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平成22年4月18日 校正すみ

 
特殊潜航艇 誕生から葬送まで

後藤 脩

真珠湾攻撃の特殊潜航艇 海龍 後藤 脩

昭和161218日大本営発表「同海戦において特殊潜航艇を以て編成せる特別攻撃隊は、警戒厳重なる真珠湾内に決死突入し、味方航空部隊の猛攻と同時に敵主力を強襲、或は単独夜襲を決行し、少なくとも前記アリゾナ型1隻を轟沈せしめたるほか、大なる戦果を挙げ、敵艦隊を震(がい)せり」。

 

そして38カ月「悲シイ哉、昭和208月ハソモソモ如何ナル日ゾ嗚呼」と書き置き、畠中 和夫は蚊竜艇上、従容として自決を遂げ、橋口 寛 また、平生回天基地において同様、死に就いた。

太平洋戦争は、我々にとって、特攻に始まり、特攻に終わった、と言うも敢えて過言でなく、従って、またその全容は容易にとらえがたいが、いまここに、水中特攻に関し、いくばくかの資料をつづり合わせてみる。(ただし、回天に関しては、すでに別に小冊子も配布されていることであり、重複を避け、最小限の関連する部分に止める。回天では兵74期の松尾秀輔君、またクラスでは朝鮮空の経理・鈴木真一郎が、この他に自決と記録されている。)

水中特攻は、真珠湾攻撃の特殊潜航艇の名によって初めて国民に知られたが、この特殊潜航艇は当時、部内では「甲標的」と称せられ、その誕生は実は昭和8年にまで遡る。そして、以後、昭和20年終戦に至るまでの一生は用兵思想上、最初は洋上決戦を目指し、次には泊地襲撃、最後には局地防禦、という3時期に大略区分される。このうち洋上決戦は実現することなく、泊地襲撃としてはハワイへの第1次特別攻撃隊、シドニーおよびディエゴスワレスへの第2次特別攻撃隊まで、次いでミッドウェー攻撃隊、キスカ進出、そしてガダルカナル、ルンガ方面への第3次特別攻撃隊ぐらいが過途期に当たり、それ以後のラバウル隊、ハルマへラ隊などから局地防禦の段階となる。(略年表参照)

用兵上の変遷につれて、兵器にも発展がみられた。「甲標的」という名称の更に前には「対潜爆撃標的」と称された第一次試作の段階があり(専ら機密保持のために、こういう名称を使っていたのだが、それが航空関係者の耳に入り、「そんないい標的があるなら、対潜水艦の爆撃演習に使いたいから是非貸してくれ」という話になって、言い訳に冷や汗をかいた、というエピソードもある)、「甲標的」として実用になってからも「甲型」(第3次特別攻撃隊まで)「乙型」「丙型」(高雄隊まで)から「T型」まで改良に次ぐ改良が加えられ、「T型」の時代から「甲標的」に代えて「蚊竜」という名称が使用されることになった。

それぞれの要目は別表1の通りだが、眼目だけを述べれば、甲型は艇長と艇付の2人だけ、全没排水量44トン、動力として電池しか持たず、80マイル程度の航続力でしかなかった。そこで小型発電機を搭載して自己充電もできるようにし、航続力を500マイルまで伸ばしたのが丙型(乙型はその試作艇)で、このため排水量も50トンとやや大きくなり、乗員は艇長、艇付に電機員を加え3人となった。最後のT型は自己充電能力をさらに強化し、水上航行性を増加して航続力1,000マイル、60トン、5人乗り、と小型潜水艦のようなものになった。

この間、甲標的艇長の黒木博司(機51)、仁科関夫(兵71)の両人が必死必殺、もって狂瀾を既例に回す〃ため編み出したのが「回天」戦法であり、まず初期の甲標的の跡を追って敵泊地を襲撃、また局地防禦に当たることになった。さらに、小型で量産に適するとして、本土決戦に備え急速整備されたのが有翼潜水艇「海竜」であるが、詳細は別に大谷友之の記すところによる。

