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平成22年4月20日 校正すみ

水上特攻隊

小島 末喜

コレヒドールで戦死した松枝 義久 震  洋

水上特攻隊の最後は余り報道されていないので次に記す。わがクラスは、

隊 名 氏名    場所 備考
第 2 松枝 茂純 父島
第 4 香西 宜長 母島
第 5 白川  潔 父島
第 8 石井 澄男 レガスビー
第 9 中島 健児 コレヒドール
第12 松枝 義久 コレヒドール
第13 小島 末喜 コレヒドール 備考 参照
第21 竹内  泉 高雄
第22 豊廣  稔 中城湾
第24 若松 禄郎 馬公
第25 和田 恭三 馬公 基隆
第28 浦本  生 高雄
第30 堀田 正元 高雄
第40 小島 末喜 喜界島

備考 小島は最初コレヒドールに向かったが、進出途中輸送船沈没。
その後喜界島に配属された。
部下はコレヒドールで玉砕

日本海軍敗色濃く、サイパン落ち、飛行機の生産不足、人間魚雷も僅か150名で訓練中、大量生産のきく水上特攻艇しかなかった。

震洋艇(C艇)は爆薬を装備して、敵艦に体当りする木造の小型高速艇で、7,000隻が西太平洋全城に配備され、コレヒドール島沖で米艦船4隻を撃沈した他、沖縄でも困難な状況のもとに特攻攻撃を敢行した。

以下はコレヒドールにおける松枝部隊の戦闘を同部隊基地員であった染谷昭吾氏の手記の抜粋によってお伝えする。

 

「染谷昭吾氏の手記」

我々の部隊は横須賀水雷学校での猛訓練を終了し、神福丸2,700屯の中型輸送船に乗船、田浦出発は191016日でした。搭乗員50名、基地員100名、整備員35名から編成されて居りましたが、仲の良い事は他の者が羨む位のものでした。

船の勤務中、搭乗員の役割は実に大きなものがありました。見張りは勿論、電波の受信、手旗信号、旗流信号等若い元気な予科練出身の搭乗員達はてきぱきと仕事を完了していきました。

船員達の解らぬ発光信号など驚く程機敏に次から次へと(さば)いてゆく其の腕達者には船員達の驚きであり叉感激でもありました。

一刻を要する敵潜の発見など一秒を以て勝負が決せられる海原での戦闘に、どれ程搭乗員の若い力は貢献したか知れません。

基隆港に無事入港、3日の休養があり、又高雄港まで沿岸添いに航走、この航海も恙(つつが)なく高雄着、3度船団を組み直して、比島マニラ市へと向いました。その間済州島沖と三池出航後と2度敵潜の攻撃を受け、数隻沈没、船団は乱れて速力の遅い神福丸は単船で基隆港迄辿り着きました。

途中、かのバーシー海峡において、またもや敵潜の攻撃を受けてしまいまして、その攻撃の凄い事は言葉に言いあらわせないものがありました。

しかし全員協力一体となって戦闘する本船のみは、目前に撃沈される友船(小島注、小島の率いる隊はこの時沈んだ)を見みながら、かすり傷一つ負わなかったのです。たった1隻のみとなった本船は、あまりの敵潜の猛攻に進路を阻まれ、海峡の中央に位する名もない1環礁に一時待避し、此処でも陸兵300人、海兵150人を救助し、約1週間休養、再び環礁を脱出し、マニラ市へと進みましたが、サンフェルナンドと一ロンバックという市の中間の海上において、今度はグラマン艦載機6機の攻撃を受け船橋は吹飛され、機銃弾は霞の如く甲板を叩き続け、戦友の猛射撃もこれに負けまいと対抗し、実に6時間にわたる海上激戦が続けられたのですが、この戦闘で15名の第1回戦没者をだしました。明くれは1116日朝より、昨日よりも多い敵10機編成のグラマン機が2組現われ、同じく攻撃して来ましたが、この時はマニラの警備隊からの援護射撃があり、何等の被害もなくやっとの思いでマニラ岸壁に着くことが出来たのです。その夜の中に兵器を始め酒保物品などを徹夜して他の小艇に積み替え、コレヒドール島守備の任務に着きました。マニラ市へ最後に着いた船団は実に私共の神福丸であり、マニラ警備隊員もまあ無事でよく来て呉れたと非常に喜んで呉れました。

