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平成22年4月21日 校正すみ

戦争と我が青春

国本 鎮雄

 

(室蘭民報に掲載したものから抜粋したもので、北方艦隊勤務、比島沖海戦、大和出撃、終戦の4項目よりなるものである。これに関係期友の筆を加えたものであり、戦史に基づいたものでなく、各人の記憶に頼ったものなので、記憶違い、脱漏期友名があるかも知れず、御諒承、御指摘を乞う)

 

1 北方艦隊勤務

我が72期とコレスの海上部隊は伊勢、山城、竜田、八雲の4艦による僅か2カ月の練習艦隊訓練の後、航空隊の同期生と東京に集合、拝謁を賜り、太平洋の第1線へと散り散りに配置についた。各自何糞(なにくそ)精神を心に秘めて・・・。我々は20名程で北方艦隊勤務を命ぜられ、横須賀でそれぞれ乗艦した。

巡洋艦 阿武隈

第1水雷戦隊の軽巡阿武隈、乗組みには吉成 淳(20年8月冬月で戦死)、里村 保(19年7月玉波で戦死)畠山、角田、岩間(機)、吉江(主)と小生が発令され、いよいよ部下を持っての艦隊勤務が始まった。

当時北方作戦は、アッツの玉砕、キスカ島撤退で北千島が防御の第1線となっていた。

《当時北方部隊は第1水雷戦隊(旗艦阿武隈)のみで在り、我々が着任後暫くしてキスカ作戦のため南方にいた21戦隊(足柄、那智、木曽、多摩)の4隻が北方部隊に加わった》

占守島は海軍、幌延島は陸軍が守備し、松輪島の飛行場は完成間近であり、1水戦(阿武隈と駆逐艦12隻)は北千島防衛の外に人員、物資輸送の船団護衛に当っていた。

那智(富井宗忠、武井敏薦、太田威夫、都竹卓郎)、

足柄(石川誠三、小灘利春、西川賢二、小河美津彦、池田誠七、

吉江幹之助、坂梨忠(機)窪添龍輝(主))、

 
木曽(名村英俊、大堀陽一、香西宣良、泉五郎、横田敏之、村上克巳(機)浅野祥次(主)

多摩(増田弘、久住宏)

の4艦は大湊を基地として陸上部隊、航空部隊と協力、北日本の防衛に随時出動していた。

冬期の北千島の荒天は物凄いもので、平均風速60米以上、測定不能の時もあつた。平均風速が60米を越える程になると、錨の鎖は切れんばかりにうなり、錨もすべるので、停泊不能となり、全力で風上へ走り続けてやっと艦体の安全を図らなければならないほどであった。大波の中に駆逐艦が突っ込んで了って、暫し見えなくなってしまうし、軽巡阿武隈も、これに前甲板を叩かれると、艦内くまなくマルタ材で梁を張って補強していても、いまにも折れんばかりの悲しいきしみをたて続けた。海の猛者達も、小袋を幾枚かポケットに忍ばせ、そっと吐いては職場を守った。

19年春、潜水部隊(潜水艦、特潜、回天等)の増強のために、先輩、同僚は続々転勤になり、同期生は1人もいなくなった。少尉で航海士になって初の空襲を占守海狭で体験した。初陣というものは勇ましいもので、爆弾が落ちてきてもちっとも恐ろしくなかったし、幸い何の被害もなかった。

これより先19年3月、駆逐艦4隻を分派して小船団の輸送を行なった際、潜水艦から攻撃を受けて商船、駆逐艦が襟裳岬沖で沈没、多くの尊い犠牲を出したことがあったが、私の直接の部下の信号員2人も、その商船に同乗していて戦死してしまった。この時初めて身近の部下と同期生を失ったのだが、心の打撃はとても大きなものであった。

