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平成22年4月18日 校正すみ

偵察隊戦記

70期)森田 禎介

昭和19年7月、百里空を巣立った若鷲は、はち切れんばかりの若さを漲らせて、実戦部隊に着任した。以下偵察航空隊141空で共に戦った72期の諸兄について記します。

昭和19年8月、部隊は三重県鈴鹿から南九州の都城へ進出した。19年初秋の都城の想い出は懐かしくも楽しい。 

我々は飛行場から1キロばかり離れた押水小学校の教室を宿舎に、江田島出身も学徒出陣組も予科練の紅顔の少年も、仲良く熱心に飛行訓練に励んだ。広大な原っぱの俄か作りの飛行場には連日地元の人々が沢山詰め掛けて激励してくれたし、夜は村の家庭に招かれてスキヤキや焼酎のご馳走になり、本当に可愛がって下さった。

1日の訓練を終り宿舎に帰る田舎道、我々は胸を張り夕陽に向って軍歌を唄った。空も地も平和な、佇ずまいであった。

然し10月、米艦隊の沖縄来襲と共に事態は一変する。司令部からの作戦命令を受けて、我々は次々に基地を発進、米空母を求めて洋上索敵に勇躍して飛び立った。

それから1年、戦はフイリッピン、沖縄、本土と益々苛烈さを加え、多くの素晴らしい青年たちは祖国の為に懸命に戦い、そして帰らなかった。

当時、索敵飛行のあらましは、九州の鹿屋、沖縄の小録、台湾の大崗山、比島はマニラのニコラスなどを基地として、概ね夜明け前に飛び立ち、各機毎に放射線状に別れ、指定されたコースを約600乃至700粁進出する所謂扇型索敵だった。

しかし、米艦隊には沢山の戦闘機が上空や周辺を掩護して、接近する日本機を警戒しており、又無事に帰途についても基地の制空権さえ彼の手にあって、生還する確率は低かった。即ち、昨日は7機発進して4機還らず、今日は5機が出て3機が未帰遺という状態であった。

 

ニコラスからレイテ東方索敵の1日を想起すれば、寝つかれぬままに午前3時起床、暗闇の飛行場では試運転の爆音が不気味に響く、やがて神に祈り全神経を集中して離陸。南国の夜空は星の光がキラキラと輝くほど美しい。ふっと家郷を想う。飛行2時間、黎明が近い。高度を下げてほのかに明るむ水平線を一心に見張る。戦闘機にも警戒。やがて日の出、壮大な太平洋の日の出だ。指定地点到着。右折50キロ。そして反転基地に向う。といった状態だった。

川端博和、金原 薫、水野英明の三君は1910月中旬沖縄東方の索敵に飛び立ち未帰還、初陣であった。いずれも豪快な明朗溌剌とした好青年だった。

土屋 睦、平野 誠の両君とは江田島33分隊で1カ年共に暮した懐かしい仲である。土屋君は飛行学生を恩賜で修了した冷静沈着な人物。サイパン偵察で個人感状を受けた。平野君は、九州人らしい気鋭の男で連日の索敵行に本当に眼から血がでるほど頑張っていた。20年1月14日、15日と前後して台湾東方の索敵から還らなかった。惜しみてもあまりある人物であった。

 広瀬遼太郎はウルシーの挺身偵察で殊勲を立てたが、遂に還らず。

 江口正一、小山 力も暦戦の勇士であったが、20年4月沖縄戦で散華した。中でも小山の事は、私は一生忘れない。機関学校を出て艦爆操縦という異色のコースの彼はハートナイスで、なぜか一番気があった。2人乗りの慧星で彼が操、私が偵でペアを組み、死ぬも生きるも一緒にと酒を酌みかわした仲だった。

191010日、南大東鳥附近で空母2隻を中心とする輪型陣を発見した時、艦砲射撃を受けて.一瞬眼の廻りが黄褐色となったが、小山は慌てず急降下して海面すれすれに機首を立てなおし、喜界ケ島の飛行場に滑りこむことが出来た。あの時の黒い海、白い波頭は、今も脳裏に焼きついている。また比島の東岸で、海岸線に網をはった米戦闘機から逃れて、山脈の谷から谷へ密林をすれすれに飛んだこともあった。彼はいつも明るく、落ち付いた見事なパイロット振りだった。20年春、私は霞ケ浦へ転勤となり彼と手を取り合って別れたのが最後だった。

71期では八島、岩嶋、加来の三君がすべて還らざる人となった。学徒出陣組では、物理学校をトップで出た安斉君、同文書院のラグビーキャブテン新婚の中村君、日体大の剣道5段下深迫君その他全てよき人は逝った。

死にそびれた我々は何をなすべきか、何事かをなさねばならぬ。

(なにわ会ニュース9号4頁 昭和41年9月掲載)

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