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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦秘話
八月十六日東京湾上の空戦

多胡 光雄 (横須賀空・横須賀)

旧式零戦三二型の整備急げ

その日、八月十六日も関東地方は朝から真夏の太陽がぎらぎらと地上を照りつけ、昨日と変らぬ暑さであった。早朝から、汗にまみれながら試飛行の準備に精を出している整備関係者に、俺は何回となく調子を聞きに行っては、その都度がっかりして指揮所に戻ってきたのであった。
「零戦三二型」は、なかなか整備完了とならないのだ。昨日正午からの、大東亜戦争終戦に関する玉音放送があった後も、わが横須賀海軍航空隊戦闘機隊は、保有する十八機の戦闘準備作業に、全力をあげて取組んでいた。むしろ、講和条件を有利にするためには、一機でも多く戦力化をする必要があるとして、それまで訓練用としてのみ使用していた旧型機についても、実戦に使えるよう装備の変更を急いでいたのである。即ち、燃料をハイオクタンガソリンに積み替えてエンジンを調整し、訓練用銃弾を抜いて実弾を装填し、更には高々度飛行に備えて酸素マスク、ボンベの取付けなどである。

既に保有機の大半は、昨日の中に試飛行を完了していたが、「紫電改」 「零戦」各一機は整備が間に合わず、八月十六日に持込されていた。そして飛行隊の全員が一刻も早い試飛行完了を、待ち望んでいたのである。

二十年三月末、艦爆操縦から戦闘機乗りに転向して横空に居た俺は、飛行士として自ら搭乗割を決める立場にあった。そして誰もが乗りたがらない旧型機零戦三二型を自分で引受けて、今か今かと整備完了を待っていたのである。

漸く整備完了の報告を受けて、急ぎ試飛行に離陸したのは十時を少しまわっており、分隊長塚本大尉が搭乗する「紫電改」が飛立ってから、五〜六分すぎていた。

「かも」が三羽北上中

エンジンの音も快調に、ぐんぐん高度をとって約六千米に上昇した頃、地上指揮所からのいく分興奮した無線電話の声が耳に入った。「かもが三羽、館山上空を北上中」と、二度繰返して叫んでいるのだ。「かも」とは敵機のことを呼ぶ暗号である。試飛行中の俺にとって、予期せざるその呼びかけが何のことか、一瞬ピンとこなかった。

しかし、その後に続けて、「かもを見付けたら打ち落とせ」との命令がはっきりと聞えた時、やっと事の次第が理解できて、思わず身心の緊張するのを覚えた。

われわれが戦力確保に努めているのと同様に、敵も又、戦争終結の放送が行われた後も気をゆるめずに、わが本土に攻撃をしかけて来たのであろう。ここで痛い目に合わせ、日本航空戦力あなどるべからずと、思い知らせてくれよう。そのような思いを、この時しっかりと胸に抱いた俺は、はるか東京湾の南方へと眼を走らせた。と、まぎれもなく単縦陣で連行してくる大型機三機を、俺のこの眼が確かに見とどけた。

白鳥のように美しいB32

その光景は、今思い出してみても実に美しい眺めだった。目に映るのは東京湾の青であり、房総半島の緑と、そしてちぎれ飛ぶ夏雲の白さが目にしみる。その中を、大型機がたてにきちんと列を作って飛んでいる。機体は強い太陽の光を浴びて、銀色に輝いている。高度は約三千米位で、俺の位置からは斜め下方に見えるので、あたかも池の中をスイスイと尊いでいる白鳥のように、華麗そのものの姿であった。当時見慣れている味方機は、すべて上面を暗緑色に塗装してあり、キラキラと光るジュラルミンそのままの機体は、特に印象的であった。

ただ、同じ大型機ではあるが、いつも来ていたBー29とは少しちがうのに気付いた。まず全体にスマートさがなく、ずんぐりしている。特に方向舵がひときわ大きく立上って見える。これは新型機のようだ。あるいは、かねて第一線に配備されたとの情報があった、B―32であろうか。(後でその通りであることが確認された。)