商船5隻を以って幌延島、占守島へ陸上兵員、兵器輸送のため駆逐艦4隻(不知火(沼田寛三)、霞(樋口直)、薄雲(鈴木満夫)白雲(太田基彦・石原博)で護衛して釧路を出港、当日夜先ず輸送船梅川丸が敵潜の魚雷を受け沈没、これに驚いた他の商船が盲撃を始めたため、駆逐艦白雲が味方識別のため、舷灯、マスト灯に点灯、その直後白雲も敵潜の魚雷を受け沈没、当時海上にミスト薄く垂れ込め視界不良、レーダーにて航行中の出来事であり、白雲の太田、石原は戦死する。少尉任官の翌日であった。薄雲の鈴木も19年7月、敵潜と交戦戦死した。

 

2、比島沖海戦

夏が近づくにつれて北千島への敵の攻撃は下火になった。その頃、南方ではガダルカナルを失い、南洋諸島、比島、台湾の防衛が急務となってきていた。8月末、北方艦隊は密かに南下して呉港外に集結し、南方艦隊に協力することとなった。

私は中尉に昇進し、阿武隈の対空射撃指揮官になっていた。激しい作戦と訓練の合間にも時にはレクリエーションが行なわれた。水泳競技があって3等賞になって貰ったウィスキーの角瓶を呉入港の際に深水外科へ持参してご馳走になったが、それから半年後に再びお伺いした時には、私はとっくに戦死したものと思われ、その飲みさしのウィスキー瓶が神棚に祭られてあった。

19年9月末、捷一号作戦が発動になった。比島沖に米海軍を捕捉して一挙に撃滅しようとの大決戦であった。急遽第5艦隊(元北方艦隊)は総出撃、豊後水道を出て一路南下し、台湾東方海面に、損傷してミッドウェー方面へ退避中の米空母群の撃滅に向かった。(米軍の被害は、事実は軽微であった。戦果誤認である)目指すは手負いの獅子、大きな獲物に胸躍らせて捜索したが、遂に発見し得ず、台湾の澎湖島へ引き揚げた。

10月半ば、深夜に馬公港へ入港して燃料を補給していると「第5艦隊は戦艦扶桑、山城部隊と協力して1025日未明にレイテ湾へ西方より突入し、米艦隊輸送船団に奇襲攻撃をかけるように」との命令が下った。

再び南下し、艦隊は敵潜水艦を警戒しながら、比島西海面を無事通過、比島南方のパナイ島イロイロ湾に入港し、レイテ湾突入の前夜をここに仮泊した。100米もそそり立つ灰色の岸壁に包まれた良港で、岩壁の頂にはすらっと背の高いヤシの木がきれいに並んでいた。明日は死んでゆく我等が今宵一夜を静かに過すには、うってつけの場所であった。当直員を減らして、スキ焼で酒を酌み交わし、きれいな星空を眺めて、明日からの大決戦の成功と、祖国の安泰を祈りながら乗員は早い眠りについた?

私は当直で、静まり返えった艦橋にただひとり、空と水と艦内にあす消えるかも知れない生のいぶきをしみじみと聞きとっていた。

1024日 早朝出発、いよいよ敵の制空圏下、今日一日を全速力でレイテ湾へと突っ走る。レイテ湾の西、スリガオ海峡には厳重な機雷網が張りめぐらされていよう。この機雷原を阿武隈先頭の一本棒になって突入して行けば、先行の数艦を失っても主力は無事に湾内へ突入し得よう。

待ちに待った夜の帳(とばり)がすっぽりと我々の姿を覆ってくれた時、おお、我が前方に(予定では我が後方へ続くべき)戦艦扶桑、山城が重巡、最上と駆逐艦16隻を引きつれてまっしぐらに突入して行くではないか。

