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平成22年4月21日 校正すみ

終戦と降伏仮調印

国本 鎮雄

 大和と共に沈む

 昭和20年4月7日、戦艦「大和」、防空巡洋艦「矢矧」、防空駆逐艦「朝霜)、「初霜」「磯風」、「浜風」、「雪風」、「涼月」、「冬月」「霞」の第2艦隊10隻は、沖縄死守のために同島へ突入したが、米機動部隊の艦載機の猛爆撃に、同日午後2時壊滅されてしまった。残存の「雪風」、「初霜」「冬月」、「涼月」の4艦は広い戦場に漂う生存者を隈なく救助し、動けなくなった「「霞」と「磯風」を撃沈して、佐世保へ帰った。

「大和」の乗員3332人中生き残った者269人は、4月8日夜、佐世保の沖の島の海軍病院に収容された。私は当時海軍中尉で、「大和」の甲板士官(乗員の日常生活の世話係)であったが、「大和」の沈没の際に艦橋にいて転覆沈没する「大和」に海中深く巻き込まれた。

意識を失いかけた時、弾薬庫の大爆発が起こり、全身物凄い水圧に叩きのめされたが、数分後に幸運にも海面に浮かび上っていた。負傷者を励ましながら、生在者は1人漏れなく集合させて駆逐艦の救助を待つのも甲板士官の仕事であった。

海軍病院に収容された頃、私は両耳中耳炎に罹っていた。その為に、別府海軍病院に1月入院、治療を受けたが、耳鼻科専門医はおらず、耳はよくならなかったので、担当軍医(加藤治良軍医中尉)の勧めに従って専門医である室蘭の父(国本亮平・昭和49年没)の所に帰った。室蘭の医師の方々から取って置きの良い薬を分けて頂いたりして、私の耳はめきめき良くなった。

6月1日には自宅療養中で心配していたが、同期生と一緒に海軍大尉に進級した。

進級祝いに刀剣家としても有名であった故佐藤富太郎氏(医師・室蘭)より白鞘短刀1振を頂載したが、「皇国の士は自決すべからず」と添書きされていた。この短刀は佐藤氏が堀井初代刀匠(室蘭)の指導を受けて鍛えられ「やまと」と銘が打たれており、その後の戦闘時には常に身につけていた。

 

2、「初桜」乗組

私は昭和1512月に室蘭中学4年より16歳で海軍兵学校へ入校し、平時は4年間のところを2年10カ月で卒業した。その後先輩青年士官の戦死戦傷が多く、その為に、候補生6カ月、少尉6カ月、中尉8カ月半の異例の早さで昇進して21歳の若さで海軍大尉の重責を担っていた。

6月末、室蘭へ初めてB-29が飛来して市民を驚かした。7月初め、室蘭駅で多くの知人友人に見送られて、第一線へ向かった。海軍省へ出頭すると、私の希望は叶えられ、駆逐艦「初桜」砲術長兼先任将校(副長)を命じられた。極度の燃料不足で、日本海軍の1,000トン以上の軍艦で作戦行動中のものは、「初桜」のみとなっていた。

7月15日朝、横須賀港で「初桜」に着任乗艦した。この日の午後、横須賀軍港は米艦載機の大空襲を受けた。日本艦艇約30隻は係留のまま戦った。空襲警報のサイレンで、工廠の工員数万人は、人波を作り潮の引く如く大型防空壕へ駆け込んで行く。一瞬軍港内は静まりかえり、我々は鉄兜の緒を締め直して、艦橋のトップの戦闘配置に就く。

各艦から次々と戦闘ラッパが鳴り響き、米軍爆撃機が襲い掛かってくる。岸壁にいた戦艦「長門」が主目標で熾烈な爆撃を受けた。駆逐艦1隻が轟沈し、大きな赤十字のマークを付けた病院船「氷川丸」も爆撃された。

「初桜]では、私が砲術長の交代を終えていなかった為に、海兵1期先輩の前任者が射撃を指揮しており、私は手をこまぬいて観戦しているだけで、犬死はしたくないし、とても恐ろしい戦闘の1時間であった。艦船には数百人の戦死者が出た。

「初桜」は、排水量1,300トン、乗員180人、東日本水上特攻隊旗艦を務め、10隻ほどの駆潜艇、哨戒艇などを指揮することになっていた。艦長は3年前に兵学校で水雷術を教わった6期先輩の青木厚一少佐(米沢市、織物工場経営、信金理事長、当時27歳)。通信士は1期後輩の岩部哲郎中尉(佐賀市出身、東大卒、昭和51年没)。兵学校出身者は私を入れて3人で、水雷長、航海長、機関長は艦長よりも年長の特務士官(兵から上がった士官)であった。

7月末、最後の特攻出撃に備えて、横浜のドックに入り、艦の手入れをした。ドックの中では艦の上からすっぽりと網をかけて偽装し、その下で徹夜の作業が続けられた。横浜の市街は一面の焼け野原であった。

8月14日夜8時、折からのB-29の空襲下に、聯合艦隊司令部よりの出撃命令を受け取った。「伊豆大島南方に、敵大艦隊現わる。全軍突撃用意」。

艦の手入れはほぼ完了していたので、緊急出渠を手配し、8月1510時ごろ無事に出渠し、11時横浜を出港した。艦内の整備点検を急ぎながら横須賀港へ回航し艦長は直に鎮守府へ作戦の打合わせに上陸した。 

艦内で午後2時ごろより魚雷、弾薬の搭載を始めたが、海軍工廠作業員の間から、「初桜」乗員に聞こえよがしのポツダム宣言受諾・無条件降服などの囁きが広がって、作業が捗らない。

