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平成22年4月19日 校正すみ

P基地庶務主任

山之内 素明

私の手許に、昭和1911月3日明治節に撮影した写真が一葉ある。兵学校72期を主力とした第11期の特潜講習の諸兄である。この写真を見ながら筆をとることにする。

主計科から見た大浦基地の感想、想い出を書けと求められて旬日を経過したが、筆が進まぬまま11月を終り、再度催促を受けた。「特攻特集」という編集のためである。「特攻」というと悲想な感慨が先立つのが一般的であろうが、私の勤務した大浦基地の想い出は「特攻」がもたらす悲想感惨烈感など不思議な程私の脳裏に浮かんでこない。全く申訳ない位である。

それ程私にとっては大浦の勤務は楽しく収穫の多いものであった。だから「特攻特集」の意図とかけはなれた文章になることを恐れて筆が進まなかったのである。

さて、小生が第1特別基地隊への転勤辞令を受けたのが昭和19年8月5日だったが隊の所在が分らない。特別基地隊などいうからには南海の孤島の警備隊位しか想像しなかった。いずれにしても行先が分らないでは話にならないので呉人事部の士官係書記(東垣書記とかいわれた)を訪ねたら「毎朝7時桟橋から工廠の曳船が出るからそれに乗ってくれ」との返事、それ以上の事は教えてくれない有様で心細いこと夥しかった。

私の着任した時はまだ大浦をP基地、向いの大迫をQ基地と称して「P基地部隊指揮官海軍中佐山田 薫」とした文書が交換され山田中佐を従来の行きがかり上か「指揮官」と呼んでいたのを奇異に感じたことだった。ガンルームには、後藤 脩、笹川、三笠の72期と小生、軍医中尉の5名の外は、第10期講習の予備学生出身の少尉が約50名位が駐屯して、ケプガンは後藤 脩だった。

後藤 脩のケプガン振りは俊烈であった。一号の四号に対するが如く予備少尉の講習員に対しては、お達示が絶えなかった。笹川、三笠は温和しく、いつも搭乗服を油だらけにして何時訓練に出発して何時帰って来たのか判らないことが多かった。

大浦基地からは交替で搭乗員が大竹の潜水学校に勉強にいった。大竹行は搭乗員にとって余程楽しみであったらしく皆喜んで大竹に行った。大竹に行くには大浦を夕方出発して呉で一泊して精気をつめ替えて汽車で大竹に向うコースが多かったのが原因であったらしい。

大浦に着任してどうやら隊内の情況、隊の存在価値等が判って来た頃続々と72期、73期が着任して来た。第11期の講習員である。俄然私の周囲は忙しくなる。仕事も勿論だが遊ぶ方も、レスでエスプレイを始めたのもこの頃でほとんど72期の面々と一緒だった。笹川がインチのラブレターをこれみよがしに自慢したり、後藤の艶話、伊達の筆下し等、思い出しても話の種になることばかりである。

ところで皆遊んでいたばかりではない。机上も実習も真剣そのもので殊に講習が終って各自艇を渡され艇付が決ってからの艇長1名、艇付2名の一組は寝食を忘れて訓練に整備に励んでいたことは、全く頭の下る想いであった。艇付については家庭のことまで配慮してやって三者一心同体となっていた。

私の記憶によれば、畠中の如きは艇内で起居して寝室のベッドで寝たことはなかったのではないかと思う。それ程艇を愛し艇付を可愛がって出撃に備えていた。だから終戦時彼の自決を聞いた時、さもありなんと彼の心中を察して暗涙を呑んだことだった。 

私も一度小西に勧められて特潜にもぐ打込み、襲撃訓練を見学したが、T型になっていくらか大型化したとはいえ、狭い艇内で搭乗服で身を固めた息苦しさには閉口もし、搭乗員の苦労にはほとほと感心した次第だった。感電防止のため絹製の搭乗服の調達命令を受けた理由もこの搭乗見学で納得出来た。

私自身の仕事についていうと、勿論庶務主任であるが、第1特別基地隊となってからは主計科としては初代庶務主任である。主計科としてはと断ったのはP基地時代から71期の神山さんが代用庶務主任としておられたからで、神山さんは艇長出身であったがP基地に主計科の定員がなかった為、その文筆を買われ庶務主任をしておられ、小生と替った。

第2特攻戦隊司令部が大浦におかれてからは、司令部庶務主任が着任するまで半年間、司令部庶務も兼ねさせられ、先任参謀有近六次大佐の仕事振りに驚嘆し、仕事とはこんなにしてするものだと教えられた。水雷参謀の板倉光馬少佐の張り切り振りには庶務の下士官兵も閉口して、「スサ」の顔を見るなと合言葉ができるなど目まぐるしい日々の連続であった。

小生にとっては当時の参謀連の任事のやり方・発想方法などで今日役立っていることが非常に多いことを感謝している。日に日に膨れてゆく基地では中尉に進級して士官室に入っても腰かける椅子もなく、いつも人より遅れて食事を余儀なくされていた。私の大浦在隊中に72期では笹川がセブに出撃、次いで後藤も出撃した。彼等が出て行く時はいずれも見送ったが、特攻であるが必死ではないという観念があるのか「別れ」が切実ではなかった。むしろ彼等の残した荷物を家庭に送るため整理する時、彼等の家庭の寂しさを想いやってホロリとしたものである。71期の大河信義氏が出撃した時には「これこれのものだけは故郷へ送ってくれ、他は庶務主任に任せるから」といわれ、残された品物を整理したが結局は全部親元へ送付してしまった。これで家族の方がどう感じられた事だろうかと気の毒に堪えなかった。

 私にとって大浦時代は第1特別基地隊が新しい部隊で膨脹してゆく初期に相当したので、新しいしきたりをつくり、よい隊風を作るよう指導されたため、中々張り切っていたようである。戦後、食糧搬出に復員船で大浦基地に回航したことがあったが、大浦時代を作り上げたしきたりがいまだそのまま残っていたのを快く思ったことだった。だから私には大浦基地の想い出は、72期の大勢と(一所轄でこんなに集まることはあまりないだろう)楽しく過した一時期であり、庶務主任としての仕事を本当に教えられた時期でもあり、充実した青春の一期であった。

(なにわ会ニュース19号33頁 昭和45年2月掲載)

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