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平成22年4月22日 校正すみ

思い出

佐藤 謙

 門脇 国樹兄のこと

私たちのクラスには、兵庫県出身者が6人いたようである。門脇、園田、松山の諸兄とは同分隊員として、起居を共にしたことがあり、三田兄はご承知のように、クラス一番の長身で目立った存在であり、候補生の時竜田で苦楽を共にした。

東北育ちで、所謂るズーズー弁の私にとっては、関西弁は外国語を聞くような感じがした。特に門脇兄の関西弁は、軽いトーンの話し方で、他の諸兄とは違った独特のもので、今でも懐かしく思い出される。

私の出身中学校には、海兵の先輩は何人もいるが、機関学校は私が草分けで、学校生活についての予備知識は皆無に等しかったが、門脇兄は、痩身ながら風格があった。号令練習や課業整列前に、生徒館前の広場を歩く時、悠揚迫まらぬものがあり、日常生活でも落ち付きが感じられた。後で海兵69期の兄さん(尚一氏)がおられる事を知ったが、そんなことで予備知識があり、私のように先の見えない者とは違った余裕があったのかもしれない。

四号の時、猩紅熱が流行したことがあった。私も、当時寒くなると皮膚が赤くなるということで、猩紅熱と診断され、最初は専修学生の学生舎跡の2階の病室に隔離されたが、後で砲台と呼んでいた教育参考資料のある建物に移された。この時、門脇兄、川崎兄と一緒だったように記憶している。

 一号だった50期生徒の卒業式には出られず、病棟のある高台で、泣きながら帽子を振って別れを惜しんだ。

 これより先、分隊競技の剣道で4分隊が優勝したが、門脇兄はその一員として活躍した。私は病室にいて参加出来なかった。剣道は当時続教官が指導官で、中学の3段が初段位に格下げされ、荒稽古で有名だったが、彼は細い体で頑張っていたようである。

三号になって、同じ4分隊がラグビーでも優勝したが、レギュラーだったのは、岸兄と関谷兄の二人で、彼や私は応援役だった。

上田兄の資料によれば、三号も6月に分隊編成替えがあり、門脇兄と5分隊でまた一緒になった。春になると駈足訓練が始まり、奇数・偶数の分隊に分かれて毎日のように走った。海軍では駈足などないだろうというのは一般の考え方で、陸戦訓練や駈足が意外に多いのに驚かされた。

他の訓練は大概うまくこなしていた門脇兄も駈足は苦手であった。しかし遅れると連帯責任で、三号全体が注意されるので、馬力のある者がバックアップし、彼もそれに応えて頑張っていた。

門脇兄は、候補生の訓練を終えると整備関係へ、私は水上艦艇を経て潜水艦へと分れたので、会う機会は全くなかった。往時を偲び改めてご冥福をお祈りする。

 

 潜水艦勤務のこと  

今でも目を瞑ると、潜校時代蚊帳を吊ったベッドで夜遅くまで頑張ったことが思い出される。戦局は急を告げ、科学の先端を行く機関を駆使し、若輩ながら部下を持つ任務の重さに、皆必死の思いだった。そんな中で、指導官だった田辺弥八、高津信彦両大先輩の温容を忘れることができない。

昭和19年8月10日(?)校長室で繰り上げ卒業式を終え、伊36潜に着任したのは空襲警報の出ている時だった。寺本厳艦長、在家喜久機関長のお世話になる。先任将校は今西三郎さんから八巻悌次さんに替わった。同年輩には砲術長として71期の根本克さんがいて、何かと面倒を見て頂いた。

同年10月、米軍のレイテ侵攻が始まると、呉に在泊して回天搭載準備を進めていた各潜水艦は、徹夜の作業で撤去した砲塔を復旧、次々と出撃して行った。伊45潜の寺岡恭平兄の壮行会を開いた時、彼は明日は甲板には出ないと言って、その通り出撃して行った。艦の姿が見えなくなるまで帽子を振った。

36では回天発進部署を作り、潜水艦部の謄写版を使って印刷したことを思い出す。内海西部で訓練を重ねたが、長期航行訓練が必要ということで、伊37、伊47と共に、山口県油谷湾まで訓練に出掛けた。長期航行の際の回天の整備・点検が、初期には大きな課題の一つだったように思う。

第1次玄作戦菊水隊では、伊36には豊住和寿兄、伊37には村上克巳兄、伊47には福田斉兄がいた。いずれも一号の時第二生徒館で一緒であり、豊住兄は二号、一号と同分隊である。

