平成22年4月18日 校正すみ
比島台湾に散華した戦闘機期友を偲ぶ
藤田 昇
クラーク・マバラカット地区航空戦
清水昭君(武の弟)記す「無名の碑」を拝見、感激の余り 30年前の悽惨苛烈な比島クラーク・マバラカット地区航空戦での、期友消息を思い出すまま、この筆不精の小生が「なにわ会ニュース」に初めて寄稿致します。
時は昭和19年も押し迫った12月10日、601空で編成された神武隊30機、予備6機、計36機(直掩零戦12機、戦爆零戦12機、誘導彗星6機)は70期青野 豊大尉を隊長として、直掩の小生及び爆装の園田 勇(機)、そして予備機空輸役の岩下泉蔵等と共に、上海、台湾経由12月中旬、比島に到着しマバラカット西飛行場の201空に編入され、休む暇なく翌日より航空作戦の渦に巻き込まれて行ったのです。
当時マバラカットは特攻攻撃発進地であり、飛行場より自動車で10分ぐらい離れた町の中にある民家借上げの宿舎は、ごったがえしの状況で、士官搭乗員の手回り品が山程あり、よく見ると懐かしい期友の記名入り落下傘バック(衣類他を入れトランクの代用として使用)がいくつか見出せた。大森 茂、片岡啓造、神 正也のもので、既にセブ方面に出撃した由。
バックより時計2、拳銃1を取り出し、機会があれば手渡そうと思ったが片岡は既に戦死したと聞き、しばし思いを神池空での練習機時代に馳せ冥福を祈りつつ、その儘になってしまった。
12月末までに特攻索敵攻撃5回、サンフェルナンド陸軍輸送船団上空直掩1回、B24、P47迎撃3回、空中退避3回を実施したと記憶している。神武隊は201空編入と同時に大義隊と改めて命名され、601空(母艦部隊)組は少し技量が良いとのことで攻撃目標を機動部隊に限定された。
然し5回も比島東方洋上の索敵に出撃したが、全く機動部隊を発見出来ず、内1回は約300浬進出、洋上でF4F 4機と遭遇し、爆弾を捨て劣位空戦を演じたが、敵の技量未熟の為か燃料欠乏の為か、双方とも戦果無く基地に帰った。
又、別の攻撃時、敵を発見出来ずルソン島中部にあるエチアゲ基地に着陸した際は、洋上での爆弾投下を忘れ、陸地ジャングルへ投下してしまい、投下地点が基地の至近地だった為に、基地では敵襲と思い込んだので着地に手間とったことがあった。
その時同基地に丸山 隆がおり、当夜は粗末なカンテラを囲み、彼秘蔵のサントリーでささやかな忘年会をやり、共に明日を知れぬ命を語り、また攻撃方法を研究し合った。童顔の彼は至純崇高の信念を内に秘めた態度であった。1週間を出でずにリンガエン湾の敵機動部隊に突入したと聞く。
19年12月27〜29日頃、内地と元山空より2〜3の期友が、予備学生や予科練出身者と共に特攻の命を受け、当マバラカットへ到着し、数日間起居を共にした後出撃し散って行った。
元山空より福山正通が12機編成で飛来、(指揮官71期金谷大尉)、部下とも極めて元気であった。彼は陽気だった神池空時代に比し少し無口になっており、悲壮な決意を胸に秘めていることが窺われた。
年が明け昭和20年元日早々、B24の定期爆撃が始まり兵力を温存する為空中退避を実施する状態であった。201空の兵力が少し整ったかと思われた時、突如として敵大機動部隊がリンガエンに来襲して来た。この部隊に対して、在比島航空隊戦闘最後の機会と司令以下全員決死の覚悟で当るべく、またクラーク地区制空隊もこれに呼応し、死に物狂いの攻撃をリンガエンの敵部隊に対して行った。
当時マバラカット在期友左の如し。
清水 武、細川 孜、山崎州男、吉盛一己(機)、園田 勇(機)、福山正通、藤田 昇。
ルソン島中部のエチアゲに
丸山 隆、遠藤晴次
ネグロス島シライに
粕谷仁司、眞鍋正人
吉盛は拳銃暴発により左大腿骨貫通傷を食らっており、やっと歩行していた。
零戦出撃可能機数は、21型、52型合せて40〜50機あり、1月5日を期して最後の総攻撃を開始した。然し5日、6日の2日間で攻撃はほとんど終了し、攻撃機数と同数の搭乗員はリンガエン湾奥深く、水漬く屍と散華し再びフラップを出し、脚を出し、基地に着陸することは無かった。
小生も6日早朝、1航戦で編成した最後の攻撃隊出撃に、直掩の任務を受け、爆装隊18機(70期青野大尉指揮、園田 勇を含む)の護衛・戦果確認として加藤上飛曹と2機で爆弾でなく増槽タンクをつけ出撃した。
18機の攻撃隊に2機の直掩とは何とも心細い限りであった。小生搭乗の零戦は、内地を出た時の新52型完全装備機でなくて、射速の遅い一号20耗機銃は装備されていたが、無線も何も無い元山より持って来た21型旧型練習機であった。
18機の唯一の心のより処であり、また志気を鼓舞する為、隊長機の後上方にバリカン運動でぴったりと付いて行ったのだが、オンポロ機の哀しさ、どんどん上昇するにつれて爆装隊について行けず、リンガエンが眼下に見え高度3,000米になった時には、とうとう爆装隊の後方になってしまった。
速度を出そうとスロットルを全開しても、機は遅れるはかりで200Mぐらい離されてしまい、2番機も前のめりになる始末。仕方なく隊長機の下にもぐり込み急上昇で右横下を通り抜けた。隊長は手を振ってくれた。園田は小さいバンク(翼を傾ける)で2度、3度最後の別れを送ってくれた。吾にかまうな、戦果確認はしっかり頼むと言う意味だろう。
改めてリソガエン湾一帯を見渡すと、西方水平線上に大型空母らしきもの10隻、巡洋艦らしきもの数十隻、湾中央部に駆逐艦多数、眼下に攻略部隊2群、輸送船80隻ずつの160隻2列縦隊は左右に巡洋艦8隻を護衛につけ、さしもの広大なリンガエン湾も、所狭しと敵艦で満ちていた。
何たる敵の陣容、何たる敵の戦力か!
