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平成22年4月18日 校正すみ

晴嵐について

吉峰  

終戦50年を過ぎた今日、今更の感もありますが、72期唯一の晴嵐に関わった者の使命として、概略を紹介致します。

昭和19年(1944年)6月、軍令部作戦室では最後の防衛線マリアナ諸島死守の為「あ」号作戦を発動したが、次第にわが方の敗勢が明らかになり憂色濃い空気に包まれた。

これは明らかに我が攻撃隊が米空母迄到達出来ず途中迎撃を受け、苦戦を強いられていたからであった。

かくて、マリアナ沖海戦は、日本空母9隻、米空母15隻(外に護衛空母14隻)、艦載機は日本430機(実働380機)、米軍1496機という兵力差で1920の両日大空中戦を演じ、戦い利あらず日本は残存機35機、潜水艦は参加20隻中13隻を喪失した。

次にサイパンでは中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将の率いる将兵3,000余名玉砕、マリアナ・カロリン諸島の制海制空権を失った。

これは色々原因が述べられているが、結局、米レーダー兵器の威力によるものであることは明白である。

この頃、軍令部参謀達は、海軍には未だ航空母艦が残って居るが肝心の飛行機がない。陸軍には飛行機が沢山残っている。この母艦に陸軍の飛行機を載せれば機動部隊が出来る。

この案を軍令部総長嶋田繁太郎大将に具申した。この案を当時首相東条英機に掛け合った処、本土作戦に備えるべきで、陸軍機をやるわけにゆかんと、応じなかった。この時藤森参謀には2つの案があった。一つには竜巻作戦、一つは潜水空母艦造りとパナマ運河爆砕作戦の続行であった。

新鋭潜水艦5隻に水陸両用戦車2隻を積んで停泊中の空母に奇襲攻撃をかける作戦であった。これが挫折、次に山本司令長官が開戦直後米本土大都市攻撃を命じたもので、18年までは攻撃機2機を積む400型潜水艦造りであった。

資材難により隻数が減らされ、代りに飛行機を2機より3機に変更され、潜水艦の改造工事が進められた。大正11年のワシントン条約で主力艦を押さえられたのが一因ともいわれている。この発想は一次大戦末期ドイツで、実行に移したのは英国といわれている。

 

遅れて研究した日本海軍だけが実用化に成功した。一潜水艦の狭い格納庫に搭載されるため、小型軽量分解可能の条件に、湿度を考える必要があった。ここで魚雷或いは800キログラム爆弾を積める攻撃機を積む潜水艦で40,000カイリ航行し得ることを目標に計画が進められた。全ては軍機扱いであった。艦爆改良案が出されたが折り畳みが出来ず、水上機でないため訓練ができず、専用機を創ることになり一七試M一六を計画した。主翼は付け根で後桁の上部と結合、これを軸に油圧により90度回転させ胴体に畳み込み、夜間作業を考え、夜間塗料が塗られた。愛知飛行機では18年1〜6月に試作を行い、1811月1号機、試作機8機が完成した。以上を経て晴嵐が誕生した。

構造

単発低翼単葉2座水偵、

フロート付、投下式双浮舟であった。

発動機 アツタ32型水冷  2,240馬力  

幅  1226

長さ  1064

高さ   45

重さ  3,362キログラム

速力  256ノット

800キロ爆弾 魚雷

作戦は特攻でなく次の通りであった。

250キロ爆弾の場合はフロートで収容されるが、800キロと魚雷の場合は胴体着水、機体放棄、搭乗員だけ救い揚げることになっていた。

すでに沖縄も陥落し、米軍前進基地がウルシーにあることで、6月12日頃ウルシー攻撃に内定したとのことである。    

6月6日 第1潜水隊と631空の総合訓練が開始された

6月5日 第1潜水隊の4隻は七尾湾に勢ぞろいした。631空は一部を福山に残し舞鶴誉田に移動

6月15日 黎明射出訓練続いて爆撃訓練

6月18日 殉職した江上少佐、木本少尉(特進)の葬儀が国民学校で行われた。

6月19日 晴嵐(4隻)の水発訓練実施

7月13日 潜水艦舞鶴に回航、出撃準備。当時ウルシーには戦艦3隻、艦艇30、輸送船100、戦艦、空母を含み50隻停泊していた。

 

つまり光作戦(イ1314潜水艦)彩雲2機宛トラック島まで輸送し、同地を基地としてウルシー泊地の偵察を行う。

次に嵐作戦に移り、ウルシー南海域に進出していた(イ400401)が6機で奇襲攻撃を掛けるものであった。この間晴嵐は潜水隊飛行長船田少佐、攻撃隊長浅村大尉(401)、小生 (400) が最後の仕上げを行った。

7月19日醍醐司令長官、井浦先任参謀、坂本通信参謀らが出席、旅館白糸で攻撃隊12名を中心とした壮行会が行われた。

12名の搭乗員

401  1番機 浅村大尉、  鷹野少尉

2番機 高橋上飛曹 野呂上飛菅

3番機 津田上飛曹 谷口上飛曹

400  1番機 高橋少尉  吉峰大尉

2番機 渡辺上飛曹 渡辺上飛曹

3番機 奥山上飛曹 島岡飛曹長

 

長官に授与された自鞘の短刀は、言外に必殺の特攻の成功を祈る証であった。

大湊に寄港、生鮮食料品を積み込み、晴嵐の塗り替えを行った。およそ指揮官たる者、生還の見込みのない用兵をしてはいけない。これが戦術のセオリーであると戦術参謀は言っている。特攻に青春を賭けた人々の心情は作戦のセオリーとか正攻法とかを超越したもっと次元の高いものであったと思っている。