勝て! 勝て! 勝つのだ。

今日、明日、勝つことのみに日本海軍は幾十年間、心血を注いで訓練に励んできたのだ。

昼間敵の偵察を受けていない。奇襲に成功する公算はかなり大きくなってきた。急ぐのだ。レイテへ。行動を隠密にするためにも、はや、すべての通信連絡を断っている。東方太平洋方面からの主力部隊(栗田艦隊)も無事突入の態勢に入っただろうか。遮二無二に突入するのみだ。午後10時頃、俄雨がやってきた。視界がきかない。「見張員、よく見張れ」艦橋の闇の中にくっきり浮んで見える夜光時計の針が12時を回わった。いよいよ、決戦の日(25日)全軍突入予定時刻は午前3時。俄雨が止もうとする時、突如、我等の前方約20キロ、スリガオ海峡と思われるところに、多数の照明弾が打ち上げられ、前進部隊(西村艦隊)はその全貌を明らかにしてしまった。間髪を入れず、扶桑、山城部隊は射撃開始しレイテ湾内にある米艦隊との間に猛烈な砲戦をくりひろげた。

米艦隊はレイテ湾内深く陸を背にして、日本艦隊の状況を逐一キャッチしていての待ち伏せ攻撃である。「扶桑部隊頑張れ」扶桑部隊は敵の集中砲火を浴びながらも海峡を通過し、湾内へ入り針路を北へ変えたものと見え岬の陰に見えなくなった。

わが部隊(志摩艦隊)も全速東進し、スリガオ海峡へと突入した。阿武隈、駆逐艦、12隻、那智、足柄の順。俄雨が止み、星空が覗き出した時だった。艦橋の上、マストの取り付けに取り付けられた狭い対空射撃指揮所から放り出されそうになって、手すりにしたたか腰をぶっつけた。ああ、我が伝令2人も倒れている。みる間に艦は左へ傾斜し、ものに(つまづ)いたように、急に速力を落しながら、海面へもぐり込んで行く。沈没か。艦橋からは、慌ただしく「前進一杯」の号令が聞えてくる。

艦橋下部左舷に魚雷を受けたらしい。次の魚雷を避けながら、沈没するよりは、北方の沿岸に座礁して味方の援護に当ろうとするものらしい。

「左20度、多数の魚雷艇、突っ込んでくる」 「砲撃始め」阿武隈と魚雷艇隊との間に砲戦、魚雷戦が開かれて、ついに西方第2突入部隊の隠密性もここに失われた。下部から、機械、缶異常なしの報告がはいり「後進一杯」。座礁を取り止めて一旦停止している。

阿武隈へ60ノットの快速を誇る敵魚雷艇が群がってくる。やっとの思いでこの魚雷艇を追い払い、第5艦隊の後尾につく。

いよいよ湾口へ達し、那智が先頭に立ち、「全軍突入せよ」。湾内が見えてきた。湾内には砲声いんいん、鳴呼、火だるまに燃えあがっている艦がある。先ずは緒戦の血祭り、と歓喜が突き挙げてくるのも束の間、「左に災上するのは扶桑」(林和男、後藤一郎戦死) 「右に燃ながら突っ込んで行くのは山城」(藤井勉、江本義一戦死)との悲壮な見張りの報告。

重巡「最上」は全攻撃力を敵に加え終わってからすっかり右に傾き、大火災を起こして避退してくる。(鷲野幹夫戦死)

「阿武隈」は艦橋下部に魚雷を受けて左へ傾斜し、速力わずか10ノット、座乗の第1水雷戦隊司令部は駆逐艦「霞」に移乗して突入し、阿武隈に退避を命じた。

ああ、敵大艦隊を眼前にしながら後退しなければならないとは!

しかし、ここまで味方部隊を無傷に先導し得たのも天佑。応急修理の上、艦隊に復帰せん。「阿武隈」は単艦ミンダナオ島北岸のカガヤン港へと向った。

白々と東の空のしらむ頃、西方からの突入部隊は大損害を被りながらも攻撃を終えて、「最上」と「阿武隈」に護衛駆逐艦をそれぞれ1隻ずつ残して西方へと戦場を離脱していった。 すっかり明るくなった午前7時頃から「最上」はわが眼前で敵機10機の爆撃を受け、炎上しながら約1時間にわたって勇戦奮闘の末遂に撃沈されてしまった。