コレヒドール島は緑のネムの木が道路を掩い、紅い熱帯花がちらほらと咲き、友軍の弾片が樹木に止まっていたりして激戦を偲ばれる所で、夜ともなれば、トッキ、トッキとトカゲが鳴いて一寸気持ちが悪いですが、何となく、平和で静かな気持ちのいいところです。初めは同島の(地図で言えばオタマジャクシの頭に当る所にある)元敵兵の居た兵舎を改築して守っておりました。

其の頃レイテ島に敵の攻撃烈しく、敵のデマニュースがラジオに毎晩入って釆ました。野郎共何を言ってやがるのだと皆の士気益々旺盛でした。搭乗員も朝早くからマル四兵器の格納壕を造るのに余念がありません。

昭和19年も何事もなく送り、20年の正月は朝から元旦だというのに「トラック」で壕掘りに海岸に出掛けたのです。でも夜はビールも酒も搭乗員の大好きな大福もたくさん出て、ご機嫌になった皆は、震洋隊の歌を唱って大いに張り切った正月を迎えました。

1月も去り、2月初旬よりミンドロ島に敵機動部隊上陸せりとの報に接し、我々は何時でも来てみろ。我に秘密兵器マル四あり、今迄の苦労の報いる秋は来たのだ。尊い國の戦友よ、君達の仇はこの俺達が立派に討ち取ってやると戦機の熟するのを心待ちに待って居たのです。

2月13日いよいよニュースは飛込んで釆ました。

「敵機動部隊.リンガエン湾に上陸せり」

「敵5個師団、リンガエンの我部隊の猛反撃に退却中。敵空母5隻より成る、機動部隊北上中なり」.

等々次から次へと忙しくニュースが入ります。成程双眼鏡を手にしてみれば、黒煙濛々として、コレヒドール島沖合を30隻位の船団を組み堂々と北上して行く。歯がゆくなるが味方には飛行機が1機もないのです。2月上旬6機編成の攻撃機が飛んだのを見たのが最後の姿でした。

陸軍最高指揮官山下大将はマニラ市よりバギオ市の方へ待避して居り、マニラ警備隊海軍最高指揮官岩淵三次少将は寄せ集めの兵員を集め、一万の兵力玉砕を覚悟し、海軍の面目にかけても一兵になるまで守り抜く固い決心をして居りました。(数日後焦土と化して玉砕、クラス土井輝章はその中隊長として奮戦、戦死)

情況は日増しに悪くなって行きました。空を飛ぶ飛行機は、全部青い星のついたものばかりで、コレヒドール島は毎日朝から夜遅くまでB-24、B-25等の編隊で道路を片っ端から破壊され、兵舎も粉々に粉砕されてしまったので、桜隧道に待避することになりました。

壕の中は待避者の約4,000人(海軍1,000、陸軍1,000、軍属2,000)が集結して眠ったのです。

昼は友軍の高射砲や機銃が火を吐いて大いに対空戦闘をやったのでしたが、其の甲斐もなく、次から次へと砲は破壊され、頼みとするはマル四兵器只一つとなってしまい、松枝部隊に課せられた使命は誠に大きなものとなっていたのです。

対空戦闘においては、200人位の犠牲者を出し、コ島主計長戦死を始め、将校も次第に尊い人柱となって行きましたが、搭乗員たるや呑気千万なもの、早く敵と一騎打がしてみたくて仕方がない者ばかり。いつ出撃するのですかと腕さすりするのに将校も頼もしい微笑を返すのです。其の待ちに待った日は遂に来ました。