以下、各時期に分けて、やや詳述する。

 

◇5・5・3の比率を破れー洋上決戦

佐々木半九(真珠湾およびシドニー特別攻撃隊指揮官)、今和泉喜次郎(横須賀潜水艦基地隊司令兼第16潜水隊司令)両先輩の共著による「鎮魂の海」には次のように記されている。

「ワシントン(大正11年)、次いでロンドン(昭和5年)と、2次にわたる軍縮会議の結果、日本の艦艇保有量が米英に対して、主力艦6割、大巡7割に制限され、一朝有事の時、軍縮条約下の劣勢艦隊で、どうして有力な米英艦隊に立向かうか、わが海軍首脳部の頭を悩ます問題であった。

そこでいわゆる月月火水木金金〃という訓練の強化、居住性や防禦力を極度に犠牲にして、攻撃力や運動力に重点をおく建艦方針の採用、制限外艦艇や航空兵力の増強などの対策を講ずると共に、日本独特の戦法や兵器を案出しようとする機運が高まった。昭和7年の初め、当時、海軍艦政本部第1部第2課長(水雷兵器関係)岸本鹿子治大佐(兵37期、のち少将、酸素魚雷考案者)が、魚雷状の小型高速潜水艇で敵に肉薄し、魚雷を発射して必中を期する新兵器に着想した。これは日露戦争当時、横尾敬義少尉が魚雷を抱いて、敵艦襲撃を企図した戦例にヒントを得たものであった。 

新兵器は昭和7年夏、一応の成案を得た。そこで機密保持と上申途中の反対を避けるため、順序を経ず、軍令部総長、伏見宮に直接説明した。その時軍令部総長は『ぶっつかるのではないだろうね』と念を押された。これに対し岸本大佐は『決死的ではありますが、収容は考えており、決して必死ではありません』と回答した。それで軍令部総長は、本兵器の開発を決断し、これについての研究を海軍省に要求した。」

この後のことは当時、艦政本部部員であった小山貞先輩の兵50期級会回想録(昭和3511月)掲載のものによると如実である。

「戦艦大和、武蔵と甲標的とは極大、極小 両極端の相違はあるが、共に嘗ての主力艦隊決戦思想の所産として、時を同じくして、発想されたが、海戦様相の大転変によって遂にその本領を発揮することなく両者軌を同じくして姿を没して去った。出現までの過程を振返ってみると、日本海軍の太っ腹振りと技術陣の卓越とを遺憾なく物語っているように思われる。甲標的は小なりと雖も46トンの巨体である。これを12基宛、搭載した千歳、千代田、瑞穂(或は日進)の3艦が艦隊主力決戦に参加、機に乗じて前線に進出し一斉に甲標的を発進して敵主力に殺到せしめるという構想は日本海軍にして始めて企て及ぶことであり、実に破天荒そのものというべきであった。

・・・岸本大佐や関係技術官の熱意と技術とによって誕生した対潜爆撃標的は昭和9年、加藤良之助少佐(兵48期)を搭乗員として実験を行なったが、若干の改良を加えれば実用可能との結論に到達した。

・・・千代田からの発進実験に到っては海軍始めての経験であり、風浪の大きさ、方向、発進時搭載艦の速力等の組合せにより無人実験10数回、最後の有人実験に到るまで、慎重周密に実験が進められた。甲標的自体の洋上実験の成果だけでは、一寸頭を傾けた豊田副武艦政本部長も、千代田からの発進実験の見事な成果には大いに惚れ込んで、この分なら艦隊決戦に使えそうだと思われたようであった。46トンの巨体が20節の速力で航走中の千代田の中甲板の艦尾から発進後、暫らく水中に姿を没するが、やがて姿を現わすと共にウェーキ外に出て航走を開始する情景は実に壮烈なものであった。本実験の成功を目の当りにしながら『もし3隻共、首尾よく敵主力の前程に進出できて36基の発進に成功し、そして一斉に敵主力に殺到できたならば』と、その場面を想像して正に血湧き肉躍る思いであった。

