平成22年4月24日 校正すみ
昭和50年3月寄稿
終戦の想い出
品川 弘(71航戦司令部・横須賀)
やけつく暑さの中で、汗も涙も一緒に頬を濡らしていながら、胸の中に氷を突込まれた思いで玉音放送の一語一語を聞いた。
横須賀鎮守府構内に仮住いの第71航空戦隊司令部、司令官山本栄大佐、先任参謀(兼厚木空司令)小園安名大佐以下全員声を呑んだまま立ちすくんでいた。
ややあって壇上に立った小園先任参謀は、
『ただいま放送されたお言葉は、必ずしも陛下のご真意とは思われない。当司令部としては飽くまで現態勢を堅持して次の指令を待つように』といい残されて厚木航空隊に向かわれた。その後の厚木空の模様は大方がご承知のとおり。
実は、これに先立つ十二日夜、司令部電信室では、米太平洋艦隊ニミッツ司令長官からの帝国海軍最高指揮官宛電文を傍受して、ポツダム宣言受諾の事実を知った。当夜電信室の当直員は全員禁足、電信文は焼却したうえ司令官以下緊急協議、連日連夜中央との連絡を図ったが、進展のないまま悲壮な思いで運命の刻を迎えたのだった。
事態の如何なる展開にせよ、職業軍人としての自分の命運は決定的なものとみて、司令官の要望で先任将校として部内の秩序維持に専念した。が、既に縦も横も組織的にはバラバラに、各人各様の思惑で行動していたため、却って、司令部内では集団としての過激な動きが見られないという状態での日々が過ぎ、八月二十六日に横鎮が接収されるため、急遽「復員」が指示された。
司令官と全参謀、庶務主任が残務整理のため大井空に移り、私は初級士官および下士官・兵の復員を担当することとなった。別離の夜、司令官と言葉少ないままの長い語らいの時を過ごしたが、その時の山本司令官の次のお言葉は今でも脳裏に焼きついている。
『日本は敗戦の経験がない。しかも、日本の復興をおそれる列国は、あらゆる面で復興抑止の政策を押付けてくるだろう。したがって何年、何十年という長い歳月を、血の滲むような苦難を覚悟せねばなるまい。しかし、日本民族はそれを必ず成し遂げる意志と力を恢復する。中でも、兵学校で教育を受けた人間は、海軍士官としてだけでなく、民族の一員として民族のために役立つ有能な人材であり、そのような方針で教育されたはずだ。君は未だ若い。われわれの分まで、また、既に死んだ積りで、戦死した人達の分まで頑張ってほしい。』
(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)