それに引替え味方の無にも等しいこの微力。然し敢然として期友園田 勇他特攻隊は豆粒の如く小さくなり、西方水平線上の敵母艦部隊へ突進して行く。わが機は高度上らず速力が出ず、心の中で成功を祈った。
離陸前に司令より命令として「直掩はどうしても帰って来い。戦果の確認が大切だ。」と言われていたので、思案の末、バギオの山岳地帯より湾内を一望する事とし、列機と共に進路を東にとった。丁度先の輸送船団上空である。
時に1隻の巡洋艦後部砲塔から、小さな爆発が望見された。正しく体当りの瞬間である。しかし変だ。吾を忘れ確認の為、それに向って急降下に入った。甲板上に飛行機の破片らしきものが見える。250瓩爆弾の不発である。 何とも云い様の無い腹立たしさが込み上げた。その内に各艦の舷側が急に閃光を発し出した。
あれよ、あれよ、と言う間もなく機体は火の雨に包まれ出した。後方2番機はぴったり接近している。敵艦との距離は1,000米。案外心は平静を保っている。ここでどうすべきか。矢張り司令に従うことにした。
急遽反転、海面を這う様にして西進した。後方を見ると全敵艦が全砲火を吾等2機に指向して来る。ここで始めて非常な恐怖に襲われ出した。周囲は全て火の柱である。機は波頭すれすれ、腹の下を抜けた砲弾が波に当って跳弾となってゆっくり上昇している。
10条か15条。時々爆風でガクンガクンとする。一発も当らないのが実に不思議である。列機も無事である。やっと難関を突破した。また再び味方の攻撃が気になり、戦果確認の命令がひしひしと迫って来た。
意を決し再び上昇に転じ今度こそはと空戦を決意して準備にかかった。20耗の試射を初めて行う。調子良く出たが止まらない。僅か60発の弾は全弾を射ち尽くしてやっと止った。頼みの綱の20耗はもう無い。残るは7・7耗のみ。
この1月6日は比島の全特攻機最後の攻撃である為、何機出撃したかは分らないが、恐らく50機程度であるはず。私が確認した特攻機は不発の1機のみ。何と報告したらよいか、申し訳なくて涙が出そうであった。
その後約2時間リンガエン湾上空を旋回、目を皿のようにして戦果を探したが何も無い。上空は弾幕で真黒である。幸い敵戦闘機は来ない。先程の西方水平線上に黒煙一条を発見した。この黒煙一条、間違い無く先程別れた味方機のものである。わが機は自然とその方向に向いている。30分程で敵空母であるのが望観された。
OPL(照準器)に隊長や園田や列機の顔が浮んでは消えた。感傷は許されないのだ。2番機が近付いて来て燃料の心配を告げた。ここで帰投を決意し基地に向うことにした。高度は500米約1時間の航程である。この日天気は快晴風静かであり、リソガエン湾上空は未だ敵の対空砲火による弾幕で黒ずんでいた。
帰途低空で敵陸軍機9機と空戦を演じ地上の土で右青色航空灯を破損する状況になった。不思議なことに丁度その時敵機の腹の下に入る事が出来、九死に一生を得た。敵機はバンクを振り振り吾機の発見に努めている。こちらは一旋回して敵の後方に回り込みエンジンを絞った。
2番機は遥か後方で小生の空戦を見ている恰好になっていた。低空空戦で、9対1で撃墜されなかった例は恐らく珍しい。今もあの時は確かに先に散って行った味方の見えぬ加護であると信じている。基地上空に着いた時、まだ敵降爆機SB2Cが爆撃中であり、当方発見が遅れたので降爆中の真下を潜り抜ける形になってしまった。
距離50米敵搭乗員と一瞬ニラメッコとなり反航の姿であった為、追跡を受けること無く全速力ですり抜けた。
その後はマバラカットを流れる通称三途の川と言う川を、低空で上流へ向い約10分程行った所の断崖で失速反転してUターン、丁度敵の帰った後なので無事着陸した。2番幾は少し遅れたので降爆中の敵と交戦となり1機撃墜したが、昇降舵をやられ落下傘降下をして無事であった。
この日の直掩行は誠に奇跡の連続であり、無事帰って来た時は何かの見えない力を信ぜざるを得なかった。地上で清水 武から「お前は目がでかいから見張りが良いなあ」と言われたのを覚えている。21型の旧式機であったので旋回性能が非常に良かった為でもあった。