・・・機密保持には随分気を使われた。地元の呉鎮長官さえ、千代田実験を見ることを許されなかった位だから他は推して知るべしである」

千代田実験の搭乗員は関戸好蜜大尉(兵57・のち10特戦参謀)と堀俊雄中尉(機46

 

◇「特別攻撃隊」の命名―泊地襲撃

昭和1511月から岩佐直治中尉(ハワイ攻撃で戦死、兵65)、秋枝三郎中尉(ディエゴスワレスで戦死、兵66)以下が甲標的搭乗員として千代田(表向きは水上機母艦)に乗組を始めた。搭乗員は原田覚千代田艦長指揮の下に加藤良之助中佐を指導官として、伊予灘、豊後水道方面で航行艦襲撃など猛訓練を続けたが、ここに一つ重大な問題が生じた。

航空戦力の発達の著しい、来るべき戦闘において果たして主力艦隊の洋上決戦という場面があり得るであろうか? もし海戦の舞台が航空決戦に移るとすれば、我々の出る幕はどこにあるか? 山本連合艦隊司令長官の開戦冒頚の真珠湾空襲計画は、もとよりまだ彼等の知るところでなかった。しかし、彼等はここで、甲標的を潜水艦で運搬し、開戦冒頭、敵泊地に秘かに進入し、敵艦を攻撃する計画を立て、原田艦長を通して山本長官に具申した。期せずして、これは山本長官の真珠湾奇襲構想にピタリ一致したわけだが、山本長官は襲撃後、艇員を収容する見込みのないような計画は採用出来ないと却下した。

そこで彼らはあれこれ尤もらしい収容方法をメーキング、結局、この押し問答は彼らの粘り勝ち、山本長官の負け(?)となって 甲標的のハワイ作戦参加が決定した。

当時の清水光美第6艦戦司令長官の回顧談によると「日露戦争の時には、閉塞隊とか決死隊という名も使われたが、特殊潜航艇の場合は、連合艦隊司令長官も『慎重検討の結果、成功の確算あり、収容の方策また講じられると認めて志願者の熱意を入れた』のだから、『特別攻撃隊』と称することにした」とのことである。実際、山本長官は特別攻撃隊の内地出撃前夜まで、艇員の収容に万全を期すべき事をダメ押ししていたといわれる。そして、この期待に応えるため、母艦潜水艦群は潜航艇の突入後3日4晩、真珠湾外で正に万全を尽くして捜索に当ったが、結果は「未だ帰還せざる特殊潜航艇5隻」と終わった。

「鎮魂の海」によると、真珠湾特別攻撃隊に続いて翌17年5月のシドニー特別攻撃隊の指揮をとった佐々木半九大佐はシドニーに向けトラック島出港に先立ち、艇員を集め、命を大事にするよう繰り返して注意し「もし第2次攻撃で一人も帰ってこないような事になれば、或いは今後、特潜による港湾攻撃は取り止められるようになるかもしれぬ」とも付け加えた。これもあってか、突入した3隻の潜航艇のうち、伴勝久中尉(兵68期)の艇は停泊艦クタパルを撃沈後、なんとか港口から外には脱出したものの、砲撃で受けた損傷のため海底深く沈み、南20マイルの海上で待つ母潜の懐(ふところ)へやはり着くことができなかった。現在、特潜碑建立委員会会長である八巻悌次氏(大浦特攻長、兵68期)は、このシドニー特別攻撃隊でトラック島を出港後間もなく、艇の電池が爆発、艇付は死亡、本人も重傷を負うて、伴艇と交替した人であるが、当時の艇員達の心境を次のように語っている。

「なんとかして帰って来いということだが、襲撃後の敵の反撃、捜索の厳しい中では母潜自体が危うい。こちら二人だけの為に母潜を犠牲に出来ない。帰ってこいといわれれば『ハイハイ』と返事はするものの、そんな気はなかった。」

