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平成22年4月18日 校正すみ

深く海底に眠る潜水艦戦没者の英霊に捧ぐ

(元伊58潜航海長)田中 宏謨

 

私は兵学校卒業後終戦に至る迄、僅か1年余の短い潜水艦生活で、誠に浅い経験しか持合せないのでありますが、その間、亡くなられた幾多の潜水艦戦没者の御霊に報いるべく、私の記憶する範囲において筆を執らせて頂きます。

潜水艦自体が穏密肉迫攻撃を主眼とする関係上、その行動について、特に高度の機密性を保持せねばならず、又、その作戦方式も水中を主体とするので、一端基地を出れば帰投する迄約1ヶ月有半、長い時は3ケ月に亘り、乗員が風呂に入らないのと同様、殆どその連絡を断つ為、必然その存在を世に知られること少なく、終始海軍の見えない苦労者として働いたのでした。 然し、潜水部隊は太平洋戦争の開始に先立つ事、約半月前より終戦後旬日に至る迄、あらゆる海軍作戦を通じて、西は遥か印度洋の彼方「アフリ力」東岸から東は北米沿岸に至る広汎な海域を股に懸け、遠く万里の波濤を乗り越えて、潜水艦乗員は全員特攻を以って任じつつ、海の尖兵として数多くの非力な点を克服し、只々国の御為にという一念に燃え黙々として敢闘し、米英海軍の心胆を随所に寒からしめ、海底深く水漬く屍として散華致しました。 

私は昭和19年4月下旬、当時呉潜水学校に保管安置されておりました佐久間艇長以下諸勇士の英霊に、手向けるが如く降り注ぐ桜花散る六号潜水艇の前に額づき、共に「シンガポール」より帰った齋藤徳道君等数名の同志とその将来を語り合いました。 

私は海軍兵学校第72期生として最初の潜水学生第11期普通科学生を命ぜられ、同校卒業後、比島沖海面の作戦には訓練未だ半ばにして参加致しませんでしたが、第2次玄作戦以降,硫黄島沖周辺の敵艦船攻撃、併せて丹作戦の(ウルシー)攻撃航空部隊の電波誘導、沖縄慶良間泊地遊弋の敵艦船攻撃、次いで本土決戦の先遣部隊として本土来襲敵機動部隊の攻撃並びに本土上陸敵船団の遊撃及び補給部隊の通商破壊と終戦に至るまで、相次ぐ前後4回の攻撃作戦に伊号第58潜水艦乗組員として参加致しました。

亡くなられた先輩諸賢及び期友の方々と短い日月の間ではありましたが、互に戦功を分ち、労苦を共にし、また、その出撃の姿を見送らせて頂きましたので、ここに潜水艦戦没者の俤(おもかげ)を偲びつつ稿を起させて頂きます。 

顧みれば、昭和19年8月半ば戦勢極めて我に不利となった時、真夏の炎天下同志相携えて大竹の潜水学校々門を佐々木半九大佐以下多くの先輩に見送られ、「蛍の光窓の雪」の音律も懐かしく、或る者は直ちに「サイパン」作戦を了えて帰投したばかりの大型潜水艦へ、或る者は内海、呉、横須賀、及び佐世保へと夫々各潜水艦に砲術長として配属され、袂(たもと)を別(わか)ったのでした。 

当時私達の潜水学校普通科学生の指導官は、伊号第168潜水艦及び伊号第176潜水艦艦長として有名な田辺弥七中佐と、呂109号潜水艦艦長として沖縄方面作戦中、消息を絶たれた中川博大尉でありました。 

私と一緒に学んだ期友の中で今青春の雄図空しく不帰の客となられた方は次の通りです。 

青木孝太

38潜砲術長として昭和1911月、「レイテ」沖で米駆逐艦と交戦して戦死 

土井 

 41潜砲術長として昭和1911月、消息不明となりましたが、伊41潜は1027日比島東方で輸送艦1隻、11月3日「エセックス」型空母1隻を撃沈したと報告しています。 

吉羽 

54潜砲術長として昭和1910月、「レイテ」沖で戦死 

吉用茂光 

46潜砲術長として昭和1910月、「レイテ」沖で米駆逐艦と交戦して戦死 

齋藤徳道

 37潜砲術長として、伊36及び伊47と共に回天特別攻撃隊菊水隊を編成し、昭和1911月8日大津島基地を出撃、伊36及び伊47は、「ウルシー」へ、伊37は「パラオ・コッスル」水道へ搭載回天による在泊敵艦船攻撃に向いたるも、伊37は途中消息を絶ち遂に帰投致しませんでした。 