照りつける太陽の下、「阿武隈」は駆逐艦「潮」に守られながらさしたる攻撃も受けずに夕刻カガヤン港に仮泊した。疲労困窮の乗員を励ましながら徹夜の応急修理が行なわれ、翌26日早朝、傾斜を復元して出港したが、浸水多量で速力は10ノットに満たなかった。

その日は雲ひとつなく晴れ渡り、鏡のごとき洋上を、集結地マニラ港へと北上した。疲れ果てた乗員は、もう誰も戦闘配置を離れようとせず、オニギリでの食事も仮眠もすべて職場で行なわれた。午前10時頃、双胴戦闘機P38数十磯の攻撃を受けた。間もなくこの戦闘機隊からの連絡によるものであろう。B2430機の編隊がわが西方水平線上に現れた。レイテ湾政撃を終えてシンガポール方面へ帰投中の日本艦隊主力を捜し求めていたものであろうか、傷付いた「阿武隈」と護衛駆逐艦のわずか2隻に全機で襲いかかってきた。

「対空戦闘」全砲火を開いての死闘が始まった。赤、青、黄色の曳光弾を混じえて、高角砲、機銃を雨あられと集中したが、敵も勇敢に編隊を崩さず直進してくる。爆弾投下高度2,000米ほどでの水平爆撃、約30機のB24から一斉に爆弾が投下され、ポロポロと機体から離れたネズミの糞のような黒塊が、次第に大きくなりながら、頭を一斉にこちらへ向けなおして落下し始めた。250キロ爆弾約100個が「阿武隈」1艦めがけて落下してくる。この爆弾の雨にも全くひるむところなく、わが対空砲火は頭上最短距離にある敵機に砲身も溶けよと猛撃を加えている。ぐんぐんと爆弾は大きくなってわが網膜に突き刺さってくる。甲板上10米の高所にいる私の目の高さをつぎつぎとイルカのように黒光りする爆弾が多数通過した。ああ、多数の命中弾、250キロ爆弾100個が一斉に炸裂する大閃光と火災、爆風、巨大な水柱が収まった時、「阿武隈」は一挙に、ずたずたのぼろと化していた。今迄勇戦奮闘していた私の部下、対空射撃員約100人のうちに生きている者は数えるほどしかいない。肩すり合わして私の両側に立っていた2人の伝令のうち、右の伝令が足元に倒れている。厚さ1センチの防弾チョッキを貫いて腹に穴があいている。抱き起してサイダーを口へ注ぐと、うまそうに一口飲み下して絶命した。私の右のポケットが吹っ飛んでいた。

艦の中央部の上甲板が大きくめくりあがり魚雷発射管付近が猛火に包まれている。機械室、缶室から物凄い勢いで蒸気が吹きあげている。この蒸気噴出では機関科員は全滅であろう。

敵編隊はゆうゆうと旋回し、改めて2度目の爆撃態勢に入りつつある。「予備対空射撃員配置につけ」いくばくの機銃が発射可能であろうか。引き金を握り締めたままの前射手の片腕を、やっと機銃からもぎ放して、近くへ安置し、交代射手が機銃に着く。戦死者を浴室へ運んだ後の甲板は、血で滑って歩かれない。第1撃で乗員の約4割が戦死してしまった。

第2回・第3回の爆撃を受けた。最後まで撃てる機銃は火を吐き続け、主計兵も衛生兵もが、機銃について撃ちまくった。

しかし、遂に最後の時が来た。全艦火に包まれ自艦の爆薬が誘爆し始めた。この弾丸を避けながら負傷者を連れて全員前甲板へ集まった。机・椅子・ハンモックを集めて負傷者をこれに乗せて海へ流し、胸のボケットから恩賜の煙草を出して、配って吸った。

艦から流れ出る重油に火がつき艦の回りも火の海となってきた。「総員退去」艦長、副長を中心に生存者は助け合いながら、遂に艦を去った。急いで艦から離れ、負傷者を集め終わった頃、艦は艦首(おもて)を上げ艦尾(とも)から静かに沈んでいった。

