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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦のとき

小西 愛明 ( 101突・宿毛湾)

終戦の時は一〇二突の蚊竜艇長として宿毛湾の小さな漁港で魚雷二本を装填して出撃待機中だった。土地の網元の家を宿舎にしていたので、当時としてはめずらしく毎日新鮮な魚を食べて英気を養っていた。宿毛湾は内海西部に向う米軍機の進入路に当っており、毎日のように増槽タンクを投棄して行くので、訓練の帰路それをひろって戦利品よろしく曳いて帰ったこともある。
 八月十四日は久方振りに米軍機の飛来がなく静かであったが、十五日朝に正午のラジオ放送を聞くようにとの電命が入り、網元の家のラジオの前に集合して家族の人達と一緒に玉音放送を聞いたものの雑音がひどくて聞き取り難く、とに角、戦争が終ったらしいと判っただけであった。
 司令から平静を保って後命を待つように指示され、翌十六日、中央の特命を受けて宿毛空に飛来した参謀が魚雷艇で到着、終戦の命令を伝えると共に部隊の解散を指示されたが、特に動揺はなかった。この時、同じ十特戦に属してはいたが佐伯に待機していた一〇一突の畠中和夫が服命を拒んで沖縄突入を決意し、単独出撃したものの、艇の故障で果さず、途中で自決したと聞いたのは後日大浦崎に帰ってからであった。
 一般隊員は宿毛で除隊、蚊竜は大浦崎に帰投と決定、翌十七日宿毛湾を出て豊後水道を北上、特潜部隊と因縁浅からぬ三机に一泊、翌早朝これが最後の航海になると錨索をプチ切って出港(錨は三机港に放棄)、連日真夏の太陽に直射されながら当直交替なしの航海で日射病にならなかったのは兵学校教育のお蔭か。
 大浦崎に帰投すると桟橋に待ちかまえた当直将校が直ちに亀ケ首で魚雷を処分して呉に回航せよと指令、敵艦に向けて発射すべき魚雷二本を亀ケ首にブチ込んでその爆発を確認してから音戸瀬戸を経由呉に回航、潜水艦ドックに繋留して大浦崎に帰り、備品を返納して艇付達と別れの挨拶を交した時にはあたりは真っ暗になっていた。
 音戸の瀬戸は丁度引潮時で、早い流れに乗って下ってくる多くの機帆船等に反航して通過したが、舵を取る艇付は艇内に居て四囲が見えず、伝声管を通じての面舵取舵の号令だけで、よくぞ無事に通り抜けたものとわれながら感心した次第。
 その後、四、五日大浦基地で残務整理、虚脱状態で休養をした後、呉鎮付となる。すると宇久航海長兼分隊長に補せられ、初仕事は先任将校代行者として弾薬を全部秋月火薬庫に搬入することと、大砲機銃等の一切の武装を撤去した後、復員輸送に従事するための設備と備品を揃えるための企画と指揮であった。ついこの間までは特潜の魚雷二本を如何にして確実に敵艦に命中させるかの訓練に励んでいたことを思うと、正に昨日に変る今日の姿であった。九月十五日に呉を出港、復員輸送という帝国海軍へのお礼奉公としてその最後を見届ける業務に従事。
 この間、一度母校を訪問しておこうと江田島に赴いて終戦直後の兵学校を隅々まで見て歩き、荒廃した教育参考館や爆破された武道場、乱れた自習室と寝室、江田湾に沈座した利根、大淀等、在校当時には想像もしなかった惨状に改めて敗戦を認識させられたが、その後で人気のない食堂で昼食をご馳送になったのは一号時代の銀バイの縁による烹炊員長の好意であった。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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