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平成22年4月23日 校正すみ

私の戦時体験・北上・回天

渡辺 収一

 生徒生活 

 私は4号(3号)は、42分隊で兵学校生活に入った。昭和1512月である。161月に行われた相撲大会で10人抜きをしてメタルを受領した。しかし、兵学校の相撲の根本は押しの一手である。それに対し、引き技などをもって勝ったので、根幹に反したものであり、実力ではなかったが、なぜか、1号、2号生徒から何も注意は無かった。

 2号は37分隊となり、メタルを持っているため、相撲係補佐となったのであるが、その任を全うするには余りにも無力であり、故木原建君に助けてもらった。     

1号では小銃係となり、張り切った1号生活を送った。

 

 卒業後

 18年9月15日卒業後、軍艦伊勢でトラック島への作戦に参加し、候補生生活に入った。そして、幾多の経験をし、実戦部隊への配属がきまり、私は16戦隊の軽巡北上に着任した。最初の配置は通信分隊の分隊士、通信士であった。ガンルームには後に大和で戦死された臼淵中尉がおられた。19年1月にはアンダマン・ニコバルへの陸軍輸送であった。その帰途、マラッカ海峡入口で敵潜水艦の攻撃を受け、機関室浸水のため航行不能となり、僚艦に曳航されて無事シンガポールの軍港に帰り、軍艦として最初に浮きドックに入り修理することになった。19年1月末と思う。そのうち、19年4月までには北上にいた同期(兵科)4名中3名は転属し、私のみ残ったのである。実際は私にも潜校11期生としての発令があったのに、なぜか私の発令のみが届かなかったのである。それが分かったのが19年7月下旬、マニラで会ったクラスから「潜校への転勤」を聞き、直ちに退艦したいと申し出たが、当時航海士だったので、上司の航海長林大尉から今から着任しても、11期生は8月中旬に卒業するので間に合わない。それより北上もまもなく佐世保に向け出港するから、航海士として勤務を続けるよう言われ、商船を護衛して佐世保に帰ることになり、8月23日に佐世保に帰港、直ちに退艦して大竹の潜水学校に着任したが、11期生はすでに卒業しており、次の12期生に入るよう言われ、休暇を貰って家に帰った。8月30日に帰校し、9月1日に出席するも、卒業とみなされてか、私はP基地に行くように命ぜられ、9月3日P基地に着任、戦地より来た橋口寛と二人のみで、他のクラス、コレスの15名は大津島に着任していた。同じ時、第1回の予科練習生がP基地に着任し、私と橋口は教官を命ぜられた。これ等の予科練習生を大津島へ送り出した後も、同じく2回目の練習生の教官を命ぜられた。この為、戦後も回天隊の東海地区を受け持つことになり、今日に至っている。

当時を思い出して不可解なことは、17名の中で最後まで残された事である。何故なれば、17名(兵科12名)中卒業成績の最下位に近い私が出撃出来ず残されたかということです。

 

(なにわ会ニュース89号 平成15年9月掲載)


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