長駆、インド洋を渡って、アフリカ東岸のディエゴスワレスに向かい、戦艦ラミリーズとタンカー1隻を雷撃した特別攻撃隊の2隻についても、また同様な事情であった。

 

感 状

第6艦隊特別攻撃隊

 

昭和十六年十二月八日開戦劈頭(へきとう)挺身敵米国太平洋艦隊主力ヲ布哇軍港ニ襲撃シ、友軍飛行機隊卜呼応シテ、多大ノ戦果ヲ挙ゲ、帝国海軍軍人ノ忠烈ヲ克ク中外ニ宣揚シ、全軍ノ士気ヲ顕揚シタルハ、武勲抜群ナリト認ム

ヨッテ茲ニ感状ヲ授与ス

昭和十七年二月十一日

聯合艦隊司令長官 山本五十六

 

ディエゴスワレスおよびシドニーの第2次特別攻撃隊にも、ほぼ同文の感状が授与され、ハワイの岩佐直治大尉以下9名、ディエゴスワレスの秋枝三郎大尉以下4名、シドニーの中馬兼四大尉以下6名はともども二階級特進せしめられた。

 

◇連合艦隊の主力を呼号―局地防禦

しかし、開戦後なお日浅く、戦局も一応順調に推移していた当時として、全員未帰還という犠牲は大きすぎると感じられたのも事実であった。加えて、潜水艦は甲標的を背負っている問、その行動を制約されて、本来の働きが出来ないというマイナスがあった。さらには敵側も最早、対応策を講じているため、その攻撃は極度に困難になると考えねばならなかった。こうした理由から、海軍首脳部としては第2次特別攻撃隊のあと、この種の作戦を打ち切る方針をとった。

その後、ミッドウェーの戦闘では、攻略占領部隊のなかに甲標的隊(6隻、隊長・関戸好蜜少佐)が編入され、千代田を母艦として後方部隊にあったが、攻略失敗により途中から引き返した。その一部は次にキスカに進出(4隻?、隊長・乙坂昇一中尉、兵67期)、防衛の任についたが、敵の爆撃により艇はほとんど使用不能になり、艇員は撤収した。一方ガダルカナルの攻防戦が激烈を極める事となって、再び潜水艦を母艦とする甲標的作戦が採用され、ルソガ泊地やツラギ港に進入して、輸送船、駆逐艦を3ないし4隻以上沈める戦果を挙げた。但し、この時は潜水艦の役は艇を発進させるまでとし、収容地点は島影に定めて、参加8隻(門 義視中尉、兵68期以下)のうち5隻の艇員の救出に成功した。

17年6月から同年末に至る、この間の作戦をみると、ミッドウェー、キスカは後の局地防禦の芽生えの如く、一方、ガダルカナルは前の泊地襲撃の名残の如きであるが、それは後からの見方であって、当時としては、特に明確な方針があって、これらを使い分けでいたのではなかった。実際は、この頃、甲標的は、あの岩佐大尉らが開戦前に突き当たった問題の次の問題に再び突き当たっていたのである。洋上決戦の機会が見込めなくなった時、岩佐大尉らはそれに代わる舞台を泊地襲撃に求めた。しかし、その泊地襲撃も打ち切られた今、甲標的はどこに行こうとするのか。折角整備された艇と訓練された搭乗員が残っているのだから、ケース・バイ・ケースで使い道を考えては見たものの、このままでは自然消滅するのではないか? しかし、尚、この先人の粒々辛苦の結晶には捨てるに忍びない特長がある。

丁度この頃、18年4月、血書志願が叶えられて、甲標的部隊に転入してきた一機関中尉がいた。当時の軍令承行令によれば、機関科将校には艇長の配置はなかったため、彼は敢えてこの非常手段に出て、以後、機関科出身の艇長の道が開かれる事になったのである。この機関中尉こそ、後に回天で殉職した黒木博司大尉であるが、この比類のない熱血漢が部隊に着任して見たものは、彼の予想したものより、かなり様子の違ったものだった。当時第5期まで艇長講習で、戦死、殉職を差し引き、甲標的艇長の数は30人近かったが、行き場を失った彼等は相次いで通常の潜水艦などへ転出を図りつつあり、部隊には最小限の研究要員〃だけが残されることになった。

