平成22年4月24日 校正すみ
昭和50年9月寄稿
終戦の想い出
加藤 孝二(偵察一〇二飛行隊士)
一 場所 八丈島
二 何をしていたか
トラックへ彩雲を出し、トラックから本土上陸の敵機動部隊の行動を偵察させる為の彩雲隊のトラック進出作戦の天候偵察と地上指揮(広瀬は硫黄島経由トラックへ飛びトラックからウルシー偵察を行い成功したが、後の偵察で戦死)。当時硫黄島が敵の手に落ちた為、八丈からトラックまで飛ぶのは燃料の極限で一度不連続線を越えるために高高度飛行を行うぐらいは何とかもつが、二度目の不連続線があるとトラックまでは燃料がもたない。そこで気象台の少佐相当の水路部担当官を乗せて八丈を夜間発進、黎明時父島硫黄島附近に進出、天候偵察報告をし、彩雲隊が発進することになった。またB―29の本土空襲の為敵がサイパン―日本の間の天候を報告するのを傍受解読しそれにより天気図を作り天候の予測をする為、予備14期の暗号士も八丈島にきていた。余談ながら14期の士官(確か2・3人?)が非常に張り切って徹夜で暗号解読天気図作製をやっているので、「貴様達の闘魂は買うが、生身の人間はそう続くものではない、スマートに要所をしめろ」と言ったが、「いや大丈夫です」と言って頑張っていたが、3日目か4日目にダウンした。それからは要領よくやっていたようだ。
天候偵察に出て高度三千米ぐらいからみる太平洋の日の出は雄大で同乗した気象官もうっとりしていた。「どうですか」と不連続線と南方の天候を聞いたのに「いいですなあ」と返事されたので「景色ではありません。天候の方です」と念をおした程である。
この作戦は彩雲隊が二本目の不連続線を認め、戻って来て、再行の為一度木更津へ帰ったが、小生は八丈島に残って地上指揮官をやっていた。 小灘が八丈島の回天隊の隊長(大尉で所轄長)。72期が彩雲隊にいると聞いて所轄長用の自動車で迎えに来てくれ、回天基地で御馳走してくれたこともある。
三、何を考えたか
前記天気図作製の為、敵の短波放送をきいていたので、長崎原爆投下あたりからポツダム宣言交渉をきいてモヤモヤしているかな、と思った。15日の放送は焼けつくような太陽の下でよく分らなかったが要するに負けたと言うことは分った。下士官が「飛行隊士どうしますか」と言って来た時、即座に「本隊へ帰る」と言った。宿舎でひっくりかえっていたら「出発準備終りました―と言って来た。いやその早いこと早いこと、いつもの2/3の所要時間である。基地隊には電話で挨拶し、ダグラスでその日のうちに木更津へ帰った。
下士官の話によれば八丈の陸軍は訓練をし、海軍の士官室はウィスキーを飲んでいるとのことであった。
大島上空で富士山を見、もう敵戦闘機も来ないと確認した時「これが飛び納め」と思った途端、言い知れぬ虚脱感が湧いてきた。
「どうにでもなりやがれ」と思った。
木更津へ着いたら富士の流星隊は午前中特攻攻撃をかけ、うちの隊では73期の小出中尉機が末帰還とのことを知った。午後特攻予定のクラスの門松の無事を喜ぶ気持もあったが、「むなしさ」が先にたった。
俺に分っていたことと言えば、やせ我慢でも何でも江田島出の軍人らしく出処進退しょうと言うことだけであった。まことにお粗末!