じりじり照りつける南の海に漂流していた生き残り約200人は、4時間後に護衛駆逐艦「潮」に救助されてマニラへ引き揚げた。

ああ、呉軍港出撃いらい25日間、全力を挙げて戦ったが乗艦を失い、また日本連合艦隊はその兵力の半数以上を失って大決戦に敗れ去ってしまった。祖国の前途や正に危し。

 

那智のみが、比島防衛日本軍との協議連絡のためにマニラ湾に入港していたが、かなりの死傷者があって「阿武隈」の生き残りの中から約50人が急ぎ応援に乗艦した。その翌日の11月5日艦載機の大空襲があって「那智」は我々の眼前で3つに折れて撃沈されてしまい、武井敏薦、富井宗忠、藤井弘元(機)が戦死、派遣された50名中わずか10名ほどがずぶ濡れになって帰ってきた。

生存者は残務整理をしながら転勤命令を待った。比島防衛陸戦隊員を命ぜられる者が多かったが、私は内地帰還を命ぜられ、僚友に別れを告げて、修理のため日本に帰る航空母艦に同乗し、呉軍港に向った。この航海中に熱帯病デング熱を発病し、呉に着くとすぐ海軍病院に入れられてしまった。

 

戦艦「大和」出撃と最後

20年1月、軍令部出仕の辞令を受け取り勇んで東京海軍省へ出頭したが、病み上がりには無理な勤務だと、即刻、横須賀航海学校へ回された。ここで予備学生の教育に当たっていると、3月初め待ちに待った第1線復帰の辞令が入った。『戦艦「大和」乗組みを命ず』と。

3月9日呉軍港で内火艇に乗り、懐かしい江田島を回ってその南西海面、柱島連合艦隊訓練基地で「大和」に乗り込んだ。(都竹卓郎と交代)7万2千屯、長さ260米、最大巾40米の堂々たる雄姿に接して、なお日本海軍ここに在りと、大変頼もしく感じた。3月20日すぎには米海兵隊が沖縄島へ上陸し、いよいよ本土決戦、一億玉砕の悲壮感が全国民をとらえていた。

戦艦 大和

4月5日朝、「戦艦「大和」を主力とする第1回水上特攻隊は沖縄島へ赴き陸上部隊を支援せよ」の特攻出撃命令が下った。従うは防空巡洋艦「矢矧」、最新型防空駆逐艦「冬月」以下8隻の駆逐艦。直ちに沖縄への片道分の燃料を積載し、6日夕刻、誰見送る人もなく静かに三田尻沖を出撃した。夕闇泊る瀬戸内海を豊後水道へと向いながら斉唱した最後の軍歌は「海行かは、水清く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ」であった。

艦隊は無事に九州南端を回り東支那海へと西航した。午前9時頃米哨戒飛行艇に接触され、沖縄東方海面の機動部隊からの空襲は正午過ぎになるであろうと、11時赤飯のおにぎりが昼食に配られた。これが最後の食事に

なるかも知れないと思うと、20年のこし方を噛み締める思いであり、父母兄弟、故郷の事々が次々と思い出された。

午後0時20分「対空戦闘配置につけ」 「敵大編隊群続々と、南方から近づく」 「砲撃始め」で決戦に入った。主砲46糎砲9門は射程5万米で、真っ先に3万米あたりへの弾幕射撃を開始した。続いて20糎副砲6門、12.7糎高角砲24門が一斉に火を吐き、25粍機銃約150門は至近の敵磯をなぎ払う。

私は副長補佐として、厳重に守られた司令塔内で、防御総指揮に当たっていた。敵は雷撃機、爆撃機半々で、100乃至200機編隊で第8波まで、延千数有機「大和」を転覆させようと魚雷攻撃はすべて大和の左舷のみに集中された。

戦闘は熾烈を極め、間もなく「大和」にも被害が起こり始めた。中部左舷に魚雷命中浸水。後部副砲に爆弾命中、火災。後部副砲射撃指揮所に爆弾命中、全員戦死。注排水指揮所に爆弾命中、注排水不能。5番機銃砲塔に爆弾命中、全員戦死。左舷後部に魚雷4命中。など、次々に被害が報告されてきた。艦は次第に左へ傾斜して作業が困難となり、また、艦内通信網が寸断され、我々の防御指揮所でさえ、艦内外の状況が次第に分からなくなってきた。

