TOPへ    戦記目次

平成22年4月23日 校正すみ

昭和62年9月寄稿

幻の海兵七二期生と田村生徒のこと

附「ゆかいな仲間」

関口 武士

昭和15年11月3日待望の「カイへイゴウカク」の電報とやがて「11月24日午前9時迄ニ着校セラルベシ」の通知書が届いた。

中学一年の時から海兵受験に精魂をかたむけた私にとっては最高の感激であった。やがて一年先輩の田村誠治さんが東京の予備校に通いながら合格したことを知った。樺太真岡中学創立初めての海兵合格であり、しかも一挙に2名である。

一高や陸士には稀に合格者を出していたので学校としても喜んでくれた。とくに担任の先生と校長は心から祝福してくれた。

樺太は11月に入ると次の春まで融けることの知らない根雪が降りつづける。11月中旬当分は帰ることのないかもしれない樺太を後にして連絡船に乗りこみ、北海道、本州を縦断して呉から小用まで確かボンボン蒸気船で渡ったような記憶がある。クラブは正門近くの岩本クラブに指定された。

入校の上は一分隊の配属と言われた。その中に眞崎三郎、白井利徳、久住 宏の諸君の名前と顔を47年も経過した今でも覚えている。

然し悪夢のような日がすぐ来るとは全く考えもしなかった。
六〇〇名以上の入校予定者の中からたった3名の体検不合格者が出てその中の1人となったのである。

尿に蛋白が出ることと、赤血球も混入しているとのことで一週間位検査の連続であった。急性腎炎ならセーフであるが、慢性腎炎との診断である。3カ月前の一次試験では尿検もあったが何でもなかったのに。

11月30日軍医少将から宣告をうけた時は口惜しかった。

「人生にはいろいろと進む道がある。希望をもって新しい道を選んでほしい」というような心からのいたわりと励ましの言葉をうけた時には不覚にも涙を落した。後に判明したことであるが蛋白はその後の気の長い養生によりゼロとなったが、赤血球だけは依然として今でも顕微鏡で一視野2〜3個発見されるので、当時の海軍の医学の力には敬意を表している。

さて、これからの将来を考えると時間がない。3カ月後に迫っている旧制高校の受験にとりかかった。

幸い新潟高校文科乙類に受かったが海兵失敗の後遺症が余りに大きく合格の感激が湧かない。

次に述べる田村誠治さん死亡のことを知ったのは高校三年の頃と思う。日米開戦により私自身の身辺も慌しくなり詳しいことはわからなかった。今回殉職の事情をつぶさに知り、2名ともに幻の72期生となったが、田村先輩は誇りうる立派な最後をとげられたことを知り、45年前を偲び感涙にむせんだのである。

昭和18年夏に刊行された「江田島精神」なる本がある。著者は海兵教官の中條是龍である。その最後の章に「先覚の遺芳江田島精神」と題して兵学校創設以来名をはせた生徒7名が記されている。
広瀬中佐、湯浅竹次郎少佐、佐久間勉大尉などが主な人物であるがその7番目に「挺身敢闘田村生徒」と題した一項目がある。72期生徒の田村誠治、彼は二号生徒時代二階堂伍長のひきいる第4分隊に所属していた。二階堂伍長は絶対に下級生を殴らない又殴らなくても優秀な指揮官は育つという信念をもっていた人物という。

昭和17年5月16日、江田島の兵学校分隊対抗の近距離短艇競技での第四分隊の活躍である。第四分隊は最も弱いチームとされていた。

さて予選第一戦のスタートについたとき二階堂は舵を手離し12名のクルーに向って叫んだ。

「負けて帰ると絶対に思うな、命をかけて漕げ」

二階堂の絶叫とともに第四分隊のカッターはゴールにとびこんだ。結果は彼等が夢にも思わぬ一着の栄冠であった。
「擢立てぇー」競技が終り誇らしげに二階堂の号令とともに12本の櫂がいっせいに立てられた。一着の栄冠をかちえたクルーのみに許される特別の儀式である。次の瞬間そのうちの一本がゆっくりと孤を描いて倒れた。二番の艇座にいた二号生徒田村誠治のそれであった。「田村どうした」二階堂艇指揮が駈けよると既に田村の顔面は蒼白に変り二階堂の腕の中で絶命したのである。

兵学校監事長大杉守一の講評は「不擁不屈斃(たお)れて後己むの軍人精神を如実に発揮し本校生徒の亀鑑(きかん)たり」
田村生徒の葬儀は兵学校葬で行われた。昭和17年5月23日樺太真岡からかけつけた両親の前で草鹿校長が哀悼の辞を読み二階堂の弔辞がそれにつづいた。草鹿校長のあふれる涙がいつまでも田村生徒の想い出とともに当時の在校生徒たちの記憶に残っている。