藤範純二

 365潜砲術長として、昭和1911月、南方基地へ物資輸送の途中、敵潜水艦の攻撃を受け戦死。

因みに伊360型潜水艦は「ガダルカナル」島における潜水艦による物資輸送の貴重な経験に鑑み、専ら物質輸送を行う為に建造された特殊潜水艦であります。 

賀川慶近

 48潜砲術長として亡くなられました。

賀川君とは潜水艦時代頗る深い因縁があり、潜水学校卒業後、賀川君は佐世保へ、私は横須賀へと夫々8のつく大型潜水艦艤装員を命ぜられて大竹の校門で別れたわけですが、場所を異にして略々同時に竣工し、共に瀬戸内海へ回航、訓練部隊たる第11潜水戦隊に編入され夫々砲術長として内海の陽を浴び約二ケ月間訓練に励んだものです。

実弾射撃、襲撃訓練、電探測的、及び水中測的訓練、急速潜航及び応急潜航訓練、また、夜間見張訓練等に。

互に新米の事とてその足らざるを補う為、訓練終了後、母艦長鯨の甲板で油汗に滲んだ汚い作業服を纏って色々訓練の模様を、又、潜水艦の和気藹々たる雰囲気の楽しさを語り合ったものでした。    

怒鳴られながら漸くの思いで第11潜水戦隊における訓練を終り、どうにか潜水艦乗りとして恥ずかしからぬ腕に鍛え上げられた後、出撃前の最後の仕上げ修理は、賀川君は、横須賀で、私は佐世保で、夫々艤装当時と工廠を入れ替り、また、再び大津島の特攻基地で第2次玄作戦に出撃すべく、回天訓練の為に相見えたのは寒風既に吹く頃でした。

第2次玄作戦においては伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、及び伊58の6隻で、回天特別攻撃隊金剛隊が編成され、伊36は「ウルシー」へ、伊47は「ホーランディア」へ、伊56はアドミラルティー」へ、伊53は「パラオ」島「コッスル」水道へ、私の伊58は「グアム」へ(以上攻撃日1月11日)、賀川君の伊48は「ウルシー」へ(攻撃日1月20日)襲撃を命ぜられました。

私は賀川君より一足先に伊36及び伊53と共に大津島基地で盛大な見送りを受け、「グアム」に向って豊後水道を出撃したのですが、大津島その他での別れが賀川君とのこの世の最後となりました

伊号第48潜水艦は精悍な同期の吉本健太郎君が回天搭乗員として乗艦し、敵艦隊の前進基地たる「ウルシー」へ1月20日頃攻撃の予定で豊後水道を出撃し、搭載回天4基を発進させたものと思はれますが、消息を絶って仕舞いました。戦後、「ウルシー」附近で1月23日米躯逐艦と交戦して沈没したことが判りました。 

木林健一

12潜砲術長として、三ヶ月間の長期予定で北米沿岸に多くの任を帯びて出撃し、随所に日本潜水艦の出没による脅威を与え輸送船等を撃沈したけれども、そのまま消息を絶ちました。

私が昭和19年9月半ば、内海安下圧沖に着いた時、伊号第12潜水艦は第11潜水戦隊に於ける訓練を終え、出撃に備えて単独で特殊訓練を行って居りました。特殊訓練というのは風船爆弾による米本土の攻撃という事でした。

木林君が豊後水道を出撃したのは10月の初め頃で、戦死されたのは、昭和20年1月中と推定されます。 

清村克己

371潜砲術長として味方南方基地へ横須賀から物資輸送の途中、昭和20年2月頃「トラック」島付近で戦死。 

加藤敏久

362潜砲術長として、物資輸送中、昭和20年2月「カロリン」諸島沖で戦死。 

溝上正人   慶治

 溝上君は伊368潜、林君は伊370潜の夫々砲術長として、当初横須賀を基地として南方へ物資輸送の任に当たって居りましたが、昭和20年の春を迎えるや、戦局頓に我に利あらず、又月日を経るにつれて攻撃潜水艦の数は少なくなりましたので、その劣勢を埋めるべく伊360型潜水艦が攻撃潜水艦への転用となり、元来輸送潜水艦として物資輸送を中心に建造され、攻撃潜水艦の機能を欠く事多々ありましたが、回天5基の搭載装備を為して決戦に臨むことになりました。

昭和20年2月、敵米軍の精鋭部隊が海陸挙げて硫黄島に迫る時、まず伊368、伊370、及び伊33で、回天特別攻撃隊千早隊が編成され、次いで伊36、及び私の伊58で回天特別攻撃隊神武隊が編成され、何れも硫黄島周辺の敵艦隊及び上陸船団を攻撃する事となりました。

両君とも2月20日、敵硫黄島上陸の翌日、勇躍して豊後水道を出撃し、硫黄島に向いましたが、同月26日、溝上君は硫黄島南方で米駆逐艦と交戦、林君は硫董島北西で米空母艦載機と交戦して戦死致しました。 

増田佐輔

 伊8潜砲術長として沖縄南西方に敵補給路遮断の為出撃し、3月31日米駆逐艦と交戦して戦死。ここに、伊8潜只一人の生存者向井兵曹の体験を記し増田君の霊を慰めたいと思います。 