戦闘開始後1時間、第4波の攻撃を受けた頃には、傾斜20度、速力15節、主副砲が傾斜のため発射不能に陥った。他に傾斜復元の方法がなくなり、遂に右舷の機械室と缶室に注水した。ああ悲惨、数百の戦友が汗みどろに働いている所へ、脱出させる方途も、暇もないまま、艦底から注水し水攻めに全滅させても艦の攻撃力を回復しなければならないとは。

ようやく傾斜を直し、全砲火を開いて第5波、第6波を迎え撃った。併し左スクリュー3本のみの航行では速力10節、しかも右へ右へと回るため、傷ついた左舷を常に敵に暴露して戦わなければならない。

一段と被害が増えてきた。舵故障。後部からしつこく舵をねらい続けていた雷撃隊に遂に舵をやられた。左舷中部に魚雷3命中。再び左へ8度以上傾斜し、砲は発砲不能となり機銃のみで応戦する不気味な静けさがやってきた。その時、下部防御指揮所から「浸水間近―天皇陛下萬歳!」の最後の連絡があった。副長は艦橋上部の防空指揮所に奮闘していた艦長の生否が分からなくなったと、艦橋へ上がって行った。(艦長戦死後は副長指揮をとる)

最後の時は迫ったようだ。壮途半ばにして刀折れ矢尽き、ここに総員、艦と運命を共にするのか。午後2時を過ぎて「大和」は大きく左へ傾き中央部から後部へかけて大火災を起こして既に漂流に近い状態となり、敵機も流石に攻撃の手を休めたのか、すっかり静まり返ってきた。

僚斜は35度に及び、机にしがみ付いて立っているのがやっとになり、部下3人に羊羹とサーダーを配った時「大和」は転覆し始めた。ああいよいよ最後。と、その時司令塔前部の操舵室から、境の鉄の扉を開いてどっと10人ほどの操舵関係者が出てきた。「総員退去」の号令が操舵室の伝声管から流れてくる。司令塔のたった一つの出入り口であるハッチから、全員を降ろし、出てみて「しまった」と思った。というのは沈没時の経験のある者がいないのか、皆、平常時の通路を通って上甲板出入り口へと降りて行ってしまう。「待て!」と叫んでも、もう誰にも聞こえないらしい。駄目だ。私は引き返した。とにかく一瞬も早く艦橋外へ出ることだ。幸いすぐそばに高角砲塔へ出るハッチが開いていて、疲れ果てた水兵さんが1人ひっかかっている。60度も傾いていたであろう。床は壁となり、壁は天井に近い態になっていて、這うのがやっとである。この水兵さんを押し出し、一緒に艦橋外に出てみると、もう艦はすっかり横倒しになっており、海面が持ち上ってきて海の中へ放り込まれた。

海中へ放り出されながらも、覆いかぶさって来る「大和」の巨体に押し潰されまいと、バタバタと数回ばた足をした。が、時すでに遅く、大きな渦に巻き込まれてしまった。戦艦「大和」は横転しながら、その全姿を水面下に没しようとした時、弾火薬庫が一斉に大爆発を起こした。この大火炎は遠く南九州沿岸からも望見されたという。(高脇圭三(機)戦死)

それから数分後、死んだものとすっかり諦めていたわが身が太陽のぬくもりを(はだ)に感じながら、ぽっかりと海面へ浮かび上がっていた。すでに巨艦なく、汚れた海面のところどころに、重油を浴びて真黒になった戦友の戦闘帽が、幾つか漂っている。

