車だ、軍医だと総動員して駈けつけてくれたのだが、小生ケロッとしていたのであるから甚だもってバツが悪く、そこらへん怪我でもすると良かったのにと、とても調子が悪かったものである。あの時ばかりは、皆が皆、小生は死んでしまったと予想したのだから、その悪運の強いのには全く舌を巻いていた。

 

片山大尉

片山という男は実にさっぱりした、いい奴だった。兵学校時代、余りにも我儘で高慢ちきな男と感じていたが、一つ部屋に生活してみて彼の良さがよく分るようになった。誰しも必ず短所と長所がある。結局、彼の場合は、短所がはっきり出る代りに、長所も断然と光り輝くのである。

人間ややもすれば、酔生夢死の生活に陥り易いのであるが、少くも世に生を受けて生活をする以上、何等かの仕事をやってみたいものである。華々しく生活する方が、どちらに転んでも立派な生活のようにも思える。

その点片山は幸福である。彼は部下をよく殴った。酷すぎると思われる程やっていた。それでいて、部下は不思議と彼に懐いていたのである。本当の事をいうと、神ノ池卒業寸前、彼と共に厚木に赴任すると聞いて内心面白くなかった。

兵学校時代は相当な猛者であり、飛行学生時代も色々な問題を起した。頭髪を伸して飛行長の怒りを買ったり、教員を殴って問題になったり、実際困った奴だと思っていた。厚木に来てからは同じ部屋に生活する事になったが、彼の男らしさが、一躍彼を人気者にしてしまった。藤江大尉から海坊主のニックネームを頂戴したのもよく分る。

彼は、操縦は上手かったが事々に乱暴であった。彼のSプレイ振りにもよく現われている。踊り廻る姿は今も眼に写る。正直いってSにはもてなかったが、皆に好かれた。それは、粗暴な山男的気性が彼女達を怖がらせた事に外ならない。

さて戦闘酣となり、武田が先ず帰らぬ旅に出たと思ったら、次には片山が第1回激撃戦で厚木の兵舎の所に不時着し、その後山根が土中深くもぐって人の命の儚さをしみじみ味わった。そして最初の一部屋4人が小生のみになってしまった。実に淋しかった。

他の部屋は4人健在である。片山の病院生活中のエピソードは彼の事だからさぞ愉快な種があるだろう。さらには4人中3人が転勤と決り、小生と橋本が残された時は72期は全滅かと思われた位淋しかった。そして、片山を再び厚木に迎えたのは、相当月日がたって、確か2月頃のことだったように思う。

その時橋本は343空に転勤になっていたので、片山と2人、最後まで頑張ろうと誓ったものである。その後厚木には、上野、福田、赤井の3人を迎えた。片山は相変らず張切っていた。しかし、中々戦果は得られなかった。無理もないことである。今までずっと休んでいたのだから。

時はめぐり、いよいよ雷電隊全力を以って九州鹿屋に進駐と決した。思い起せばこれに先立つ事約1か月の4月中旬、沖縄作戦たけなわの頃、同方面のわが戦闘機力の非力を補うため、厚木からも12機の戦闘機隊が出ることになって、隊長は寺村大尉、赤松少尉と小生に決定していた。

その時この事を彼に得意気に話したら、彼はむきになって、よし俺もどうしても連れて行って貰うんだとその足ですぐ隊長にかけ合いに行き、帰って来ていうには、俺が行くことになったから貴様は遠慮してくれと。

俺は激怒した。それは卑怯だ、俺の株を取るなんて。よしそれなら俺も頼みにいくというわけで、寝ている山田隊長を訪れ、さらに分隊長にも会って私を連れて行ってくれと頼んだ。隊長は、それではどうしようもない、2人でよく相談して決定せよという。

私は部屋に帰って彼と激しく論争した。その時彼は涙を流さんばかりにして小生に言った。貴様は今までに相当な戦果を挙げているが、俺はまだそれらしい奉公は出来ていない。今度行けば必ずやって見せるから、今回ばかりは我慢して俺にやらせてくれと。

彼の気持は実によく分る。しかし、小生にしても一度決心をして最後のご奉公をしようと誓ったものをそう易々と変えるわけにもいかぬ。かぶりを振っただけだ、それでは籤で決めよう。明朝やろうということにした。それからもお互い長い間話をした。貴様は雷電隊になくてはならぬ人だと云った。

そして翌朝、いよいよ出発だ。俺は全部仕度を整えて飛行場に行った。軍刀を持つ手も微かに震えた。これで厚木も見納めか。片山も同じように仕度をして出て来た。また奪い合いだ。しかし俺は負けた。いや負けてやった。そして彼に行って貰った。後のことを小生に託して彼は飛び去り、2度と厚木には帰らなかった。沖縄作戦に散華したもので、彼の事だから立派に死んだに違いない。彼は全く男らしい男であった。

 

   