3月30日夜10時半頃、見張員が近付いて来る米駆逐艦を発見、急速潜航に移り、深さ30米附近で最初の爆雷攻撃を受けた。それから沈むまで4時間程は間断ない爆雷攻撃の嵐であった。

攻撃は正確で後部の諸機械は破損し、その内推進機の音が高くなって来たので、艦の位置が米艦に探知され易くなった。この為攻撃は益々激しくなり、後部兵員室の「バルブナット」が飛び浸水し始めた。私達は必死になって修理に努めたが容易に止まらず、艦は水深150米位の所で艦首を上に25度程度に傾いた。その為艦内の汚水が後部に流れ込み浸水と両方で艦はどんどん沈んで行った。

何とも手の施しようがない、艦長は後部「ブロー」を命じた。この為に、気泡が海面へ出て潮が白くなるので、また爆雷攻撃の好日標となる。このままでは私達はただ相手の攻撃だけを受け、洪手して死を待つ丈だ。魚雷は先に発射してしまったので、艦長は最後の運を決すべく急速浮上砲戦を決意し、総「メーンタンク」「ブロー」を命じた。既に艦内の諸動力は停っている。31日午前2時頃だった。我々砲員は裸足になり発令所に集合した。 艦は艦首を上にし、20度程の傾斜で浮き上った。「ハッチ」を開き、見張長を先頭に砲員が外に出た。右側に駆逐艦がいたので、25ミリ機銃で応戦し私は左側から甲板に飛び降りた。杉本兵曹と2人で14センチ砲へ馳せ寄り2発装填した時、弾片で足を負傷した。艦橋まで引き返すと艦橋は大破し大穴があいていた。

止む無く、また、砲側へ戻ると敵巡洋艦を発見した。我々は2隻の米艦に攻撃されていたのだ。互いに交戦しながら相対する角度が90度、距離3,000米になった時、我が潜水艦は一瞬にして海中に没した。 

久住 

 回天特別攻撃隊金剛隊員として、イ53潜1号艇回天塔乗員となり乗組み、1月12日未明「パラオ」「コッスル」水道に在泊する米艦船を目前にし、伊53潜より発進、直後気筒爆発、無念にも自爆。

(当時伊53潜砲術長は同期の山田 穣) 

羽原 

364潜砲術長として物資輸送作戦中、昭和1910月南太平洋海域で戦死。 

片山 

当初伊165潜砲術長たりしも伊藤国輔君に譲り、伊351潜に転じ昭和20年7月15日「ボルネオ」北西方面において航空燃料を満載して内地に帰投中、米潜の攻撃を受け戦死。

351潜は特に航空揮発油を輸送する目的を以て建造された潜水艦であり、各基地は次ぎ次ぎに失陥し、海上も敵飛行機及び潜水艦に封鎖された為に、水上艦船の能力は極度に制限せられ、戦力に欠くべからさる航空揮発油の南方油田からの輸送も出来なくなってしまった。

その為、己むなく航空揮発油の重要性に鑑み潜水艦を以て輸送することとなり、片山君は呉潜水艦岸壁で私達多数の同僚と別れを惜しみ目的地に向い往路は無事でしたが、内地に帰投の際消息を絶ってしまい、一日千秋の思いで待った航空揮発油は夢となってしまいました。 

  

363潜航海長として終戦後一旦帰郷したのですが、呉在泊潜水艦全部が佐世保に回航する事となった為再び呼び戻され、呉を出港、豊後水道を出て南回りに佐世保に回航の途中豪雨に遭い視界不良のため、昭和201020日九州東岸の味方機雷堰を誤って乗越え触雷して沈没。 

河合不死男

回天特攻隊員として昭和20年3月30日沖縄慶良間泊地において戦死。 

福島誠二

 回天特攻隊員として伊56潜に乗組み、回天特別攻撃隊多々良隊を編成し、昭和20年3月31日豊後水道を出撃。戦後、伊56潜は4月5日沖縄西方海面で米駆逐艦と交戦して沈んだことか判りました。 

安東種夫

 361潜砲術長として回天特別攻撃隊轟隊を編成し、昭和20年5月末沖縄東方海面に向って出撃、以後消息不明。 

“回天とは”

 潜水艦から発射する魚雷に人間を搭乗させて、百発百中を狙うという構想は開戦当日、真珠湾に突入した特殊潜航艇以来ありましたが、この特殊潜航艇を一歩進めて人間魚雷の設計に着手したのは、丁度「ガダルカナル」島の苦戦が伝えられた昭和18年の1月頃でした。

この設計は幾度か当局に提出されましたが、搭乗員必殺という兵器には表面たって許可する訳にはいかず、19年4月に至り遂に当局もこの必殺兵器の採用を認め、呉工廠水雷部でその製作を開始致しました。