弾火薬庫爆発時に水中で受けた大衝撃に、後頭部が割れるように痛む。生きていた。生きていたのだ・・・。

しかし島影一つないこの大海原で、これからどうなるのだろう。ついさっき死んでいた方がずっと楽でよかったのであろうか。

       ′

「大和」転覆の直前、第1回水上特攻艦隊司令長官伊藤中将は『作戦を中止す。各艦、佐世保へ帰投せよ』の命令を下して自室にこもって自刃され、また艦長有賀大佐は防空指揮所で砲術長と、航海長は戦闘艦橋で掌航海長とともに、羅針盤に身を縛って艦と運命をともにしていった。

頭の痛みを堪えながら、回りを見渡すと近くに副長野村大佐、副砲長清水少佐、少し離れて比島沖海戦当時「大和」艦長であった艦隊参謀長森下少将も泳いでいる。

やっと、我に返って『副長ここにあり、生存者集まれ』副長補佐としての仕事が始まった。負傷者を集め、その回りに人輪を作ってみると「大和」乗員3,200人中、200人たらずのものが、生き残っていた。

4月初めの東支那海は水なお冷めたく、1時間もたつと歯がガチガチと鳴ってきた。然しその時、味方駆逐艦1隻が水平線のかなたに現われ、見る間に全速力で近づいて来た。

ボートを下ろして負傷者の救助が始まり、元気な者は助け合って縄梯子を上った。

寒さ止めにコニャックが配られ、衣服を改めた後、この駆逐艦「雪風」の負傷している乗員と交代して、配置についた。

もう1艦「冬月」が建全で、(中田隆保負傷)戦場の人員救助を行なっている。「霞」と「磯風」は航行不能で、人員を収容の上、撃沈した。「初霜」と「涼月」は大破していながらも、自力で帰還するということで、4艦各個に佐世保へ向かった。「涼月」などは、艦の前部約4分の1を爆弾にもぎ取られて、後進で戦闘を続けていたものであり、士官の生存者はなく、上等兵曹がこれを指揮して、後進で丸2日かかつて佐世保へ帰り着いた。

 

負傷 帰省 終戦

翌4月8日夕刻には佐世保港へ帰り着いたが、遠くから我々の目を引いたのは、小樽市と同様に港を囲んで段々並んだこの町全体に、絢爛と咲き誇る遅咲きの八重桜であった。血みどろの戦いに友の大部分を失って帰ってきた我々は、余りにも落ち着き済まして桜花に飾られているこの町の姿が、むしろ異様なものにさえ思えた。

その日のうちに我々は沖の島の海軍病院へ収容された。夜になって私は酷く耳が遠くなっているのに気がついた。翌日になると、もう筆談でなければなんの用も足りなくなっていた。沈没時の水中爆傷である。本式な入院生活になってしまい、ここに半月、別府で半月の治療を受けたが、快方へ向かわず、発熱、耳痛、耳漏が加わり、遂に専門家である室蘭の父のもとへ自宅療養に帰ることにした。

5月中旬、一緒に療養していた多数の「大和」の戦友に別れを告げ室蘭へと向かった。途中、呉へ一泊すると呉周辺勤務の兵学校同級生が集まって同期会を開いてくれた。呉には潜水学校があったため、そこの教官、学生をしている連中が多かったが潜水艦、特潜、人間魚雷などで明日にも出撃して征く人々であった。『貴様、家へ帰るのに金を持っているか。これでお土産でも買って行ってくれ』と封を切っていない月給袋を差し出してくれた友もあった。(石津滋君あの時は有難う)

室蘭へ帰ってきてからは、諸先生方から取っておきの良い薬も分けて頂き、めきめきと良くなった。多くの方々から身に余るお見舞いを頂戴した。しかし、お見舞い客の度に、母が『あれもすっかりオシになってしまって、またのご奉公が出来るものかどうか』といっては涙を流すにはほどほど参ってしまった。幸い聴力も次第に回復し、自分では内心ビクビクしていた6月1日の大尉進級、中尉時代の半分以上、病院生活をしていたにも拘わらず、進級の内報を受け取った。