そして搭乗者は当時生き残りの中から選抜された最優秀の精鋭だったので逸早く特攻を察知、自らこの壮挙に参加を申し出た者ばかりであった。

400搭載の晴嵐は艦橋直前の格納庫の中に爆弾魚雷を抱いたまま、翼を畳みフロートを外しカタパルト用の滑走台車に乗っている。

1、2番機が前部から格納され、その天井を利用して3番機のフロートが吊され、これらの奥に3番機が格納されている。晴嵐が発進する場合、長時間かけてエンジンのウォーミングアップをしなくて済む様に、格納筒の左舷より温水用と潤滑用二種のパイプが船より伸びて補給することになっている。カタパルトは圧搾空気利用の四式一号十型で全長26M、射出速度68ノットである。潜水艦母体と格納筒の間では交通筒が設けられ浮上直前に搭乗員、整備員が入り準備作業が出来る様になっていた。

潜水艦が浮上して発進命令が下る筒外に1、2番機を引き出し、機体のジョイントに高圧油のパイプをさし込み油圧を加え折り曲げられた主翼と尾翼の一部を展開する。

 

前記の経緯を経て第1次出撃が実行されたのであるが、出撃までの心情を多少述べます。

前記攻撃隊員の中には妻帯者も2、3名含まれて居り、これを23才の若輩小生が纏めて特攻の使命を果たすに心を痛めた点を特記すると、一海軍大尉の命令丈で心より一緒に体当たりを敢行するには階級を楯にするのでは無く、部下の中に融合して行く事であった。それには今だから明かすのであるが、当時御法度だったが部下の宿舎で一緒に酒を汲み交わし、上司の反発を買ったこともあった。個人的には6月1日付400潜飛行長兼分隊長を命ぜられ満身総加俸(潜水艦・飛行機・外地航海・危険他)の高給大尉であったが、部下統率に腐心の毎日であった事を記憶して居る。出撃の時は小生を中心に一緒に特攻に生死を超越して作戦成功を誓って出撃した。技術的には前記の通り生き残りのベテランばかりで、不安は無かったが、晴嵐については全く整備を含めて困難を極め、一部には殺人機の異名があり不安は残った。50年を過ぎた今日まで半分は他界してしまったが、未だに家族を含め400潜水艦飛行隊の交流を年1回行って当時の絆を保って居る。

 

終戦に際して電信が入り乱れて混乱を来し、正確な電信受信上層部で作戦中止が決定されたのが8月16日夜9時頃で、ウルシー攻撃予定日時は翌17日未明だったので、作戦中止は攻撃予定日時の数時間前であった。終戦時631空では混乱が生じ、青年将校達の行動もあった。

 

潜水艦士官室でも各種意見が出て混乱状態を一時生じたが、結局は海軍総隊司令部よりの一切の武器を捨て内地に向かう。その際国際信号の規定の「ワレ降伏ノ用意アリ」の黒色三角旗を掲揚して、武器、弾薬、機密書類、晴嵐、魚雷を涙ながらに海中投棄した。(翼広げて飛び立つ積もりが翼を閉じたまま海中へ)

 

その後各艦色々あって外地での拿捕を逃れる為、燃料不足を理由に交渉し結局横須賀港(米母艦が停泊して居た)に入港した。かくして数ヶ月臨検使役を経て復員に至る。

 

小生は飛行機なので潜水艦内では便乗者立場として詳細を知る由も無かったが、潜水艦各位の先輩諸兄には色々大変であったことを後で知り、感謝の気持ちと我々飛行作戦の為に潜水艦各位の多大の御苦労と御努力があった事に今更ながら敬意を表します。

 

(付 記)

1122日イ400潜全国大会が行われ、飛行長として生存者搭乗者整備員(家族同伴を含む)と共に参加させて頂きました。同会は24日宮島グランドホテルで士官室6名を含め49名の参加を得て旧交を温め、盛大に行われた。

 

日下艦長(53期)、斎藤先任将校(69期)、島 航海長(71期)、名村通信長(72期)、山口主計長(経理33期・コレス)、小生(72期)の士官を交えて昔話に花が咲いた。来年の下関開会を約して散会した。先任将校より配布された(敗戦前後)なる印刷の一部に、潜水艦の乗員は飛行機の特攻において助かるチャンスを与えられている様なものであった。搭乗員に対し持った複雑な気持ちはここに由来するものであった。

 

当時は将棋の駒的存在であった小生の域外の事ではあったが、僅か3機の攻撃のために最大級の潜水艦に150名の乗員を動員しての効果を考えると、奇想天外の作戦に疑問を持たざるを得ません。翌日先任、名村、山口、小生、4名にて彌山登山に挑戦した。今は野猿公園までロープウェイが在り、それから頂上展望台まで登るのである。僅かの道中でも生徒時代の彌山登山にも匹敵する様に感じたのは年齢のせいだろうと思う。

 

万難を排し登頂、頂上より各方面を見渡して昔を偲んだ。名村曰く。「同期生でも頂上まで登ったのは数少ないのでは」と。小雨をついての登山を満喫、爽やかな気持ちで帰途に着いた。

我々は年齢的にやり直せる事もあったが、巣鴨プリズン5年をへて91才の艦長とお会いして、時代と人生の複雑さを考えさせられた一日でした。

(なにわ会ニュース74号12頁 平成8年3月掲載)

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