即ち、九三魚雷の頭部を1噸半の爆薬に置き換え、魚雷に比してその威力を数倍にも増し、且つ、航続巨離の延伸を計るべく燃料タンク及び気蓄器を増設し、ほぼ中央に人間が1名座乗出来るようにし、特眼鏡を出し入れする事により水中から外界が漸く見える程度になっており、この唯一つの眼により敵艦の変化に応じて操舵し、敵前間近く迫るや自ら狙いを定めて全力を挙げて水中を突進し、魚雷諸共一丸となって敵艦に体当りする文字通りの特攻兵器なのです。

敵艦近く迄は潜水艦が甲板上に乗せてこれを運び、潜航中でも潜水艦内から自由に出入り出来るようになっており、又、潜水艦と回天との間には、回天が水中で甲板上から離れるまで電話連絡が出来るようになっております。 

回天が生産されるや、昭和19年9月徳山湾内の大津島に基地が設けられ、そこで潜水艦出身の板倉少佐の指揮の下で搭乗員達は山を切り崩した所に建てられた人里離れた別天地という感じのするパラック建の簡素な建物を宿舎とし、世の俗悪から身を遠ざけ、あらゆる穢れを洗い流して只管肉弾特攻の訓練に邁進し続けたのです。

その後、光と平生及び大神に同じ様な特攻基地が設けられました。

 

“潜水艦の砲術長とは”

私の期友の大半は砲術長の職責を全うして戦死されたのですが、砲術長とはどんな事をするのか紙葉を割かせて頂きます。

潜水艦乗組の兵科士官は艦長、先任将校(水雷長)、航海長、砲術長の4名が普通で砲術長は初めて潜水艦に乗った一番若い末席士官で平常 「テッポウ」と言って親しまれています。

ですから、ありとあらゆる雑務は何でもする訳で、大砲、機銃関係の外、通信長、電探測的及び水中測的指揮官、兵科全員の分隊士、それに航海士、庶務主任と、その取扱う兵器も14糎砲、25粍2聯装機銃、弾火薬庫及びその附属装置、水中聴音機、三式探信儀(超音波聴音機)、短長波送受信機、超長波水中受信機、糎波及び米波電波探信儀、糎波及び米波探知機、艦内各種通信装置、等々列挙すれば際限がない程で、その結果やろうと思えばこれ程多忙な張合いのある職は青年士官としてまずないと考えられますが、一旦さぼろうと思えば、又これ程呑気な什事もないのです。

然し、余りさぼり過ぎると出航に際し狭い寝台が何やかやで、ふさがって仕舞い書類で山積みになって、寝るのに苦労します。′

潜水艦の搭載する大砲はその口径、14糎から8糎まで各種あり、その数も1門のもあれは、2門のもあり、又、高角砲もあれば平射砲もあるという工合で、飛行機に対しては普通25粍2聯装機銃を搭載しております。

潜水艦の砲撃目標は一般に無武装の商船か無武装の陸地で、初めから大砲を持っている軍艦や陸上に対等に立向って、墓穴を掘る様な事は致しません。ですから、その測的装置といっても極めて粗末な測巨儀が唯一つあるきりで、あと全部推測に任せて発射するのですから見当違いな結果も想像される訳で、1門や2門の中口径砲による砲撃の効果は所詮期待しても無理です。

私の伊58潜は艤装当初14糎砲を1門、後甲板に積んで居りましたが、回天搭載装置を装備する関係上邪魔なので取り払って仕舞い、私としては、只僅か残る25粍機銃だけで些か物足りない所ですが、実際を言うとこんな厄介物を卸した時はホット致しました。

何故かと云えば艤装中、大砲の穴が小さくて弾丸が入らず、穴を少し拡ける為に何だかんだしましたが、また、拡げ過ぎると跡の始末に困るという訳で勇敢に処理することも出来ず、いっその事中古大砲とでも積み替えようかと思っていた矢先なので、卸した時は晴々致した次第です。 

砲術長としては余りにも名前倒れで、偶々深深度潜航をした後艦橋の脇に在る揚弾筒の蓋の水防が芳しくなく、漏水する為いささか面目を失墜して矢張り砲術長なのだなあと思い返す位のものでした。

結局潜水艦における大砲は大して注目すべきものではないのですが、その大砲も機銃も、水中で爆雷攻撃の嵐を浴び今やこれまでとなった時には、流石3千年の武の歴史を持つ日本人でその儘成仏するが如きことなく、最後のあがきとして反撃する大きな役割を果しているのです。

すべての艦内動力は停止してもうこれ迄となると、艦長の「急速浮上砲戦用意」「メーンタンク・プロー」の号令一下、艦橋が水面に出るや否や、砲術長は艦橋の屋根の上に阿修羅の如く立ち、砲員は未だ海水の洗う甲板上へ飛び降りて、全艦の信頼を双肩に背負い、真近く踊り掛かって来る敵艦目がけて一擲を加え、敵の肺肝を抉り取る役割を果すのです。 