本稿は当初私の友人日本設計事務所社長池田武邦氏(72期)からのお許しもあり私だけのことを記そうと思っていたが、今回同じく友人の新日鉄副社長山根眞樹生氏(72期)の助言で田村さんの貴重な資料が見つかり、田村さんの方に重点が移らざるをえなくなりました。47年前の中学生田村さんの浅黒い体操の選手のようなそう身で真面目な人柄が偲ばれ感無量であります。

生き残った72期生の皆さんの御多幸を祈るとともに戦死、病死された今は亡き方々の御冥福をお祈りして筆をおきます。(本稿中、田村生徒にかかわる部分は昭和61年12月20日光人社から発行された森史朗氏著「敷島隊の五人」から引用させいただきました。)

「ゆかいな仲間」

私は雪国育ちである。生まれたのが、新潟県の高田。中学校はサハリンの旧制真岡中学であった。このあと、郷里の関係から旧制新潟高校に進学した。大学は東京だったので、大学に進学するまで、雪国に育ったというわけである。

ところが、一度だけ江田島で生活するチャンスがあったのだ。子供のころから海軍にあこがれていたので、中学生の時に、海軍兵学校に行こうとしたのである。

サハリンから北海道の旭川に行き、海兵の試験をうけたが、学科試験は無事に合格、喜び勇んで、学校のあった江田島に出かけていった。これで長年の夢である海軍の軍人さんになれると思うと、嬉しくて、嬉しくてしょうがなかった。

その時、学科試験に合格した人たちは全員、江田島に集合、民家に泊って身体検査を受けることになった。私も身体検査を受けたのだが、腎臓が少しおかしいということになって、すごすごとサハリンに帰ったのであった。学科試験に合格、身体検査でダメになったのは、3人だけということだった。

このあと、私は旧制新潟高校に進学したが、この時のことは忘れてしまった。

ある時、新日本製鉄の山根眞樹生副社長とゴルフをやった時に、たまたま兵隊時代の話になった。山根さんは、海兵出身で、いろいろ海軍時代の苦労話をしてくれた。それで江田島の話を聞いたので、いつ海兵に入ったのか聞いたところ、昭和15年で72期生だという。私がちょうど、身体検査で不合格になった時である。その話をすると「なんだ、同期ではないか」ということで急速に親しくなった。同期の友人を紹介するということになって、紹介されたのが、王子製紙の小林 勝副社長と日本設計事務所の池田武邦社長であった。池田君は、霞が関の三井ビルや新宿の三井ビル、京王プラザホテルなどの超高層ビルの設計を担当した、その分野では、わが国の第一人者である。
それ以来、四人で時々、飲み会をやるようになった。私にとっては、「幻の海兵同期の会」である。これがまた、非常に楽しい会で、本当にゆかいな仲間となっている。

本稿は「財界」五月十九日号より転載させていただきました。筆者は中央信託銀行会長)

 

生き証人の証言 大塚 淳

一 氏名、顔は覚えていないが、一分隊に配属予定の人で、北陸の方の人が検尿で蛋白が出て再検査になった。

二 不合格になったとき、ションポリと布団の上に座っていて、真崎や白井が慰めていたのは、よく覚えている。そのわけは、佐世保の小生は、佐賀の田と隣に寝ていたので、田とかわいそうだナ、と話し合った。真崎や白井のように都会育ちではないので、慰めの言葉をかける才覚もなく、東京弁で慰める彼等を見て、やっぱり東京の人間は大人びているという印象が強く残っている。

三 この人とは別に、2〜3月で免生になった松岡も入夜前の検査で尿に異状があったように記憶している。松岡は頻尿で、入校教育やその後の陸戦訓練中、真っ青になり教員に頼んで放尿していたが、ついに諦めて自ら退校を申し出た。

四 不合格になって、「出征兵士と同じように銭別を貰って、万歳 万歳と送られて来たので、今更身体検査で不合格だと言って帰れない」と言っていたのを覚えている。(松岡の言と混同しているかも知れないが、松岡は自ら申し出たのだから、関口氏だったろう)
五 北の方の出身だとは思っていたが、樺太の真岡中学とは知らなかった。

(編注 昭和15年の1分隊の大塚淳から、以上の如き生き証言があった)

(なにわ会ニュース57号17頁)

TOPへ    戦記