平成22年4月22日 校正すみ
小学生にした戦争体験の海軍の話
私は開戦の1年前の昭和15年12月海軍兵学校に入校し、昭和21年12月復員輸送を終えて帰郷するまで、6年間、戦争に徒事した。 |
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杉田 政一 |
1 教育期間
昭和15年12月海軍兵学校に入校し、約3ヶ年の教育を終えて昭和18年9月卒業、練習艦隊として軽巡「龍田」に乗組み、トラック島、ポナぺ島へ陸軍部隊の輸送を兼ねて出撃、帰途四国と九州の間にある豊後水道に指し掛かった際、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。魚雷は「龍田」の前方を通過し、隣を走っていた航空母艦「隼鷹」の艦尾に命中、スクリユーをやられ航行不能、重巡「利根」が曳航して呉軍港に帰った。
2 回天特攻作戦
練習艦隊終了後、戦艦「山城」に乗組み、主として横須賀軍港で予備学生や経理学校生徒の練習艦の任務に従事した。
少尉に任官して大竹にあった潜水学校に行き、潜水艦乗員としての教育を受け、伊号第36潜水艦乗組となった。そして昭和19年12月、人間魚雷回天を4基搭載して、ウルシー環礁特攻作戦に参加した。
回天とは魚雷に人間が一人乗り、頭部に1.55屯の爆薬をつけ、敵艦に体当りし、出て行ったら帰って来られない特攻兵器である。
次いで、昭和20年6月上旬、回天6基を搭載して、マーシャル群島北方海域(ハワイからサイパンに至る補給路)に進出、28日、独航の1万屯位の輸送船を発見、距離6500米で、方位角は変らず魚雷攻撃は無理なので、回天を使用する事になった。
1号艇池渕中尉発進、中々命中せず、敵は水面に向って銃砲撃をしながら逃げ回り、回天は之を追うという状況で、艦長は潜望鏡を上げ放して観測中、SOSを受信した敵駆逐艦が駆けつけ、伊36に突進してきた。
聴音から、音源至近距離との報告に、艦長が潜望鏡を廻して見ると、レンズ一杯に敵駆逐艦の艦橋が見え、敵艦長がこちらを指しているのが見えたという。
本艦は18米の露頂深度から急速潜航、ほんのタッチの差で衝突を免れ、深度30米にも達しない内に、爆雷攻撃を至近に受け、被害続出、誰もがこれで最後かと思った。
敵は1回目の爆雷投下を終ると、反転して次のコースと投下位置を定め、2回目を投下する。回天搭乗員は駆逐艦をヤッツケルから出してくれと艦長に進言したが、結果的に自分達が助かる為に回天は使えないと拒否した。
その内にも爆雷攻撃は熾烈を極め、艦の水平と深度保持が困難となり、この侭沈没すれば、回天乗員の今までの訓練も無になると思い、発進を決意、残った5基のうち爆雷により3基故障、2基に発進を命じた。
ところが二人が回天に乗込んでみると司令塔との電話故障、その上、電動操舵機も故障でそんな不完全な状態で発進させる事は出来ないと二人に退艇を命じた。そのうち敵は2隻となり、交叉攻撃を仕掛け、5回、6回と直上通過攻撃を加えてきた。
わが艦の方は後部の浸水が酷く、手空き総員で米袋を前部に移動するも仰角15度、深度も保持出来なくなってきた。止むを得ず、敵前ではタブーとされている「メインタンク、チョィブロー」をやらざるを得ない状態になった。この時、又、久家少尉が回天発進を進言してきた。
故障した回天の攻撃は難しいが、まだ日没までに4時間以上、敵から離脱の公算は殆んど無くなり、艦と運命を共にするより、搭乗員により良き死に場所を与える事になろうと、艦長は決意され回天を発進する事となった。
久家少尉、柳谷二飛曹は傾いた甲板から阿修羅の如く突進して行った。回天発進後10数分大爆発音が轟き、敵の攻撃は止んだ。5時間にわたる死闘の後、伊36潜は蹌跟(そうろう)として戦場を去った。
戦後、米国側の資料に依れば、爆雷55発を使い果した後、小型潜水艦(回天)が接近するのを発見、砲撃により撃沈したとあります。
程なくして終戦を迎え、結果的には潜水艦員100名、駆逐艦乗員250名の命は救われたことになります。
回天故障の為発進出来無かった3名の内、1名は園田一郎氏(東大卒)で戦後、三菱商事に奉職し、副社長になられ、他の1名は横田寛氏〈甲飛十三期〉で「あゝ、回天特別攻撃隊」を刊行され回天の真の姿を世に紹介された。
後 記
これは、平成12年10月26日常滑小学校、ついで12月6日鬼北小学校で要請に答えて六年生に対して行なったものである。