“玄作戦”

第1次玄作戦は昭和1911月8日、南朝の忠臣楠木正成にあやかって回天特別攻撃隊菊水隊と名付けられ、伊36、伊47、及び伊37の3隻の潜水艦に回天搭乗員は分乗して乗組み、大津島基地で別れの盃を挙げ、伊36及び伊47は「ウルシー」へ、伊37は「パラオ」島「コッスル」水道へ夫々碇泊艦船の襲撃に征って、1120日未明攻撃を敢行し、伊36、及び伊47は帰投したが・伊37は途中消息を絶ち、当時伊37砲術長だった同期の齋藤徳道君は戦死致しました。 

第2次玄作戦は当時残っていた大型潜水艦の精鋭を選って編成され、「金剛隊」と名づけられました。伊36は再度「ウルシー」へ、伊47は「ホーランディア」へ、伊56は「アドミラルティー」へ、伊53は「パラオ」島「コッスル」水道へ(以上攻撃日1月11日の予定でしたが一日延期となり12日に変更)、伊48も「ウルシー」へ(攻撃日1月20日)攻撃を敢行した。 

私の伊58は「グアム」島「アプラ」港へ(攻撃日1月12日)夫々ほぼ時を同じくして在泊艦船の襲撃を敢行しました。

 ここに本作戦に出陣された同期の回天特別攻撃隊員の芳名と、同時に当時潜水艦の砲術長として作戦に参加した同期生の名を挙げます。

36(括弧内は砲術長)(杉田 政一)

47 川久保輝夫君 (佐藤 秀一)   

56 福島 誠二君

53 久住  宏君 (山田  穣)

48 吉本健太郎君 (賀川 慶近)

58 石川 誠三君     

同期の回天搭乗員は夫々潜水艦に乗組んだ4名の搭乗員の隊長として第一陣を承って突入する1号艇の艇長でした。

かつて建武の中興破れ、一旦.足利高氏を西に落したが、再び山陽道の各地で勝利を得た賊軍は勝った勢に任せて京に向って進んで来た。

後醍醐天皇は白旗城の囲いを解いて兵庫に陣取る新田義貞を応接に行くように楠正成に命じられた。正成はその時、

「高氏が勢を盛り返して、九州の大兵を引連れて釆ましたので、その鉾先は大層鋭どう御座います。我々は長い戦争で疲れ切っている兵隊を率いてこの新手の敵兵と打ち合いましては、外に異なった手段がない以上負け戦さとなることは必定であります。

唯今の応急対策としては、陛下は再び比叡山に行幸遊ばし、義貞を召し帰しになって、賊兵を気侭に京都に入らせ、そして私は河内国に帰り、九州方面から送って来る賊の糧道を遮断するならば、賊は閉口して日一日と離散し、その反対に味方の兵士は日一日と集って参りましょう。

その時を待って賊兵を挟み撃ちにしたならば見事に之を打破ることが出来ましょう」

と進言したが藤原清忠の反対にあい、正成も敢えて反対意見を押し通す事もあるまいとして退下し、桜井の駅で長男正行に恩賜の菊作りの宝刀を授けて、かの有名な教を垂れ、別れました。

正成は足利直義の大軍50万に対して手兵700を率いて湊川に陣を取り、血戦16合、余すところ73騎となり刀折れ矢尽きるや、

「願わくば七度人と生れて以て国賊を倒さん」と遺言して、弟正季と刺し違えて亡くなったのであります。この七生報国の忠誠こそ回天隊の目標なのであります。

私の伊58潜は佐世保軍港で最後の出撃準備を完了して呉に回航、燃料、糧食、魚雷を満載して19年も押し迫った1229日大津島特攻基地に入港しました。翌30日三輪第6艦隊司令長官以下参列して出陣の式が挙げられ、同僚の盛大な見送りを受けて午前10時、伊36及び伊53と相前後して出港しました。

潜水艦には白く「イ58」と書き抜き、日の丸の標識の上には菊水の紋章を掲げ、檣頭高く「非理法権天」と「宇佐八幡大武神」(私の艦は宇佐八幡宮を守護神として祀り出撃前には必ず参拝する事にしていました)の幟(のぼり)が艦橋高く掲げられた大軍艦旗と共に爽やかな朝風にはためいています。

搭乗員は白鉢巻、軍服姿も凛々しく自分の回天の上に乗り、軍刀を振って艦近く見送る多数の人々に別れを告げています。

錨を上げて艦が走り出し、港口を出るまで見送る人も見送られる人もその視線は離れることなく最後の名残を惜しむのです。

歓呼の中にも言い知れぬ厳粛な場面でした。

豊後水道を通って一路南下、水中で昭和20年の元日を祝いました。目指す「グアム」島「アプラ」港へ(本作戦の詳しい模様は橋本艦長が「伊58潜帰投せり」を過日公にされましたので、割愛させて頂きます〕。 