午後3時過ぎ艦長が色青ざめて帰艦した。本日正午天皇の御放送があり、日本は無条件降服した。然しこれは天皇の御心によるものではなく、側近の腰抜け共の計らいであろう。横須賀方面でも、航空隊と潜水艦部隊は全て降服に反対で、迎撃の態勢を整えているし、単独敵中へ突入して行った者もある。

「俺は最後まで戦う。嫌な者は艦を降りて貰おう。乗員を集合させよ。俺が話す」と艦長はいきり立っていた。

近くにいた潜水艦が「皇国の不滅を信じ我 出撃す」の信号を発しながら出港して行く。味方飛行機が飽く迄も抗戦しようと伝単を撒く。私と通信士の2人は、日本の軍隊は如何なる時も天皇の命に服すべきで、降服も又止むを得ないでしょうと、艦長の説得に努めた。

15日も暮れようとする頃、艦長は鎮守府へ呼ばれた。帰って来て、「人をバカにするにも程がある。戦えと云うのかと喜んで行ってみれば、降服仮調印の為の軍使送りだと。俺は絶対に嫌だ。断って来た」と、物凄い剣幕である。

然し、夜を徹しての話し合いに、やっと平静を取り戻し、鎮守府命令に従う事になった。偉い艦長であったから、自分から騒ぎ出してしまった方が、若い者に騒がれるよりも収め易いといった計算が艦長の胸の中には、あったのに相違ない。

8月16日より新任務のための準備が始まり、工廠の工員が多数乗り込み、魚雷、弾薬を降ろし、魚雷発射管、大砲、機銃には純白のカバーを作ってこれを掛け、艦の乗降口である舷梯を新調したりした。日米停戦の成否のカギを握る重大任務に、乗員の交代も行われ、水雷長に海兵1期上の大型5人乗り特潜「蚊竜」の艦長小松字太郎大尉(町田市)、航海長に私と同期の英会話のベテラン左近允尚敏大尉(元海将、元統幕会議事務局長、神奈川県 葉山町)が着任して、艦内は若やぎ活気を取り戻した。先任将校(副長)の任務を新水雷長に譲った私は、かなり気が楽になった。

幹部の士官には自決用のピストルが配られたが、これがひどく旧式で、弾丸は親指の先よりも大きく、確実に死ねるが、これでは随分痛いだろうなあと、大いに笑ったものであった。

8月25日の夜になって、軍使14名が乗艦した。初めに予定された三笠宮のお出ましは取り止めになり、海軍軍令部と参謀本部の要員であって、この中に同期の野村治男大尉(鹿児島県)がいた。

米艦隊の水先案内を務めるとのことで、お互いの無事を祈り、私のベッドを彼に提供した。この要員を米艦隊旗艦の「ミズーリ号」へ送って、降服・占領・日本軍解体の手順を決定するのが、第1の任務であった。

8月26日の朝、檣頭に白旗を掲げ、カバーを掛けた砲銃の砲口を一杯に下げて、横須賀港を出港した。翌27日、伊豆大島沖で米大艦隊に会合したが、「ミズーリ号」を中心に、戦艦10、巡洋艦20、その他艦艇無数の大艦隊が、たった1隻の小型駆逐艦「初桜」へ向かって全砲口を集中し、威嚇しながら接近して来た。

10日ほど前に室蘭などに艦砲射撃を加えた憎らしい米艦隊である(室蘭は全市黒煙を上げて全滅と聞いていた)。洋上に停止した「初桜」へ先頭の米駆逐艦が接舷して軍使を乗せ、「ミズーリ号」へ送った。

この米艦隊を先導して鎌倉の沖に残らず仮泊させた頃には、日も暮れており、間もなく軍使が無事に帰って来た。文官の軍使はともかく、武官の軍使は、会談中帯刀も許されず、武人として恥ずかしめを受けたと、皆泣いていた。

28日は朝から米艦隊の先頭に立って、浦賀水道を通り、米艦隊を横浜沖に碇泊させるのが第2の任務であった。浦賀水道では、敷設機雷原の中の秘密水路を正確に通過して行かなければならず、大艦隊が1列縦陣、低速力で水道を通過しているところを、両岸の三浦半島と房総半島から砲撃されたり、飛行機や潜水艦の攻撃を受けたりすることのないように、軍使と「初桜」を人質に取って楯の役目を勤めさせているのであった。

然し、一方「初桜」の乗員にとっては、200隻もの大艦隊を引き連れて観艦式を行っているようなもので、艦隊司令長官になったような気分で、我に従う米艦隊の航行ぶりを飽かずに眺めて、昨日からの溜飲を下げていた。米艦隊を横浜沖に導いて碇泊させ、「初桜」が横須賀軍港へ戻ったのは28日夜であった。

急いで東京へ帰る軍使を見送った「初桜」の乗員は、終戦処理の第一関門である大任務を無事に遂行した感激と、明日からの祖国と自己の前途の多難に、半ば呆然と、静かに別れの酒を酌み交わしていた。

29日は、朝から米戦闘機の頭上からの監視を受けながら、艦内くまなく大掃除をして、30日昼に全員一斉に退艦した。帝国海軍よ、さようなら。

 

9月2日には横浜沖の「ミズーリ号」上に、日本の降服文書調印式が行われて、ここに第2次世界大戦の幕は閉じられた。

(室蘭民報に掲載されたもの。)

(なにわ会ニュース4932頁・5019
昭和58年9月・昭和59年3月掲載)

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