その後燃料を補給して、予備学生を主体とする一隊が編成され、6機を以って午後発進リンガンエンに向け不帰の攻撃に旅立って行った。この中には胸を病んで休んでおった13期の中野中尉が無理やり乗って出て行った姿が、今も脳裏に生々しい。中島中佐の記事にも出ている人である。
ここに改めて、吾期友同様13期予備学生諸君の勇敢であった事をお知らせして置きます。
無念の涙をのんだ航空作戦が中止され、全員比島陸戦部隊となるべく司令より訓示あり、靴等の支給を受け三々五々陸上戦闘の準備へ入ったが、1月8日突如搭乗員だけバンバン旭山司令部へ集合の令が下る。
この時初めて森山修一郎に会った。彼はマカラパットで兵器分隊長をしていた。二言三言「では元気で」とニッコリ笑って手を振って別れた。これが最後の姿である。
話は前後するが、1月3日頃クラーク基地で太田正一にも会った。彼は制空隊であり小生は特攻隊なので、小生等が601空よりの乗機とクラークにある爆装機とを交換する為、クラークに着陸、交換機で地上滑走中エルロン(補助翼)をバタつかせる者がいた。太田正一であった。
例によって紅顔可憐の美少年がニッコリ手を振っていた。エソジンを絞って「お前ここか」 「うんそうだ」 「おれはこの先だ」 「ではなあ」 「頑張れよ」と顔を横に向けながら話しをしたが、3日後矢張りリンガエン湾で制空隊でありながら敵巡洋艦に体当りしたと聞いた。
若しかしたら、私の見た巡洋艦への不発の体当り攻撃が、彼であったのではないか。多分その筈だ。彼の五体にこんな苛烈な攻撃精神があろうとは。
旭山司令部に集合して見れば、在比各航空部隊残存搭乗員が400〜500名集まっていたが、ここで搭乗員のみ転進との命令が発せられた。行先は分らないが内地だろうと噂していた。
その転出基地はルソン島中部のツゲカラオ基地と決められたが、およそ100浬あり、使用トラックは半分しか無く、この為ピストン輸送することになったが、先発トラックはそのまま直行してしまった。
後発部隊の苦労はおして知るべし。途中ゲリラに遭遇交戦、陸軍の世話になりあらゆる苦労を重ねて目的地に達した。
途中で川越重比古にサンホセ近くで偶然出会った。F4Uと交戦不時着し一昼夜程気絶していて気がついた時には、機銃がゲリラに外されていたと言うことだった。
ツゲカラオに日没後、台湾からダグラスが飛来し、プロペラを止める暇も無く50名宛乗組んで夜間台湾高雄に着く。2月上旬フイリッピン脱出組や内地より転進比島へ向ったが行先を失った部隊、南方よりの転進組等全て台中に集結した。比島に残った筈の玉井司令の顔があり、ここで205空が編成された。
この時程72期の戦闘機組が集ったのは初めてであった。列記してみると
満田 茂・山崎州男・粕谷仁司・細川 孜・岩波欣昭・清水 武・眞鍋正人・吉盛一己(キ)・藤田 昇 計9名。
この内、岩波欣昭・吉盛一己は、私の眼前でP47の攻撃を受け火災発生、2人共落下傘で脱出したが体に火がついており一本一本紐が切れ墜死した。台中基地西方紅東山麓である。
満田 茂・粕谷仁司・細川 孜は台湾東方洋上索敵攻撃に、各4機(直×2、爆×2)編隊の直掩隊長として出撃、発進後連絡無く未帰還でありその成果を知る可くもなかった。
山崎州夫は台南上空で直掩中P38と交戦戦死、満田と共に面白い話題の持主であった。 ひとしきり賑やかであった士官室もほんの2〜3カ月で、櫛の歯を引く如く静寂となり、眞鍋と2人だけになり、彼は台中または宜蘭、小生は石垣島と別れ終戦を迎えた。
以上薄れゆく記憶を辿りつつ私の見聞した比島台湾における戦闘機期友の最後の様子を、拙い文章で記しました。
何時までも消えることなく、正確に昨日の出来事のように脳裏に残っており、夢にまで出てくる二度と体験の出来ない事実であり、また勝利を確信して散華した期友戦友との心の通いが、今なおここに生きています。
箇条書戦時日記的に事実のみを列記致しました。大切な日付も一日か二日ずれているかも知れませんが悪しからず。
御遺族の方々に何かの参考になればと思い筆を取りました。
(なにわ会ニュース33号32頁 昭和50年9月掲載)