このような思いが頭の中をかけめぐる中に、ようやく気をとり直した俺は、敵機に遭遇している現実に戻った。見かけは美しい姿であるが、あの中は憎き敵の野郎どもが、爆弾を抱えて乗っているのだ。必ずしとめてやるぞ、と攻撃の作戦を考えた。

単機で敵の一番機を襲う

先に試飛行に出発した塚本分隊長との協同攻撃を、と無線電話で連絡したところ、分隊長は位置が悪いため、すぐには攻撃態勢がとれぬとのこと。一方、俺の位置は敵針路の斜め左前方にあり、高度差も充分で絶好の攻撃進入路にある。「よし、独りでやっつけるぞ」と覚悟を決め、機首をめぐらせて敵に接近していった。

敵機は浦賀水道の上空を、相変らず北上中で、その隊列には変化はなく、気付かれた様子もない。攻撃目標は、当然のことながら一番機と定め、敵の集中砲火をさけて、真上からの垂直降下攻撃によることにした。

敵機との関係位置を、左主翼前縁とエンジンカバーとの間と見定めつつ、緩降下で速度を増し、急いで攻撃地点に向う。予て訓練で体得している通り、敵のやや前方上空のここぞと思う地点で、左に大きく垂直旋回に入る。更に、敵を見失わないよう機首を突込み、次第に背面気味で接近する。 直上方になる寸前まできて、グイと操縦桿を引く。オペル照準器に敵影をとらえると、巨大な姿がグングンと目盛の中で拡がってくる。有効射程五〇〇米と見定めて、操縦席を狙い機銃の発射レバーを握る。二十粍と七・七粍の曳光弾を交えた実弾は、試射をする間もなく打ち出されたが、確実に敵機に向って行った。俺は初めての実戦に、身体中が熱くなるのを感じながら、必死になって追尾し、発射し続けた。

エンジンに命中 黒煙を確認

 「やった〃」敵の右内側のエンジンから、パッとまっ赤な光を発し、もくもくと黒煙が吹き出した。なおも致命傷を与えるべく、発射し続けたが、次第に後上方攻撃の形となってくる。敵からの攻撃による被弾のおそれもあると、一旦攻撃を中止して下へ突込んだ。

今度は、後下方からの攻撃で止めをさすのだと、暫時視野から外れていた目標に向けて、おもむろに機首を上げてみて、「アッ!」と思わず驚きの声を発した。敵機は左旋回して、こちらへ向いつつあるのだ。エンジンに被弾して、急ぎ引返す様子である。その時の俺は、丁度前下方よりの攻撃を仕掛けるのに、誠に以て具合の良い位置にいた。距離もよし。すぐさま照準器に捕えて、再び発射レバーを握る。「ダダダッ」と発射音を聞いたのも束の間で、「カチャッ」と、機銃の作動は止ってしまった。「しまった、故障だ。」と、その時の無念さは、今でも忘れられない思いである。もう少し射つことができたら撃墜したであろう、絶好の攻撃態勢であったのだ。

とに角、速かに帰投してもう一度出直すしかないと、滑走路へ急ぎ向きを変えた。

着陸滑走中に左へまわされる

俺は当時、なりたての大尉で、年は二十一歳、まだ若かった。初めての実戦を経験したのだ。しかも、試飛行に飛び上った時に出合った、予期せぬ初陣である。心の平静は望むべくもなかった。機銃が止った瞬間、故障したと判断したのは、そのためだったようだ。着陸誘導コースに入る頃、やっと気がついた。三二型は弾丸数が少ないのだ、止ったのは打ち終りなのだと。

さあ、無事着陸し、一刻も早く弾丸を補充して再び敵を追うのだと、慎重に着陸コースに入る。微風に向け、海側からの着陸は慣れたものだ。しかし、油断してはならない。初陣の興奮と、再出撃のあせりと、それらが失敗の元となりかねない。軽いシッヨクで接地してからは、一層真剣に操縦した。徐々にスピードが落ちてきて、このまま停止すれば満点の着陸だと、ほっとした瞬間である。機体がググッグと左へまわされ、やがって斜め後ろ向きに停止した。

