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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦の想い出(蛟竜関係)

定塚  脩(大浦突撃隊蚊竜艇長、瀬戸内海)

15日朝9時大浦を出撃、瀬戸内を航行して四国三机に魚雷搭載のため立寄ったのが午後三時、終戦を聞き何とも言えぬ異常の感に打たれたことを記憶している。
 

三笠 清治(大浦突撃隊、蚊竜艇長、呉)

呉工廠にて鮫竜領収試験。終戦直後大浦崎は抗戦論が主体であった。呉鎮長官が心配して説得に見えたほどであった。当時まさかこんな日本になるとは思わず、比島か何処かへ強制労働されるのがオチと考えていたくらいで、強抗論が強かった。

  しかし終戦後、米軍の強制で蚊竜を処分するため廻送作業をさせられたが、感無量で実に残念で寂しい心になったことを覚えている。たまたま期友も多くいたので共に語らい合っていたのが何よりの心の虚しさを補っていたように感じる。
 5月23日に久方振りに大浦崎、
江田島を訪れ、戦後30年の年月の流れに時のおそろしさを感じた。

 

村山 隆(小豆島突撃隊分隊長、小豆島)

今泉教官が副長として大いに激励をうけたものでした。毎日毎日寒霞渓に登りうさ晴らしをしていました。予想外に静かで世情の混乱は犬阪に帰って知ったほどです。

吉本 信夫(10特攻戦隊1011突撃隊修補長職務執行、佐伯湾松浦村展開基地

八月十五日正午は佐伯湾大入島附近で漂流中(徴用漁船回航中、機関故障のため)。正午終戦詔勅は聞くことができず、二時過ぎに隊に帰着して知った。当時畠中和夫君と同部隊にあり、彼は隣の湾にいて16日来り会話したが、脱出出撃の件は何も語らず。これが彼と会った現世の最後。今幽明を異にして爾来三十年、誠に感無量のものあり。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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