7月3日夜か、初めて室蘭上空をB-29が通過して、この地方の人々を驚かしたが、その翌日、多くの知人、友人に盛んに見送られて、再び第1線へと向かった。

次の配置は、東日本水上特攻隊旗艦駆逐艦「初桜」(戦後には左近允尚敏とポナペ島復員輸送4回、辻岡洋夫復員、艦長は青木少佐)先任将校兼砲術長であった。横須賀で乗艦したが、その日に艦載機の大空襲を受け、前任者がまだ乗艦しており、申し継ぎを終っていなかった為に、私には戦闘配置がなく、この戦闘を艦橋で見物していなければならなかった。こんな立場にあっては、戦死しても犬死のような気がして、嘗て無い恐怖に身の震えるのを、どうすることも出来なかった。岸壁横付け中の戦艦「長門」(高崎慎哉乗艦)が主目標となり、大きな被害を受けたし、その近くに「長門」を守って勇戦していた駆逐艦が、250キロ爆弾1発を艦の中央に受けて轟沈するのを、ごく近くの距離で手をこまねいて見ていなければならなかった。

7月末、本土決戦の特攻作戦に備えて、横浜でドックに入り、艦の手入れをすることとなった。ドックの中では、上から艦全体に網をかけて色々と偽装し、その下で徹夜の作業が続けられた。また移動可能な25ミリ機銃はドックの周囲に配置して、そのころでは連日連夜になっていた敵の空襲から、艦を守らなければならなかった。

8月14日夜、空襲の最中、出撃命令が下った。『伊豆大島南方に敵、大機動部隊現わる。全軍、突撃用意』至急にドックを出て横須賀港へ回航し、弾薬魚雷の搭載にかかったのは8月15日午後2時ころであった。艦長は鎮守府へ作戦の打ち合わせに出かけたが、間もなく色青ざめて帰ってきた。本日正午天皇のご放送があり、日本は無条件降伏した。しかし、これは天皇の御心によるものではなく、側近の腰抜け共の計らいであろう。

横須賀方面でも、厚木航空隊と潜水艦部隊は既に降伏に反対で、迎撃態勢を整えているし、単独敵中へ突入していったものもある。

俺も最後まで戦う。いやなものは艦を降りてもらおう」乗員を集合させよ。俺が話すといきり立つ。

近くにいた潜水艦が『皇国の不滅を信じ、われ出撃す』の信号を発しながら出港して行く。味方飛行機があくまで抗戦しようと伝単をまく。私と通信長の2人は、日本の軍隊は如何なる時も天皇の命に従うべきで、降伏もまたやむを得まい、と艦長の説得に当った。

15日も暮れようとする頃艦長は鎮守府へ呼ばれた。『人を馬鹿にするにもほどがある。戦えというのかと勇んで行って見れば、降伏仮調印の軍使送りだと。俺は絶対にいやだ。断わってきた。』しかし間もなく軍令部から約10人の軍使が乗り込んできてしまっては艦長も、もう反対出来なくなり、翌日、魚雷弾薬を降ろし、魚雷発射管、高角砲、機銃に純白のカバーをかけ白旗を掲げて夕刻出港した。

17日昼、伊豆大島沖で米大艦隊と出会った。戦艦ミズリー号を中心に、この大艦隊が一斉に砲口をたった1隻のわが小型駆逐艦に向けて、威嚇しながら近づいてきた時には改めて無念の涙がこぼれた。軍使をミズリー号へ送り、この艦隊を鎌倉沖へ導いて仮泊させると、もう夜になっていた。遅くなって軍使が帰ってきたが、調印中帯刀も許されず武人としては大変恥ずかしめを受けたと皆泣いていた。 翌18日、艦隊を横浜沖へ先導すると「初桜」は横須賓へ回航して翌19日中には、全乗員退艦せよと米軍の命令を受け、戦闘機の監視をつけられた。その夜は別れの酒を酌み交わし、翌8月19日夕刻、艦内くまなく大掃除を済ませて、全員一斉に退艦した。駆逐艦「初桜」よ、さようなら。帝国海軍よ。 さようなら

 

(なにわ会ニュース7号21頁・8号14頁・9号17頁・1017

昭和41年2月から422月にかけ4回に分けて掲載)

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