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昭和50年3月寄稿

終戦の想い出

和田 恭三(25震洋隊・基隆)

 

 あの頃私は海上特攻隊「震洋」の和田部隊長(第二五震洋隊)として台湾の基隆で、基地造りと訓練に忙しい毎日を送っていた。

暑さと、虫と、マラリヤに悩まされ、毎日毎夜の空襲の合間を見ては馬公からの転進でバラバラになった部隊の再編制と現地で新しく募集して入隊してきた予科練生の教育に若い情熱を燃やしていた。当時私の部隊はC艇と称する頭部に五〇〇キロの爆薬を装着した高速艇五十隻を中心としたその搭乗員である甲種予科練出身の下士官五十名と、それに付属する整備隊、基地隊など総数二五〇名ばかりの世帯であり、武器弾薬その他の軍需品は実に貨車約一〇〇輌分という膨大なものであった。今考えてみるとあの若さでよくも部隊を切り回していたものだとわれながら感心している次第だ。クラスにも十数名同じ思いをしている諸兄がいる筈である。

ところで八月十五日は前述の基隆の新しい基地の士官室で短波ラジオを聞いていたところ(どういうわけだか、私の部隊にはアメリカ製の立派な短波ラジオがあり、士官室では専ら音楽など楽しんでいた)英語の放送の合間に日本語で、戦争は日本の全面降伏で終りを告げたというニュースが入り、われわれは唖然としたものであり、例の日本軍に対する宣伝放送の一つだと思っていた。ところが夕方になって例の終戦の詔勅が全文電報で入ってきてわれわれを本当に驚かすことになってしまった。今でもその電報を当直将校から渡されて読んだ時のことがありありと頭に浮んで来る。この時点で「俺は部隊長として如何にすべきか」と咄嗟に考えたがしばらくは頭が回転しなかった。夜になってようやく考えが決まった時は「如何なる事態になっても海軍としての規律を乱さないことと部下の生命を守り続けなければならない」という二原則であった。

 

 こう自分の決心がついたところで次の日の朝総員集合をかけて詔勅電文を読み上げ、自分の考えと決心を訓示して二五〇名の自粛を要望したものであった。その後いろいろとあったが、翌二十一年四月まで台湾の各地を転々とし、四月中旬に復員船に乗って大竹の港に入り東と西の列車に部下と分れて乗るまで和田部隊としての規律は完全に守られ、整然として復員させることができたことは大変有り難かった。と同時に自分に対する自信のようなものが得られたような気がする。特に私が大竹入港と同時に気管支炎に冒された時には部下が担架で上陸させてくれ、二日間の入院中全員郷里に帰るのを延期して私が治るのを待っていてくれたことには涙が出る程嬉しかった。今このことを思い出しても実際に涙がにじんで来る。人間の信頼関係の導きをつくづくと感じさせる事実である。

 

  この原稿を書くに当たって当時のことを改めて思い出させて頂き、このことを企画した編集委員の諸兄に感謝しつつ筆を擱()きます。


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