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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦の想い出(航空)

飯沢 治(九三六空分隊長、シンガポール)

 終戦を知らず、翌日になり新聞電報により知る。半信半疑であった。

伊佐 弘道 (百里空隊付兼教官、第二国分基地)

  飛行場の掩体壕にある飛行機の整備状況を見回りながら、ふと空を見上げると昨日まで敵機が乱舞していた夏空に、大きな入道雲が白く光って輝き、しんと静まり返って一機の機影だに見当らない。昨夜の司令の条件付降伏の説明は本当なのか?

 まるで空には殺気がなく、昨日に変る平和な田舎の風景である。だまされたような虚脱感に暫時呆然として佇立し生残ったことが嘘のように感じられるととともに、条件付なのだからまた戦いは始まるだろう、日本が降伏すること等あり得ない、一時の休息に過ぎないのだと思い直し、闘魂をかき立て、指揮所へ歩いていった。

 基地は即時待機で皆は指揮所で昼食をとりながら、終戦なんかよその国の出来事だというような顔をしていたことなどが思い出される。指揮所にはラジオもなく玉音放送も聞かなかった

上田 敦(701空分隊長兼九州空付、第2国分基地整備隊長)

  現在鹿児島空港になっている第2国分基地の地下30米の地下壕にいた。航空作戦については在国分701空司令の指揮を受け、秘匿した彗星艦爆45機、白菊特攻機40の整備をするとともに、陸戦転化に備え第2国分第1大隊長として二君に仕え苦労していました。
 

梅本 和夫(谷田部空整備分隊長、朝鮮光州)

  朝鮮においては、終戦ということは知らされたが、これから先どうするかということについては、ほとんど正式の命令がなかった。正確な情報の入手と在留邦人の保護、部隊の維持、対ソ連対策等々、頭を働かすことが多く忙しかった。

大森慎二郎(姫路空整備分隊長、兵庫県北条)

 筑波空より姫路基地へ移動。飛行場の整備に従事。直ちに保安隊中隊長を命ぜられ軍規の維持に努める。最後まで部下の動揺と無事復員の完了に夢中でした。

長村正次郎(豊橋海軍航空隊、練成隊飛行士、小松基地)

 本土決戦に備えて温存部隊として小松に移り訓練していた。正午終戦の玉音放送は宿舎であった安宅の小学校に集合して聞いた。そのあとただ涙をポロポロ流しながら自分の宿舎に割当てられていた小学校の角先生の家に向って歩いていたのを思い出す。二日後に木更津に転勤。

門松 安彦(攻撃第5飛行隊、先任分隊土 木更津空)

 8月13日に特攻を命ぜられたが天候不良のため延期。15日は天候良好、グラマンの木更津空襲あり敵近くにあり。本日突入できると頑張る。そして終戦。生あり。感無量。

佐々木 庄(戦闘三一六飛行隊、分隊長、福島県郡山)

 敵機動部隊への攻撃隊を支援の目的で一一三〇 零戦16機を引連れて出撃。前日まであれほど猛威をふるった敵の影は全然見えず、どうしたことかと思いながら基地に引返し着陸したのが一四〇〇過ぎ、始めて終戦を知る。生き残って申し訳ないという気持ちと生き延びたのかという気持ちが半々だった。

白根 行男(312航空隊、兵器分隊長、横須賀航空隊)

 重大放送は特有のイントネーションと雑音でききとりにくかった。しかし全海軍航空隊の攻撃兵器の改善と制式化に命をかけておられた横空大崎少佐の涙ながらの訓示に唯呆然。将来の見透など皆目考えられなかった。

新庄  浩 (神風特別攻撃隊、桜花隊分隊長、小松基地)

 多教の部下を失い感無量にして当時の感筆舌に尽し難し。 

高橋 猛典(九〇一空飛行士、朝鮮元山)

 暑い日だった。基地内の山腹に造られた巨大な防空壕の前に集合させられ、終戦放送をきいたような記憶があるが定かでなく、また何だかはっきり判らなかった。間もなく元山市内の鮮人暴動の報あり、爆撃せよとの若手の意見もあり大分騒いだことを覚えている。数日後、月明の日本海を、列機十数機を率いて、小松基地に進出、そこで解散となった。

伴 正−(内海空副官、松山市青田湾)

 大分出張中。正午玉音放送聴取不良。夕刻五航艦司令部におもむく。幕僚室にて一幕僚つぶやく。「長官突入の頃ですな」翌朝内海を渡る。涙忸怩たり。

冨士 栄一(攻撃第5飛行隊流星隊、飛行隊士、木更津航空隊)

 8月14日頃、隊長薬師寺少佐(66期)と今後のことについてだべっていた。「隊長、そろそろ全員特攻をやりましょうや」の一言が印象にある。終戦は全く知らなかった。

眞鍋 正人(戦闘302飛行隊、飛行隊士 台湾)

 12日より連続4日攻撃待機中(24機を指揮、沖縄方面特攻、誘導、戦果確認、無事帰投出来れば翌日残存機全機爆装特攻出撃作戦)敗戦の報と共に緊張一時に緩む。飛行場を俳諧、散華の戦友を偲び感無量、悲しみの極か涙出ず、暑い午後だった。

森園 良巳(霞浦空、隊付兼教官、千歳基地)

 当時、74期飛行学生の先生をしていた。終戦の放送を聞いたが、翌日から再度猛訓練をやった。一号として三号の74期の少尉学生連中にお達示をした。「戦争はまだ終っていない・・・。」思い起して感無量。

山田 良彦(攻撃第3飛行隊士、名古屋)

 あと一〜二日で出撃の予定。

山下 武男(横空第2飛行隊、整備先任分隊士、国鉄藤沢駅)

 空技廠秦野工場への連絡のため出かけていた。「終った」という安堵感、虚脱感と併行して、われわれがしっかりしなければいけないという使命感のようなものがあった。横空に帰ってみると、長野の山奥への龍城計画が各隊で真剣に討論されていたのも今考

えるとほほえましい思い出です。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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