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平成22年4月19日 校正すみ

最後の艇長講習員  

足立 英夫

終戦直前沖縄の戦局も終末を告げ、残るは本土決戦のみと、帝国海軍の主力攻撃兵力は航空機と小型潜水艦(回天等を含めて)とによる特攻部隊のみになってしまったと言っても過言ではない位の、兵力を蓄積し準備し来るべき決号作戦に備えたのである。小生、期間は短かったが、蚊竜部隊の艇長講習員として大迫の訓練基地にあって日夜猛訓練を受けていた一員として、当時大切に保存して来た資料の一部を公にし、蚊竜の性能、及び水中特攻の配備計画について申し述べたいと思う。

蚊竜(甲標的T型)はハワイに突入した有名な岩佐中佐始め九軍神で知られ、疑問の一人酒巻少尉が捕虞第1号であった事はよく知られているが、あの艇は蓄電池の充電装置がないため、艇の性能は極めて貧弱なものであって、発進すれば帰投不能に近い点は回天の如く、さりとて魚雷を発射する点は潜水艦に等しく、回天の如き必殺の攻撃力もなかった。

その後乙型、丙型と改良され、最後の量産機種が丁型であって、いって見れば開戦前から研究を重ね、最も日本人に適した潜航艇として完成されていたのが蛟竜であり、必ずしも特攻兵器という言葉は回天の出現によって当を得たものではないとまで、その性能が向上し、帰投航海性を持ち、反覆攻撃を重ね得る潜航艇に成長していた。

雷装が魚雷2本であるのと、艇が小型旋回速度も速いこと等、敵艦に対し必中距離に肉迫し単発魚雷で敵艦を沈めるのが主目的で、1回の出撃で2隻の敵艦を攻撃可能で多数の蚊竜を散開させることにより、上陸前の輸送船を攻撃するには最も適した潜航艇であったと思う。更に艇が小さく全長も短いため、敵の爆雷攻撃を受けても一般潜水艦よりは被爆被害は少ないとされていた。

今から考えても当時の技術の粋を尽して完成されており、例えば油圧装置にしても、電池にしても、冷房装置にしても、小さいながら実によく纏めてあった。あと2年早く量産されていれば、その威力が世に残される結果となったであろうと思われる。

残念ながら小生1回も出撃のチャンスなく終戦となったのであるが、せめてどんな艇であったかを紹介し、改良に改良を重ねたた先輩の功を称えたいと思う。

終戦と同時に製造中のものは全部中止され、完成出撃直前の艇は全部呉工廠に集合させられたが、(瀬戸内海配備のものだけではなかったかと思う)その数120隻余あったかに記憶している。終戦直前の空襲で沈座してしまった戦艦、空母、巡洋艦の姿とは全く対象的に、本土決戦に備えた水中兵力の姿がそこにあった。

セブ島にあった笹川艇が1艇当り3隻程の敵艦を沈めた戦例からも、資源乏しい終戦直前これ程の戦力の準備があったことは一般には知られていないまま、20数年経過したかに思われるのである。

 

(なにわ会ニュース1931頁 昭和45年2月掲載)

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