石川誠三君は出発前艦内で「一撃必殺」の四文字を墨書して心中を披瀝し、永く艦内に保存致しましたが、終戦時私が之を持帰り最後の遺品として保管して居ります。また、遺品整理の際の石川誠三君の出発直前の記録に

「決行期日に至る、搭乗員4人とも元気旺盛。アプラ港を震駭(しんがい)せしめんとす。月淡く星影疎にして一月初旬の大宮島眠れるが如き姿態を浮ぶ。誰か知る数刻後の大混乱を。大君の御為、命の儘(まま)に我等は来るべき所に来たり。」

人生22年唯夢の如し。生の意義を本日一日に賭け、日米決戦の一奇鉾として態勢を一挙に挽回、以って帝国三千年の光輝ある歴史を永遠に守護せんとす。大日本は神国なり。 神州不滅、我等が後には幾千万の健児ありて、皇国防衛に身を捧げん。いざ行かむ。人界の俗塵を振り払い、悠久に輝く大義の大地へ! 出発4時前記す」と。

  石川君が艦を去るに当って心残りなく家の者にも書き記して、私に之を託し「若し内地へ帰り得たならば広島の家人に届けてくれ」と申しました。

偶々私は加護あってか無事内地へ帰投し、3月初旬その戦果が神風特別攻撃隊として公にされるや、私は石川君の家を訪ね彼の霊前に額づき、母上様に手渡しすることが出来ました。 

私は砲術長として回天と司令塔との電話連絡に当たっておりましたが、司令塔で最後の握手を交して別れた石川君は回天に乗艇してより発進まで静かに口笛を口ずさみ、その音が私の耳に電話を通じて伝わって来るのでした。何も既に言い残すこともなく、最後に今までの礼を述べ、天皇陛下万歳を唱えて順調に起動し潜水艦を離れたのでした。

必ずや石川君は沈着冷静なる判断を以て、後日判明した「カサブランカ」型空母に体当りして昇天したことでしょう。 

全基発進後、潜水艦は急速浮上し、「アプラ」港灯台及び兵営の赤々とした灯を後にして、その戦果を確認すべく、水上突破して離れたが、不幸回天の到達予定時刻前に敵飛行機を発見したので潜航を余儀なくさせられ、潜望鏡で東方二条の黒煙天に沖するのを認めたのみで確認するに至りませんでした。

硫黄島作戦及び沖縄作戦の詳しい模様は橋本艦長の著書の中に記載されておりますので、ここに省略させて頂き、又後日何かの機会に譲ることとし、ここに右作戦において戦没されました同期の潜水艦関係者の芳名及び現在生存者で作戦された人の名を参考までに記載させて頂きます。 

潜水艦の作戦が各艦独自のものである関係上、作戦中消息不明となり、帰投しなかった潜水艦に乗組み戦死された人々の詳細を御遺族の方々に知って頂けないのは誠に遺憾に存じますが、皆先にも申し述べました通り、七生報国の念に燃え忠誠を誓い潔く勇敢に散華した事は申す迄もありません。

   (●印は還らざる潜水艦)

●呂43  航海長    白木 常雄

●伊368 砲術長    溝上 正人

●伊370 砲術長      慶治

 58 砲術長    

    (以上硫黄島作戦)

●呂49 航海長   長沢能太郎

●伊8潜  砲術長   増田 佐輔

●呂41 航海長   長谷川 

●伊44 回天塔乗員 土井 秀夫

     砲術長   福屋 正巳

●伊56 回天塔乗員 福島 誠二

●呂46 航海長   亀井  寿

●伊361 砲術長   安東 種夫

●呂109 航海長   山田 冨三

●伊165 砲術長   伊藤 国輔

47 回天塔乗員 柿崎  

      (艦長  折田 善次氏)

58 砲術長    

36 砲術長   杉田 政一

   (以上 沖縄作戦) 

“敗  戦”

私が航海長としての職務上、どうもその前日あたりから雲行きがおかしいなと思ったが、8月15日の敗戦の報を半信半疑で知りました。艦は未だ沖縄東方200浬の海面を、索敵網を張りながら北進帰投中でした。

  敗戦の報、誠に漠然として簡単でありましたが、この不吉な予期し難い事実を前にして、このまま北進を続けるか、叉は、反転して南に逃避し、天下の帰趨を遠く離れて傍観するか種々検討した結果、残り少なくなった燃料が我々の行動を制約し、小説まがいの南方逃避行を取りやめ、一応命令に従い内地に帰投して国内の混乱した事情を詳細に確かめた上、善処することになりました。

最初は米軍の「デマ」かしらとも考えられましたが、関連する種々の電報より推察して真実性は次第に濃くなるばかりでありましたが、潜水艦としては戦場に在り艦内に知れて士気が衰え不覚を招く事を恐れ、かえってそんな面白くない士気を阻喪させる事実はない事を装うが如くして乗員には公表しなかった。然し乗員の顔は故国の上を数日後に控えているにも拘わらず暗く、うすうすそれとなく判っていたらしい。