 幸い脚を折らずに済んだものの、誠にお粗末なことをしてしまった。73期の分隊士や、下士官、兵、それに整備員たちも見ていたであろう。恥かしい。そのような後悔の念に一瞬おそわれたが、すぐ気をとり直した。そして、格納庫へ向けて出ようとエンジンを吹かしても、どうしても左へまわる。右車輪ブレーキをいっぱい踏んでも、まだ駄目だ。そこで機体が左に傾いているのに気付いた。着陸を失敗してまわされ、パンクしたのか。あるいは地面の凹みに入ってしまったのか。何れにしても自力では帰れないので、電話で牽引車を頼み、応答を確認してからバンドを外し、地上に降り立った。

被弾状況を見てびっくり

まず、左車輪の状況如何にと、機体の前へ回って見るとやはりパンクしている。次いで顔を上げると、左主翼の前縁に孔があいているのが目に入った。やられたのだ、そう気付いて良く見ると、そこは丁度引込脚の車輪が入るところの前面である。ただ、孔の形が横に長いのはどうしてか。更に、ほかにやられた処はないか、そう考えて、ぐるりと眺めまわしてびっくりした。

エンジンカバーの左側中央部にも、被弾した跡がある。そこは凹みだけで、孔はあいていない。すると、そこで跳ねて主翼前面に向い、斜めに貫通して車輪をパンクさせたにちがいない。そう断定できた。そして、そのような敵弾の当り方が極めて幸運であり、少しでもそれていたならは、東京湾の藻屑となっていたであろうと気付き、あらためて身ぶるいをしたのであった。

例えば、少し上方に当ればそこは操縦席であり、俺の身体を打ち抜いたであろう。左方に寄ればエンジンがやられる。右ならば翼の燃料タンク、下方なら胴体タンクがあり、一瞬にして火だるまとなってしまう。あるいはパンクと同時に脚を出す装置がやられれば、胴体着陸の危険を冒すことになったのだ。

このような危険ポイントを旨く外れていてくれたとは、俺はついているぞ。それにしてもパンクを直さなければならず、再び飛上るには少々時間がかかる。もう一度敵機を追うことは不可能かも知れぬ、残念だなあ、と口びるを噛んでいるところへ牽引車が到着した。

 

指揮所で僚機の活躍を祈る

その頃、漸く暖機運転を終えた十数機の僚機が、相次いで離陸地点へ向けて動き出し、一機、また一機と、先を争うように豪音を轟かせて飛立っていった。頼むぞ、俺がやり損った一番機を、誰か必ず撃墜してくれよ、俺はそのことを深く念じつつ、指揮所へ戻って行った。

(追記)

一 当夜の米軍放送は、三機が東京方面偵察に行ったところ、日本戦闘機の攻撃を受けた、と発表している由。

二 一番機は被弾のため反転し、全速力で南下してしまったので、僚機の攻撃は間に合わなかった。

三 他の二機は、そのまま北上して東京上空に至り、大きく右旋回して銚子附近を通過して帰途につい た。僚機はこの二機を全速力で追いかけ、一部は攻撃をかけることができたが、成果はなかった。なお敵も最大速力で逃げたようで、思いがけぬ攻撃を受けた驚きようが想像される。

四 その夜、横穴防空壕の中にあったベッドに入ってから、何時ものように「五省」を唱えた。そして強 い後悔の念にとらわれたことを、今でも忘れることはできない。二度目の攻撃態勢は、前下方からの「体当り」に絶好のものであった。機銃が停止した時、何故体当りして撃墜しなかったのか。俺はとり返しのつかない失敗をしてしまったのだ。そのことにあらためて気付いて、その後暫くの間悩んだものである。

五 戦争犯罪人という、敵国側からの摘発が行われるようになり、終戦宜告があってからの戦闘行為についても、何等かの罰が加えられるのではないかと、誰にも話さぬようにした。講和条約が結ばれた頃から、少しずつ話題にするようになったが、それも極めて限られた範囲である。終戦後三十年経過した今、編集者押本君の切なる注文に、やっと応えて執筆した次第である。

六 敵の一番機の搭乗員で、現存しておられる方がわかれば、連絡してみたいと思う。

今となれば、お互いに忠勇なる軍人としての立場を理解して、懐古談としての話題に笑って応えられると思う。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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