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平成22年4月24日 校正すみ

幼な子らの戯れに泣く

後藤  脩 (蛟竜・高雄)

メートルがぼつぼつ上って、今夜は、この妓とストップ、という折りしも「お使いさんですヨ」。オンボロのフォードで駆けつけた従兵が手にしていたのは、台湾240マイルに敵機動部隊発見、速力20ノットで西進中、との銀河偵察報告 ― やっときたか ― 昭和20年8月14日の宵、ところは左宮の海軍倶楽部でのことである。

マ二ラへ進出の途中、にわかに高雄止まりに命令変更、その高雄到着が敵機動部隊の空襲と鉢合わせし、甲標的と予備魚雷だけは難を免れたが、兵員の一部と工具類を含む基地資材の一切を失い、その埋め合わせをしながら、なんの受け入れ用意もなかった高雄での基地設営には苦労した。沖縄戦が始まってからは片道攻撃〃を考えたが、警備府司令部が許可しなかった。しかし、基地をどうやら機能するまでに整備したあとになると、敵のくるのを待つだけでは、いささか手持ちぶさたで、クラークフィールドから飛んでくるB29の定期便〃で高雄市内が灰になり、ただ一軒、要港側の左営地区に残った海軍専用レスに、せっせと通う身分となっていたわけである。

基地へ取って返すや、出撃用意。一剣を磨いたのは、ただただ、この時のためである。星あかりの下で用意万端は整い、その場に休め。警備府配下に魚雷艇隊、震洋隊もあるが、順序からいって発進一番手はわが蚊竜隊に決まっている。だが、司令部からはそれきりなんの音さたもなく、やがて夜が明け、ジリジリして待つうちに、本日正午から天皇陛下の玉音放送がある、という。乗組員や整備員は艇のそばを離れられぬため、軍医長に兵舎へ戻って放送を聞いてくれるよう頼んだが、小笠原方面にも日本本土を指向する敵の大艦船群が行動中とのことであり、台湾沖と合わせ、敵の総攻撃が始まり、これに対する、わが一大決戦の号令が直接、天皇陛下から下されるのであろう。ぐらいが、精一杯の想像だった。しかし、正午を過ぎて、岩壁に姿を現わした軍医長はただオイオイと泣くばかり。とぎれとぎれにしか聞き取れないが、負けたんだ、ということだけはわかった。

戦勢とみに不利にして、勝てる望みはないとしても、絶対、相打ちには持ち込まねはならず、そのために最も効果的な身の捨てどころはどこか、という以外には念頭になく、生き残って戦争を終える、ましてや敗戦を迎えるなど夢にも思わなかった。

 生きながらうべきか、べからざるか。部隊の長として、少なくとも隊員の当面の身の振り方に責任はあり、まず基地要員と現地編入した台湾籍の隊員を除隊させたうえ、内地から行を共にしてきた乗組員、整備員の内地送還に必要な残務整理にかかっているうち、大陸沿岸の島に渡り、南シナ海の海賊になろうか、とも考え始めたり、いずれにしても、折りを見て、わが身の処理をつけるつもりだった。

そんなある日の夕のこと、近くの震洋隊で映写会があるとのせっかくの招待なので、出かけて見た。野外スクリーンには、なんということもない前線慰問映画が写されていただけだったが、突然、四、五歳ぐらいか、幼な子たちの群れが降り注ぐ陽光を浴び、喜々としてブランコなどに戯れている場面になって、涙があふれ、とまらなくなった。戦い敗れ、国亡びて、この幼な子らはどこにいけばよいのか、この子らを守る五体満足なおとなは日本にどれっているのだろうか

それから、高雄港外の機雷掃海や陸海軍在留邦人の送還をすべて済ませ、自ら再び日本の土を踏んだのは翌21年の4月半ば。

その間に、復員輸送艦で高雄に寄ったクラスメートから母と弟の健在は知らせてもらったが、顧みて、今日ここにあるは、やはり、あの慰問映画の幼な子らのためだったといえるだろう。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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