わずか2〜3人の艇長と共に残った黒木中尉が考えた事は、甲標的の最大の弱点である短い足を、潜水艦と同じように発電機を装備して自己充電により伸ばすことであった。工廠関係の技術者はそれではとてもツリムが保てないと反対したが、機関科出身の彼は自ら設計し、後部電池の一部を空けて40馬力発電機を積み、試作に成功した。これが甲標的乙型である。

これを見て、技術陣も真剣に取り組むことになり、量産出来るようになったのが甲標的丙型である。そして、やがて、黒木中尉は更に回天試作へと進むことになるのである。

折から、戦局の前途は容易ならざる段階となり、我が方の守勢は日々に明らかになりつつあった。ここに、面目を一新した甲標的が息地防御の重任を負って再登場してくることになる。呉港外の倉橋島の一角、大浦崎の「P基地」は活気を取り戻し、再び人の住来が慌ただしくなっていった。嘗ての搭乗員が復帰し、新しい搭乗員が訓練に加わり、丙型の生産が軌道に乗り、人と物とが仕上がった所から前線への出撃が再開された。

再開第1陣は1812月ラバウルへ進出した。(5隻以上、隊長・門義視大尉)ガダルカナル攻撃隊から絶えて一年目のことであった。

以後、

ハルマへラ(2隻、大友広四中尉・兵70)、

トラック (5隻、里正義中尉・兵70)、

ミンダナオ(8隻、島良光大尉・兵70)、

ダパオ  (2隻、小島光造大尉・兵70)、

父島   (3隻、篠倉 治大尉・兵69)、

沖縄   (8隻、鶴田 伝大尉・兵70)、

マニラ  (2隻、後藤 脩中尉)

へと、進出していったが、このうち会敵の機会を得て、勇戦力闘したのは、ミンダナオのセブ甲標的隊と沖縄の蚊竜隊である。特にセブ隊は武運に恵まれ、ミンダナオ海峡を之字運動で航行する敵艦船群を攻撃、水上機母艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船など敵艦船20隻を撃沈し、大川内伝七南西方面艦隊司令長官から、その武功抜群として賞状を授与されたが、その中で級友、笹川 勉中尉艇長の81号艇は反復攻撃により1艇よく3隻を葬った。

沖縄隊はまた、空海からする圧倒的な敵襲に抗しつつ、よく戦艦、巡洋艦などを捕え、一矢を報いた。しかし、ラバウル、ハルマへラは敵の飛び石作戦の後方に取り残され、トラック隊は中途サイパンで会敵したものの、甲標的は輸送船で曳航中のため全放電状態にあり、使用可能になる前に、無念の涙を呑んで全滅した。

父島隊は間もなく撤収、マニラ隊は敵の上陸に一歩遅れをとって、高雄に変更されたままとなった。(注・この時期の甲標的は輸送船により曳航、あるいはT型駆逐艦を攻造して艦尾をスロープ状にした専用の輸送艦に搭載して前線基地に運ばれた)。

20年初頭から、甲標的はT型の段階に入って蚊竜と改称され、大河信義大尉(兵71)以下3隻が沖縄に補充され、続いて花田賢司大尉(兵71)以下3隻と級友・三笠清治中尉以下3隻が相前後して自力航行で沖縄に向った、故障艇もあり、途中から本土決戦に備えるため呼び戻された。

この頃海竜もまた実戦配備を開始しており、蛟竜、回天ともども、いよいよ本土決戦体制を固めることになった。艇の全力生産のかたわら、予備学生艇長要員、予科練艇付要員も統々増加し、更に水上艦艇を沈められた将兵が殺到して、水中特攻部隊は雪だるま式に膨脹していった。帝国海軍の最後を飾る艦艇は最早、他にはなくなっており、悲壮な思いの中にも「今や、我々こそ連合艦隊の主力」を合言葉に、隊員はいやが上にも士気を高めていた。然し、時すでに遅く8月15日、一切が空に消えたのである。