豊後水道へ入る手前で待ち伏せの敵潜水艦と深夜水中で渡り合い、8月17日未明豊後水道に辿り着きました。水中半ばで漸く空が白み、暑い夏の陽が海面一杯に輝き始めました。久方振りに見る故国日本の今や変り果てた姿。 国敗れて山河あり。

右手に遠く続く四国の山々は緑したたるが如き林の蔭に蔽はれ、人の気配もなきが如く静まり返り、あたかも今まで獅子奮迅していた強者が、刀折れ矢尽きて深く眠れる姿に似たり。

海面はまた油を流したるが如くべっとりとして小波一つの動きもなく水青ざめて渺(びょう)々たり。

たた鴎の白く羽ばたく姿のみ静中の動たり。

58潜は今回の作戦で今日あることも予期せず、七生報国を誓って護国の英霊として昇天した伴中尉以下4柱の魂を乗せて瀬戸内海を一路北上、多数内海に敷設された敵機雷の難を避ける為、外舷電路には電流を通じ、機械を電動機に切り換えて警戒航行のまま、ザワザワとそのかき分ける波の流れも一入淋しく平生基地へと向いつつある。

左手には煙なき佐賀関の大煙突が見える。出漁の舟もない。私は艦橋に立って操舵指揮をしつつ四囲の景色を感慨深く眺めるのであった。

漸く故国に帰りつき生命の安全を得て嬉しい筈の見張員も何となく気が抜けて張合のない感じだ。平生基地では一体我々の帰りをどんな気持で待っていることだろう。

「入港用意」、「ラッパ」の音は何時もと変りなく元気よく鳴り渡る。前甲板からガラガラガラと錨は卸された。そして入港後艦長は総員を前甲板に集め、乗員の前で「敗戦」の事実を知らせた。乗員はこの悲報を耳にしてただ言う言葉もなく、太陽を浴びて疲れた身体を休めたのです。

 “橋口 寛君の自決”

平生基地に錨を卸すや特攻基地から直ぐ、今回の作戦で回天と共に敵艦船群に突入し、肉弾をもって壮烈な体当りを敢行した5勇士の奮戦振りを案じて司令以下終始親代りとなり、又、兄貴分として回天搭乗員を指導していた同期の橋口君等が乗艦し来り、橋本艦長から5勇士の華々しい最後の情況の説明を受け、よくやってくれたと喜んで迎えてくれました。

私達は今浦島の存在なのです。

肇国以来末曽有の大変革に際会し、今後いかに処置すべきか戸惑うのは当然です。日本は一体どうなったのだろう。

一刻も早く知りたいのは、今の日本の情況でした。入浴と慰労を兼ねて平生基地に上陸し、一番初めに手にしたのは新聞でした。一字一句貪り読み続けました。

ささやかな慰労会を終って私は橋口君の部屋で色々語りました。

私の伊58潜は斯かる屈辱的大変事なき限り、来る23日、この平生基地で、橋口君が回天搭乗員6名の隊長として乗組み、休養の余暇もなく、また、潜水艦で最も死命を制する修理も、そこそこに引続き決号作戦部隊として再び豊後水道を出撃することに決まっていました。

橋口君は回天攻撃の経験深い伊58潜で出撃することを喜び、一日千秋の思いでその日の来るのを待ち佗びていたのです。然し、それよりも先に来たものは思いも懸けない「終戦」の事実です。

橋口君は未だ○六金物と言われて特別の関係者以外殆どその何であるかを知らなかった当時よりこの道に身を投じ、○六金物の改良発達に尽力し自ら志を同じくする部下の指導に直接当っており、多くの特攻隊員は殆ど橋口君の薫陶を受けました。

橋口君は優秀な技価を買はれて、何時もその出陣を見送るのみで、後に残り、後輩の指導に当たっておりましたが、本人白身としては非常にこれを残念に思い、自決の原因もその一つはここにあったのです。

私は橋口君と大津烏の特攻基地で回天搭乗員として散華した石川誠二君、河合不死男君、川久保輝夫君、柿崎 実君、久住 宏君、土井秀夫君、福島誠二君、吉本健太郎君等と、光特攻基地が出来るや光基地で、平生基地が新たに創設されるや平生其地で回天訓練を共にしました。

橋口君は8月17日、平生基地の私室で何も未だ判断のつかない私に向って、いささか酒気を帯びてはいたものの、あく迄も神州の不滅を談じ、又国体の護持を論じて憂色濃く、かくなっては真の日本はあり得ないとして前途悲観の声が強かった。

橋口君は熱血神州男子であり、稀に見る愛国の志士である。現代の口先だけのがりがり亡者的な腰抜け野郎にはその心中なぞ考えも及ばないであろう。夜更けて私は早朝呉に向って出港する関係上艦に帰るべく、橋口君の室を辞した。

