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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年9月寄稿

終戦の想い出

足立 英夫 (蚊竜艇長・大浦基地)

 

 小生終戦は五人乗りの潜航艇の訓練基地で迎えました。潜校普通科学生を終えて暫時潜校に居残った関係で、大浦の蚊竜基地へ着任したのは終戦も間近い二十年七月の下旬だったと思う。二十期の艇長講習員が編成され、漸く訓練が軌道にのり出し、月月火水木金金の訓練が始められ、油ののって来たところで終戦となった次第であります。

 終戦の八月十五日は朝からよく晴れた暑い日だった。正午総員集合がかけられ、玉音放送を聞いた訳だが雑音が多くて全く内容が聞きとれず、丁度一〜二日前に決号作戦発動があったようで、あわただしく準備出来た艇から、三机や佐伯へ進出展開を始めていた。

 玉音放送のあと隊長だったか、当直将校だったか覚えていないが、「今や戦局は陛下の大御心を悩まし給うやかくの如し、我々は一死奉公云々」の訓示があって散会となり、出撃準備は一層ピッチがかけられた。

  終戦の放送だったこと、何となく様子が変だとわかったのは翌日になってからで、そう言えば一度も空襲警報はないしと思うようになってからだった。

 終戦の放心と虚脱と、なるようになれと言った気拝と、戦死することは意識していたが、夢にも終戦など生きているうちにはないと思っていたことなど、何をしたらよいかわからなかった。

 ただ残念だったことは、蚊竜、回天、海竜と潜水特攻部隊が強化され、水上艦艇は壊滅したとは言え、それ以上の戦力がここに蓄えられて来たのに全く不発に終って失ったこと、一発敵艦の沈めることのみに気力が集中して来たのが一度も出撃すら出来なかったことだった。

  原子爆弾の情報もいろいろ耳にしていたことから、今に近い将来原子頭部をつけた魚雷を小型の原子動力潜航艇が出来て高速で水中を駈け巡り、アメリカの大艦をやっつけることの出来る時が来るかも知れぬ、それまでひそかにそういう研究をやりたいものだとも考えた。

  終戦から三十年、今にして憶えば、全く非常識なこと、矛盾だらけのことすら真剣に考えたものだと思う。わが人生において、戦争の経験、また海軍時代のいろいろのことが如何に重大なファクターをなしているか。この悔なき青春を今の若い世代の人に伝えようとしても、子供にすら伝えられない。これが偽らざる昨今の心境である。

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