 

◇まとめ

〔要員〕

昭和1511月の第1期講習から終戦時講習中の第20期講習まで数えて甲標的(蚊竜)艇長要員は約500人、うち戦死者は岩佐直治大尉以下43人(潜水艦へ転出3人、回天へ転出2人を含む)、殉職は17年3月、安芸灘で遭難した神田晃中尉(兵67)を始めとして12人、自決は畠中和夫大尉。

また海竜艇長は講習中まで数えて約500人、うち殉職は級友・蕪木正信中尉(機)ら4人、これら戦死、殉職した艇長、それ等と運命を共にした艇付のほか、整備、基地要員を加えて戦没者数は200余人。

そして終戦時、本土には蚊竜関係約4,000人、海竜関係約2,000人、合計約6,000人の部隊が待機していたと推定されている。

〔兵器〕

甲標的甲型は52号艇までで、うち20余隻が出撃、乙型は53号、両型は54号以降の約40隻で、その殆んど全部が出撃、丁型は三ケタの番号で、約150隻が本土決戦に備えていた。遭難は各型合わせて8隻。海竜は約250隻が完成していて、4隻が遭難した。

〔戦果〕

各種記録に残されたものを総合すると次のとおりだが、元来、甲標的の攻撃は単独、隠密であり、かつ未帰還が多いため、戦果不明の部分も相当あると考えられる。

撃沈   水上機母艦 2、巡洋艦 2、駆逐艦 4、輸送船 16

艦種不詳その他 2、

計 25

ほぼ撃沈 戦艦 1、駆逐艦 1、

計 2

命中   戦艦 2、巡洋艦 1、

計 3

〔終戦時編成配備〕

別表Aとおり(ZSは特攻戦隊、Zgは突撃隊)だが、このうち横鎮管下は海竜と回天が主力、呉鎮管下は回天と蚊竜が主力、佐鎮管下は回天と震洋が主力であった。

10特攻戦隊はこれらとは別に蚊竜だけで編成(48隻)、連合艦隊直属の機動部隊″として豊後水道、瀬戸内海方面にあったが、敵の本土攻撃が関東方面に向かった場合は直ちに、その迎撃のため移動することになっていた。

なお、足立英夫が当時、勤務録に書きとめ保存している「水中特攻基地概要」によると10特戦を除く突撃隊は50コ隊、蛟竜390隻、海竜316隻となっている。これは20年9月末頃を目標とする当時の配備計画とみられ、これを前記の突撃隊28コ隊、蚊竜約50隻、海竜約250隻と比べると、およそ計画の半ばが整っていたことになる。

◇その他

昭和18年初めから同年末頃までソロモンおよびニューギニア海域で活躍した「特型運貨筒」及び「特型運砲筒」も、同じ大浦崎のF基地で実験や訓練をしていたもので、甲標的と同じように潜水艦に搭載し、敵の制空権下にあって輸送船の近寄れなかった前線基地への物資の補給輸送に当った。母港から離れて浮上すると、司令塔だけを水面に出し、目的地まで下士官艇長一人で操縦した。ツリムが悪いと行動不可能となるうえ、速力も4ノットしかなく、決死的な兵器であったが、攻撃兵器でないために殆んど知られていない。運貨筒はガダルカナルを始めとしてソロモン戦域に物資を輸送、運砲筒はニューギニアのラエ、サラモアに陸軍の15センチ砲や機銃を運んだ。

そのほか、敵泊地に潜入して艦底に時限爆薬を仕掛けて離脱する「震海」、潜水艦に搭載して水中を運び、発進してから水上を行き、リーフをキャタピラで乗り越え、魚笛(?)攻撃する潜水水陸両用戦車「特四」なども試みられたが、ともに技術的、性能的に難点多く、実用に至らなかった。          

                           終わり

(なにわ会ニュース19号26頁 平成45年2月掲載)

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