忘れもせぬ8月15日正午、小生等が考えもしなかった形で戦は終った。あの時の気持

「ああ、われ死に遅れたり」

唯それだけであった。そしてそれから毎日敵の来るのをどれだけ待ったことか。今度来れば必ず体当りしてでも見事散ってやろうと。これは当時、わが厚木戦闘機隊の誰もが考えておったことだろう。実際、戦死した戦友が羨しかった。

今静かに振返ってみて、果してこの考え方が正しかったかどうか疑問であるが、あの当時の自分に立返ってみると無理ないことと思うのである。

15日当日の朝まで戦闘していたのに、目前の一切の飛行機武器を差出して手を挙げるとは。今の今まで、最後のご奉公には愛機諸共と決意を固めていた連中がいかに耐えられようか。

事が終り、飛行機を捨てると決った時、皆男泣きに泣いた。アアこれで万事終れりと。

事実我々の半生はここに終焉を告げたのである。

 

厚木のその後

昭和201117日の夜行にて18日朝5時新宿着。懐かしい小田急、嘗ては喜びの身を乗せた電車も今は罪人を導くが如く感じられた。5時半あらゆる人々を乗せて電車は発車。7時1分前、大和駅に着いた。山川の姿、特に朝な夕なに指揮所から眺めた美しい富士の姿も昔の通りであるが、変ったのは人間と飛行場である。まして上空にはP―38、ダグラスなど爆音高く飛び廻っている。あの富士の嶺も遂にアメリカの軍門に降ったのかと思うと自然に涙が出てきた。

この広い関東地方、かっては、わが物顔に飛んだ大空なのだ、アア我は敗者なり。

小生の足並は余りにも遅く、かっての陸のように張切れるわけもなかった。

大和の駅にあった斜銃も今はなく、かつては挨拶で通った改札口も重々しく冷たかった。つい1、2か月前まで隊外酒保であった所には大丸組の張札が立て替えられている。

主計長の下宿、これは厚木での思い出の場所の一つである。かつて食い、飲み、遊んだあの部屋には馬場大尉がひっくりかえって寝ていた。

終戦事務の兵隊達は、ヤミの話をしながら事務を執っていた。そして、昔の思い出が懐かしまれないうちに、再び小田急の人となった。

(十一月二十日)

所感

小生、生を日本に受けて20数年、昭和20年8月15日を以って軍人生活の半生を終了せり。この間小生の踏み来れる所を静考し、ここに思い出の一端を記す。これは終戦以来軍人の一部、特に指導者階級の悪徳をもって直に軍人排撃論を談ずる輩に対し、あまりにも清く立派に花と散った、草場の幾多戦友の立場があまりにも残念であるからとの考えに外ならない。そして多少なりともこれら英霊を慰めたいと思う。

一体軍国主義とは何か、自由主義とは何かの確信なくして天下国家を論ずる人々の行過ぎた考え方、即ち軍国主義を排して自由主義となさんがために、叉一部軍人の非道徳行為をもって軍人の全部が腐敗堕落していたように考え勝ちな現情勢に対し、小生は敢えて日本人に叫びたいのである。諸君等の父兄弟等は、日本の為にとの信念から真一文字に突進し、何も知らずに散って行ったことを思う時、いかに敗れ去ったとはいえ、直ちにあらゆる軍人の非を鳴らす事は日本人としてはとても出来ることではないと信じるからである。

翻って小生は、今まで身命を投げうって自己の信念に向い一路邁進し来り、特に若い青少年将兵の気持、これは誰が何といっても小生自身日々痛感していた所であるから、何人といえどもこれには反対できない筈である。

そしてこれ等多数の軍人が復員を完了し、各々故郷に敗戦の身を横たえて世相の一端を伺う時、果して満足できるであろうか。

今までやって来たことに対し、あらゆる悪口を弄し、ボイコットをするなど、果してこれが我々復員軍人に対する国民の真の姿であろうかと残念に思う人が何人あるか。いな今まで一片の恥ずることなき行動を取り来った軍人であれば、誰しも慨歎せざる者はないと信ずる。

ここにおいて小生の短い軍人生活を想起し、生活中に現われ来る戦友の行動の一端を卒直に書き、世人の一読を得れば幸と信ずるものである。

 

あとがき (西口)

20年以上も昔の事どもが手に取るように明らかにされ、そして強く我々の胸を打つものがある。読む人によって感じ方は様々であろうが、同じような生活を送った私にとっては、搭乗員の立場やあり方を代表し、代弁してぐれているようにも思える。貴重な遺稿を提供して頂いた塚田君のご遺族には紙上を借りて篤くお礼を申し上げ、草場の本人に本稿の掲載を報告すると共に、本文に出て来た片山君をはじめ華々しく戦場に散った期友諸兄の冥福を心からお祈りする。

(なにわ会ニュース21号26頁 平成45年10月掲載)

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