36は、今西太一少尉の3号艇だけが発進した。その後、伊36は悪戦苦闘する事となる。3人の搭乗員を艦内に収容し、架台に密着している3基の回天を振り落とさなければならなかった。

無音潜航の連続で扇風機も廻せず、電動機室の温度は摂氏53度まで上昇、二酸化炭素も既に限界に達し、じっとしていられないので、褌ひとつで、動物園の熊さながら、動きながら電動機の操作に当たった。17時間余の潜航であった。

暫くして豊住兄がやって来て、機械室との間のハッチのところに腰かけ、回天のこと、戦争のこと、などをしみじみと語り合った。当時作戦の中枢にあった人の著書にもあるように、4基の回天を搭載出来たが、艦内から搭乗出来たのは2基だけで、後に菊水隊の戦訓から、全基が艦内から搭乗出来るように改装された。

復員輸送で博多に寄港した時熊本の豊住兄の生家を訪ね、仏前に額ずいたが、その後ご無沙汰ばかりで、申し訳なく思っている。改めて諸兄のご冥福をお祈りする。当地の月山頂上には回天の慰霊塔がある。

361130日に呉に帰着、私は満を持して待機していた佐原兄と交替し、呉鎮附、潜校勤務を経て、呂50潜機関長となり、20年8月15日、大連で終戦を迎えた。

 

 戦後のこと

昭和20年9月、87号海防艦乗組を命ぜられ、復員輸送業務に従事の為、呉から舞鶴に向った。枕崎台風の被害を受けた呉線はあちこちに不通箇所が残っていた。

博多、鹿児島、佐世保を基地に、マニラ、基隆、花蓮港、上海、葫蘆島と足を伸ばし、陸軍の部隊、在留邦人の輸送に当たった。最初は収容人数も少なかったが、後からは甲板に仮設の船室を作り、収容人数も倍位に増えた。

マニラでは現地人に「バカヤロー」と罵声を浴びせられ、米軍のレーションの補給を受けた事もあった。基隆では砂糖を買いに行った乗組員がいて、銃弾を打ち込まれ、翌朝無事戻って来たが、背中にムチの跡が一杯という事件もあった。 満洲で辛い思いをして来たお婆さんから「この船には外国人はいないか。」と聞かれ、日の丸の旗に両手を合わせる姿は今も忘れられない。葫蘆島はわたり蟹が多く、艦腹をガサガサ歩きまわる音で眠れないほどだった。

ナオトカ航路が始まる頃、旧軍人による運航はダメということで、母港で管船業務に就いた。京大農学部水産学科の学生だった上野三郎兄などが、舞鶴管船部へ入浴にやって来たが、当時学生には海軍出身者が多かったように思う。昭和23年に海上保安庁が設置されたが、その前年の暮に退官した。クラスでは「しんがり」だったと思う。

公職追放を受けていたので、最初横浜にある米国のロック・バージを紹介されたが、20歳も年上の人を使う立場だったので、やり辛くてすぐにやめた。23年世田谷の親戚に寄留してNOKの前身の会社に勤務した時、安藤、広田、室井、藏元の諸兄等にお世話になった。まだ大学で学ぶ級友も多かった。

27年に追放が解除され、翌年から教職に就いた。59歳定年だったが、教歴はわずか29年で、大部分が中学校勤務だった。後輩で旧制の師範学校に編入学した人の中には勤続43年という人もいる。退職後は町公民館に勤務し、社会教育の一端を担い、生涯学習の推進に微力を尽している。

毎年、クラス会を始め、十指を越す旧海軍の会から案内を受けるが、出席不良で申し訳なく思っている。その中で荘内ネービイ・ガンルーム会はケプガンを仰せつかっているので、駑馬に鞭打って頑張っている。

荘内とは山形県の海岸部で、鶴岡・酒田が中心となっている。これまで新幹線、高速道路もなかったが10月1日に庄内空港が開港する。71」期より上の方は、全部東京方面に在住し、当地には誰もいない。会員は、地元出身者と勤務の関係で当地に赴任された旧海軍3校出身者で、現在約40名。

海軍記念日の前に1泊で.12月8日の前に忘年会を兼ねて定例会を持ち、8月の自衛艦酒田入港時には歓迎会と計3回の集会を持って、物故者の霊に黙祷を捧げ、親睦を深め、相互の協力を誓い合っている。

(機関記念誌280頁)

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