忘れもしません。2月16日午前10時『震洋隊松枝部隊は、スピック湾内に居る敵船団を撃滅すべし』の命令が出ました。喜び勇んだ搭乗員達は早速出撃の白装束に着替え、別離の酒杯を終え、時刻が来るまで寝ることになったのです。中には高鼾をかいて居る者さえある。何処の国の兵が今出撃せんというのに高鼾を立てて居る者があるでしょうか。

私はこの胆力ある限り成功間違いなしと思ったものです。例の如く予科練のマスコット、搭乗服に搭乗靴、背中に日本刀を.一本うち込む者もあり、拳銃1挺、弾薬40発、手榴弾3個、食糧3日分、これだけを携帯して頭には日の丸の国旗を鉢巻して、見るからに勇ましい出撃の姿です。

いよいよ時刻は来た。「出撃用意」伝令は飛んだ。基地員、整備員はマル四艇出撃のため、艇の搬出に暗黒の中に消えて行った。

「シッカリ頼むぞ」「ハハハッ、大丈夫さ」遊びにでも出て行く様な気楽さでありました。

見送人の中をマル四兵器に乗った搭乗員達は皆ハチ切れるばかりの元気で.ニコニコ笑って敬礼をして居る。どうしてあんなに笑って嬉しそうなのだろうか。死期を.眼前に控えて其の死生観の徹底して居るのには全く敬服する他なかった。成功して呉れ、幾多の戦友の仇を討ってくれ。私は心の中で両手を合せて、成功を祈りました。

今迄生死を共にして来たのに、一方は搭乗員、しかも特攻隊員として今出撃し、一方は基地員として、上陸せる敵と闘かはねはならぬ。これがお互いに最後の別れとなるかも知れぬと思えば.一緒にマル四艇で行きたい気持ちにかりたてられた。

「デハ元気デナ」 「ウン 大戦果ヲ挙ゲルカラ山カラ見トレヨ」 「山カラ俺等ノ戦果ハヨク見エルカラナァ」 「シッカリ頼ムヨ」等.最後の別れの言葉が言い交され、出撃の命下るや黙々としてマル四艇は艇長を先頭にして、暗黒の内に其の姿を没して行った。

私共は山に登った。

一時間たっても何の音沙汰もない。

成功を半ば諦める嘆息が出た頃、「ダダーン」物凄い地響き。見よ 見よ 北天高く紅く炎が真っ赤に燃え、夕焼け空よりも尚紅いではないか。「ウワァヤッタ」雀躍してよろこぶ皆。又しても「ダダーン」「ダダーン」次から次へとマル四艇、的中の爆音は我々の鼓膜を痛い程打つ。「凄いナァ」と前の者を力一杯叩いたり、互いに手を握り合ったりする者、皆の眼は嬉し涙が止めどなく流れた。

「苦労した甲斐が有ったナァ」

「これで死んだ戦友も仇を討ってもらった訳だネ」

「しかし搭乗員は矢張り偉いナァ」

「本当にナァ」

北の空は紅く照り出され、敵の巡洋艦が熔けた鉄の如く、真赤に燃えているではないか。次の大型輸送船も真っ赤だ。次の艇も逃げる船団を追いまくる。

「ざま見やがれ」誰言うともなく、小気味よい啖呵(たんか)が飛ぶ。湾内の敵船団は全滅である。ああ、何と言う大成功であろう。大本営発表が聞きたい位のものだったが、其の成功の蔭に還らぬ部隊長以下50名の搭乗員の英魂がある。

 松枝部隊の戦闘の状況を大雑把に書きましたが、このように実に立派なものでありました。残念なことにこんな敗戦国として戦果を発表出来ない事を残念に思っている次第です。

(なにわ会ニュース1911頁 昭和45年2月掲載)

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