別れるに際し橋口君は、

「俺も呉に行く用事があるから明月呉まで貴様の艦に一緒に乗せて行って呉れ」と。別れる時に、橋口君の顔には自決する色なぞ寸毫も見られず、対話中にもそれを連想させる点は何もなかった。

明けて18日、私は航海長として艦橋に立ち橋口君が乗艦して来るのを心待ちにしていた。然し、もうその時には、橋口君は多くの回天特攻隊員の後を追い、その体は冷たくなっていたのである。聞けば橋口君は自分の回天の前で真っ白な第二種軍装をまとい拳銃で自決して果てていた。

日本が真の独立日本として何時の日ならんか立つ時が来るならば、橋口君の行為は必ず立派に生きてその霊も鎮まることであらう。

 “終  文”

終戦後「ミズリー」艦上で日本歴史未曽有の屈辱的調印が行はれました。

爾後、永らく聯合軍の占領下に在って日本人はあらゆる束縛を受け、例えその重圧に喘ぐとはいえ、今次戦争に大詔を奉じて戦野に身を挺して戦没した、幾多の将兵に対しては憐れにも顧みられず、寧ろ大詔を厭いて世を遁れた者共はこの敗戦を機会として我こそは真の平和愛好者なり、又義人なりとして大きく世の中に浮び上り善良なる国民の前途を憂えて狼狽し混乱する隙に乗じて社会図を塗り代え政権をも私のものとせんとする挙に出ているのです。

国に殉じた人々の中に誰か一人、己が私利私欲の為に身命を献げた人がありましょうか。

光輝ある皇統3千年の歴史を穢(けが)すまいとして、七生報国を誓い戦場に斃れたのです。

戦争それ自体の是非を深く反省する時、そのものに対しては、いささか議論の余地もありましょうが、いやしくも善良なる国民が大詔を奉じて身を君国に献げた行為を敗れたとはいえ、責められましょうか。

(中略)

たとえ戦争を早く終結させるためとは云え、文明国家が日本の土地に、原子爆弾第1発を落したという事実、それによって多くの生命が消えたという事実、この恐るべき事実は、この不幸なる遊星の北極から南極に至る全人類が、今後一世紀を通して償わねばならない大いなる犯罪である。いかなる論理も謝罪も厳たるこの事実を抹殺することは出来ない。

私達は強きを挫く軍人であり、且つ又、弱きを助ける軍人なのです。

何も敵味方に限ったことではありません。

日本潜水艦は戦前列強より着目され米独潜水部隊と比肩して世界にその存在を謳われ、また、国民からは大きな期待を懸けられて居りましたが、蓋をあけてみるや、多くの理由もありますが、予想に反してその結果は誠に惨澹たるものでありました。

然しこの結果は、日本潜水艦乗員がその技量において、また、精神力において劣等であったからとは申されません。因みに、私の経験からもいえますが、戦果を多く挙げ得た作戦程思ったよりも楽なものはなく、之に反して戦果の挙らない作戦程労を多くし、危険を冒した作戦はありませんでした。

文明の粋を集めて建造されるのが潜水艦でありますから、いささかでも敵に遅れをとるような点かありますならば、それは致命的なものとなり、敗者の運命を辿らなくてはなりません。

世界における潜水艦が日進月歩、寸時も休むことなく発達改良されると共に、対潜攻撃もその進歩に追いつ迫はれつ改善され不離の閲係にあり、片時も予断を許さないものであります。

潜水艦にあっては、乗員の一致和合とこの兵器の発達がその貴い運命を大きく左右するのです。終始日本潜水艦は米英に比較して電探測的兵器の点において一日の長を委ね、この欠を人の力で補うべく乗員は言い知れぬ苦労を重ねたのでした。悲惨な結果の一つの原因も先を制せられたこの点にあったと言えましいよう。

終戦間近くなって、漸く対空電探が使い物になるや、搭載回天による航行艦襲撃の成果と相まって潜水艦の被害も少なくなり、攻撃力も頓に増大し、当時航空兵力の錬度が低下しその劣勢を極度に訴えるに至りたる折柄、聯合艦隊の期待は僅か残る精鋭なる潜水部隊に大きく懸って来たのでした。

終戦時、日本潜水艦はその搭載兵器の改良発達により敵発見後襲撃に至るまで潜望鏡を1回も水面に露頂することなく、然も無航跡魚雷を無気泡発射することか出来るようになり、文字通り潜水艦の穏密性には事欠かず、また、回天を搭載することにより、敵護衛艦の警戒網を潜り抜けて1,000米附近迄近接する必要もなくなり、局地戦には浮上することなくして 「シュノーケル」装置により水中充電又は補助機械を起動して水中を航走することが出来るようになっていました事を付言させて頂きます。

潜水艦戦没者の英霊よ、   永久(とこしえ)に安かれ。

(なにわ会会誌 7頁掲載)

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