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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

運命の日の朝

藏元 正浩(波二一七潜機関長・佐世保)

 

連日うだるような暑さの続く佐世保に、波号第二一七号潜水艦艤装員として着任したのは一月半程前のことであった。戦局が逼迫してきて正面切った戦争ができなくなってきていた当時の日本としては、敵の本土上陸作戦に備えて小型の特攻兵器が続々とつくりだされてきて、波号潜水艦も潜水艦とはいいながら「潜小特攻隊」と呼ばれて、グループをつくって訓練をしながら艤装を進めていくという方式がとられていた。

 その日の朝はやっと苦労して出来上った蓄電池の初充電のスイッチを祈るような気持ちで入れて、異状なく進行してホットしたところであった。苦労したというのは、当時早く第一線に参加するためには艤装中の潜水艦を一日でも早く仕上げなければならない。そのためにはネックとなっていた蓄電池を早く作り上げなければならない。 当時の海軍工廠の蓄電池の職長(?)の人に事情を話し是非とも何日までに電池を仕上げてもらいたいと頼んだところ

「そんな無茶なことはできませんよ。」

「そんなタルンダ事でどうする。気合が入っていないからだ。」と思わずポカリ。(この件については現在でも大いに反省している。)

「かかれ」と言ったところ

「ちょっと待って下さい。私もこの年になって自分の子供みたいな年の人からなぐられるということは腑におちない。自分がサボッていたのならばとも角、一生懸命やっていて」

と却って説教を食う破目になり、現在の工員の状況、食糧事情からじゅんじゅんと説き始める彼の言には一本筋が通っている。

「よし俺が悪かった」ということになっていろいろ教えてもらった。それからというものはわれわれ乗員も全力をふるって作業に参加し、工員が帰ったあとは乗員だけで作業を続けるというふうに、一日の労働時間が二十二時間という日が続いたわけである。眠る時間というのは朝六時からの一時間と昼の十二時からの一時間でしかもコンクリートの上に敷かれてあるむしろの上でゴロ寝し、食事が終ったらすぐ作業にかかるという強行軍を一週間も続けるという超人的な作業であった。作業内容としては一メートル四方の極板を交互に積み重ねそれを電池筐に入れたあとハンダづけするということであったが、数が多いし、しかもこの作業は機関科の作業であるということで機関長が率先して乗員(確か二十数名だった)と一緒に作業しなければならず自分一人だけということならばまだしも全部の乗員を叱咤激励してやらなければならないところに苦労もあり、他人に対し酷と思われることも強制できたのは当時青年将校であるという自負心と熱烈な戦争完遂への意欲があったからではないかと思っている。

 初充電電流が順調に流れているのを見ていた件の職長「とうとうやり遂げましたなあ。若い人にはかないませんよ。うちに娘がいるから一晩飲みに来ませんか」。と言ってくれたが遂にその娘さんには会えずじまいであった。

その時刻頃既に海軍大尉に進級し機関長ということではあったが、技術的には未熟だと思っていたので少しでも経験をつむために公試に出る艦にはいつも同乗させてもらい勉強させてもらっていた。その日の午後一時に公試に出る艦があるということで昼食を早めに食べて岸壁に急いでいたところ、園田少尉(名前が三十年経た現在記憶がはっきりしていないので正確でないかも知れない。十年程前は姓名ともよく憶えていたのであるが)にひょっこり会った。彼は東京大学在学中に予備学生となり「回天」搭乗員となったのであるが、どちらかといえばおとなしいほうで、秀才という言葉がぴったりとあてはまるような美男子であった。彼とは共に伊号第五十八潜水艦で硫黄島方面、沖縄方面に行動しそれこそ生死を共にしたという感じが強かったが、そのうえに行動中は年恰好が同じであるということと彼の祖父が同じ郷里の出身ということでよく話が合っていた。話によると、輸送潜水艦(確か伊号三百六十型)に乗って関門海峡の西口から南支那海に向う途中敵飛行機の機銃掃射を受け被弾したため佐世保に入港したとのことであった。彼が久し振りだから艦から酒と肴を持って上るから何処か飲む場所を探してもらい共に今夜は語り合おうではないかということではあったが、出港時刻が気になっていたので帰りにまた寄るからそれから一緒に出ようということで別れた。

乗艦して出港前の諸作業をやっているとあたふたとかけ込んだ技術部の某大尉が極めて深刻な顔をして「もうこの艦はつくる必要がないのではないですか。」などと変なことをいう。それが終戦ということについて始めて知り得た情報であったわけであるが、何処かのラジオが言っていたとか全く要領を得ないのでその時は大して気にもかけず諸種の試験に従事したわけである。公試が終って夕やみ迫る頃帰投の途についたわけであるが、われわれも上甲板に出て外の空気を吸っていた。すると向後埼方面に盛んに飛行機が飛んでいくので、余り日本の飛行機が飛ぶところを見なかった当時としては、今日は馬鹿に飛行機がよく飛ぶ日だなあなどと話合ったりしたものである。入港して園田少尉の処に寄った頃はもう大分遅くなっていたと思うが園田少尉が

「もう戦争は終りましたよ。」

「えっ、どちらが勝ったのですか?」 

(笑うなかれ。この辺の処が当時の者でなければ判りにくい)

彼は泣き出しそうな顔で

「残念ながら負けたのではないですかね」と新聞の号外を見せてくれた。号外を一通り見てこりゃ大変、すぐ隊に戻らねばということになり勿論上陸はやめることにして走って帰隊した。

 

流れ星

帰隊してみると今夜重要会議があるので艦長と先任将校は集れということで会議に参列した。会議は艦長の間で決められることであるが、われわれは陪席というような恰好であったように記憶している。会議の内容は次の二つのうちのどれをとるかということであった。

一、われわれは一生懸命戦争完遂に努めてきたが、戦い、われに利あらずとなった現在、潔く自決して戦死した戦友のあとを追う。

二、敵に降伏することを潔よしとせず、山中に潜伏しあくまでも抵抗する。そのためには、各艦ごとに武器、弾薬、糧食、輸送用トラックを明日中に確保して明日二四〇〇(即ち十七日の〇〇〇〇時)に一斉に発動する。

ということであったが最終的には後者と決まり解散となった。

一口に武器、弾薬、食糧、トラックを確保するといっても、事は内々で運ばなければならず、しかもどの一つが欠けてもうまくいかないし、充分の量がなければこれもまた駄目である。しかも行先は完全に秘匿しなければならず、まだ行先も決められていない状況では完全に雲をつかむような話ではあったが、と一晩中考えを述べ合いながら屋外で話合ったものである。現在は「命令と服従」ということで、部下としてどうすればよいかははっきりとしていることであるが、当時は翌日の事で頭の中が一杯であり、言いつけられたことを如何にうまく運ぶかは腕の見せどころと思っていた。反面山中に潜伏後のことについて考えるといろいろ悩みもしたものである。それは「恥を知る」ということが強調されていた当時であってみれば、戦場で死ぬの、これがもし逆賊となり今まで自分を育ててくれた両親を嘆き悲しますようなことになるのではないかと、今から考えるとたわいもないようなことを心配したものであった。錦の御旗はどうなっているだろうなどと次から次へと考えていると、もう未来永劫両親にも兄弟にも会えなくなるのではないかなどと思ったりしたものである。

その晩は流れ星の多いきれいな星空の夜であったが、今や自分の運命もあの流れ星と同じょうに消えてしまうのではないかなどと悲壮な思いをしたものである。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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